白マムの以心伝心

タイトル「日本のこと 日本のもの」
をあらためました。
オーフェン・マムの
とりとめのない雑多なブログです。

『とっぴんぱらりの風太郎』刊行記念 キャッチコピーコンテストのお知らせ

2013-10-31 13:39:32 | 本棚

 

本当はみんなにおしえたくなかったんだけど・・・。
だって
なんとしても賞品が欲しいマム号は
倍率があがるのは避けたかった・・・。
ブチブチ

以下はウェブからのコピペです。 

*   *   *

募集期間:10月28日(月)~11月24日(日)
発表:優秀作に選ばれた方には「とっぴんぱらりの風太郎」
特製手ぬぐいを1枚と、
大阪城天守閣・大坂の陣400年プロジェクトからご提供いただきました
「大阪城カレンダー2014」(非売品)を差し上げます。

そして! 最終締め切り後、万城目さんが選んだ最優秀作品には、
この世でたった一つの「サイン入り・因心居士のひょうたん」を差し上げます。

*詳細は本の話web.をご覧ください。

 

 


川端康成 三島由紀夫 往復書簡 のこと 7、それを護って下さるのは川端さんだけだ

2012-04-03 19:17:05 | 本棚
<奈良円照寺 弘法大師堂石仏>



↑奈良円照寺は三島が豊饒の海4部作のために
取材におとずれた尼寺です。

このことは、往復書簡の中で「取材のため、関西と九州に
まいります」としたためられています。

この豊穣の海4部作にて三島由紀夫はノーベル賞受賞を
確固たるものにしようと思っていたのではないでしょうか。

・・・・・・。



さて、このつづきはコチラ(クリック)ご覧ください。
残される子どもたちへの気持をつづった手紙を紹介
しています。




 



gooでの短いブログアップでしたが思いのほかたくさんの
方々におこしいただきとても感謝しています。
このたび、
このブログごとfc2にお引っ越ししました。
どうぞお引き続きご覧になってください。
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ポコmomより

川端康成 三島由紀夫 往復書簡 のこと 6、猫好き・野坂・大いなるおっちょこちょい

2012-03-30 18:13:31 | 本棚
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前回


<付箋紙だらけでわけがわからなくなってしまいました 苦笑>


三島由紀夫は猫好きです。

三島の昭和23年9月28日号第一新聞掲載随筆

・・・・・・
あの憂鬱な獣が好きでしようがないのです。
芸をおぼえないのだって、おぼえられないのではなく、
そんなことはばからしいと思っているので、
あのこざかしいすねた顔つき、きれいな歯並、冷たい媚、
なんともいへず私は好きです。・・・・・・




対して川端は徹夜で犬のお産につきあうほどの
有名な犬好きです。
ワイヤー・フォックス・テリア、コリー、
グレイハウンドと、純血種の犬を手塩にかけて
育てる様は、手厚すぎて滑稽感さえかんじますが、
本人は真剣です。


三島由紀夫と愛猫
作家の猫 (コロナ・ブックス)
posted by (C)poco



往復書簡にもどりましょう。


昭和37年4月17日付の川端康成から三島由紀夫宛てた手紙

・・・・・・
 ノオベル賞推せん委員のもたつきはおもしろいですね
日本側が気のりしないらしいフランス作家たちが日本を推すと
パリから手紙がきたりしました まああなたの時代まで延期でせう
 近いおめでたをおよろこび申し上げます 奥様御大事のなさってください




ここにみられるようにノーベル賞が日本にもたらされるの
時期早尚とみられ、次の世代の三島が妥当とふたりは
思っていたようです。


二人の手紙のやりとりは、超売れっことなった三島、
親友今東光の参議院選立候補の選挙事務局長となり
大忙しとなった川端、との間でも続きます。

面白い記述が三島の手紙にありました。
随分前に野坂昭如のエッセイにて野坂自身が
「三島由紀夫に褒められたんだ」という一文
を記していました。
その証拠が!



昭和41年8月15日付の三島の手紙

・・・・・・
 このごろ読んだものでは、野坂昭如の「エロ事師たち」が
武田麟太郎風の無頼の文学で、面白く思ひました。このごろ
一般に、文学が紳士風家庭風になっているのを苦々しく存じます。
ブル紳の文学など読みたくありません。・・・・・・・




このような箇所を見つけると嬉しく思うものです。

このようにふたりのやり取りがつづくのおですが・・・。

昭和43年10月17日、文学部門で日本人としてはじめての
ノーベル賞が川端に決定を機に二人は疎遠になっていきます。



昭和43年10月16日付の川端から三島に宛てた手紙

 拝啓 春の海(←ママ)奔馬 過日無上の感動にてまことに至福に存じました
 新潮社より百五十字の広告を書けとは無茶な注文 大変な失礼を
この御名作にをかしたやうで御許しください
・・・・・・



この上記の手紙の翌日17日に川端康成にノーベル賞受賞通知が
届いたのでした。


これで、三島存命中にノーベル賞のめはなくなった。
三島はそう思い、また、川端もそう思い
三島にたいして呵責の念をいだきます。
当時のマスコミもそう思ったでしょう。

三島が川端に甘えはじまった長い手紙のやりとりは
三島が自決する昭和45年の2年間に3通のみになってしまいます。

川端がノーベル賞を受賞しなければ三島はあのような蛮行に
付き進まなかったでしょうし、
川端もあのような最期をとらなかったでしょう。

しかし、今になってみると、大作家というのにふたりはおっちょこちょいと
思われます。いえ、余裕がなさすぎます。
1994年、日本文学史上において2人目のノーベル文学賞を大江健三郎が
受賞するのですから。

その時存命ならば三島は70才ですから、ノーベル賞は彼のものでしょう。
(わたくしとしては何故大江健三郎が受賞なのかとんとわかりません)。



昭和44年8月4日付の三島由紀夫より川端康成宛の手紙は
1年後の自決をうかがわせるようなものです。



                                 前回/つづく



   
↑この本は絶対の
おすすめです。


川端康成 三島由紀夫 往復書簡 のこと 5、自画像

2012-03-28 09:06:40 | 本棚
前回


<岐阜、ホテルパークロビーの展示より六文銭さんが撮られた写真>


川端康成の自画像。
いかがですか?
意外でしょ。
ちょっと脱力です。

美術品の目利き。
コレクターで知られる川端の
おちゃめな一面です。

この自画像は川端家も気にいっておられるのでしょう。
川端記念会」のアイコンとしても使われており、
上記のサイトにはいられて下までスクロールされると
わざわざ「この画は、川端康成の自画像」と但し書き
までされています。



昭和34年9月20日付の川端康成から三島に宛てた手紙

・・・・・・近刊の週刊誌でオードリイ・ヘプバンが胆石の
痛みで夜中二寝台からころげ落ちたと読み私も切り取る事が
また惜しくなりました・・・・・・


「虚無の眼の人」は、意外と芸能ネタにも詳しい。



昭和36年5月27日付の川端康成から三島に宛てた手紙

・・・・・・
さていつもいつも御煩はせするばかりで恐縮ですが
例ののおべる賞の問題・・・・・・
極簡単で結構ですからすいせん文をお書きいただきませんか
・・・・・・



この返事は3日後
昭和36年5月30日付で川端におくられます

・・・・・・
ノーベル賞の件、小生如きの拙文で却って御迷惑かとも存じますが、
お言葉に甘え、僭越ながら一文を草し同封いたしました。
少しでもお役に立てれば、この上の幸せはございません。又
この他にも何なりとお申し付け下さいますやうお願ひ申上げます。
・・・・・・


ノーベル賞の日本候補者は大方の予想は
谷崎潤一郎といわれて思われていましたが、
現実は川端となります。
しかし川端本人もまた、推薦文の依頼をうけた
三島も受賞にはいたらないとふんでいたと思われます。
だからこそ、三島も気持よく推薦文を受けたのでしょう。
三島こそノーベル賞にふさわしい!と
三島自身が思っていたでしょう。
だから川端は、

昭和37年4月17日付

まああなたの時代まで延期でせう

と記しています。                             前回/つづく





 


*川端康成自画像は六文銭さんよりお借りしたものです。
     ブログ 六文銭の部屋へようこそ!
     写真は岐阜の旧「みなと館」、現「ホテルパーク」にて撮影されたもの。


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川端康成 三島由紀夫 往復書簡 のこと 4、松坂屋(月曜定休)で揃ふ・・・

2012-03-27 09:13:51 | 本棚
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前回





昭和25年3月15日付の川端康成から三島に宛てた手紙

・・・・・・
 今年度国際ペンクラブ大会、エディンバラにて八月中ごろ一週間、
の正式の招待状届きました。・・・・・・
あなたも一寸行ってみませんか。ペンクラブ代表として推薦する事ハ
困難でせうが、一員として如何ですか。百万円くらいで行ってこられ
ます。百万円くらいハお出来になるでせう。まあ機会ハいくらでもあ
りますが、なるべく早くヨオロッパ見て来た方がよいでせう。
・・・・・・



それに対しての
昭和25年3月18日付の三島由紀夫の手紙

・・・・・・
 本日はご丁寧なお手紙ありがとうございました。
エディンバラへ行ったらどうか、といふ箇所を拝見し
ワアーッとよろこんでしまひ、もう一寸よみましたら、
百万円要ることがわかり、ガッカリしました。
私の力では、宝くじを買ふほかに手がございません。
・・・・・・(←三島本人)それともどこかへ
頼みやうがございませうか?・・・・・・




可愛いでしょう?三島。
外国へ今すぐにでも行きたい心情があふれているし
子どものような文でしょ。

三島は2年後に外遊します。
読む、こちらも「よかったね」と安堵してしまいます。



昭和28年12月18日付川端の手紙

・・・御みごとな巻鮭今日拝受しました
頂戴ものばかりして居る様です



その前は「美しいお菓子」をもらっていますが、
川端もよくお菓子などの贈物を三島に届けています。
あるいは高価な品物(美術品等)のやりとりもあります。


他の作家が羨むような師弟関係が続きます。
昭和33年10月に川端は体調不良のために
夫婦共に東大病院へ入院します。
師を思う三島の手紙は凄いというか、
笑いもこみああげてきます。




昭和33年10月31日付三島の手紙

 前略先日御約束申し上げました如く、父母と話し合ひ、
ご入院に必要の品目をおしらせ申し上げます。

(一)寝具類
一、ベット(←ママ)の藁布団の上に敷く敷布団二枚
一、毛布二枚
一、羽根布団一枚
一、敷布四、五枚
一、枕掛四、五枚
一、円座
一、下着類
一、浴衣五、六枚
一、普通のタオル十枚 非常に汗をかく時の用意
一、湯上りタオル二枚
一、どてら一枚
(二)洗面及び身の廻り品
一、ビニールの風呂敷大小二枚
一、衣紋掛け
一、氷枕
一、懐炉


と、こまごまと75品目にわたって
延々と続きご丁寧にも下記↓へ続き、

右のほとんどの品は、上野松坂屋(月曜定休)で
揃ふさうでございます。



と、なるわけで、
三島の几帳面さ、義理堅さ、愛情が
つまった手紙です。                     前回/つづく






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川端康成 三島由紀夫 往復書簡 のこと 3、三島と太宰

2012-03-23 09:23:29 | 本棚
前回







三島はこまめに手紙を出します。


昭和22年7月17日付の三島の手紙

 勉強の傍ら、勧銀の入社試験を受けて落ちました。
 弟が僕の部屋に来て、「お父様がね、お兄が可哀想だ
と云っているよ、とても絶望落胆してるよ。」
僕「へえ、僕は大抵のことにはへこたれないんだけどね、
昼寝をすれば何でも忘れてしまふ人間だがね、しかしお父様には
絶望落胆してひると思はせておく方がいいんだよ」
僕はこんな親不幸なことを言ひながらも、一寸オヤジに好意を
もちます。



と、親しい友人にだすような内容の手紙です。


学生ながら才能があり、無防備に懐に飛びこんでくる
三島を川端が厭うはずがありません。

三島は、出す手紙にこれから書く長編の構想なども
縷々と書きつづるなど、
高揚した文学青年の顔をおしげもなく
みせています。


昭和22年10月8日付の三島の手紙

・・・・・・
 太宰治氏「斜陽」第三回も感銘深く読みました。
滅亡の叙事詩に近く、見事な芸術的完成が予見されています。
・・・完成の一歩手前で崩れてしまひさうな太宰氏一流の
妙な不安がまだこびりついています。
太宰氏の文学はけっして完璧にならないものなのでございませう。
しかし叙事詩は絶対に完璧であらねばなりません。
「斜陽」から、こんな無意味な感想を抱いたりいたしました。



芥川賞のことあれこれに書きましたが、
太宰は芥川賞ほしさに女々しい手紙を川端康成に
書きおくっています。
川端は太宰の生活の乱れを不快に思い選評にそのことを
はっきりと残しています。

<第1回芥川賞 太宰に対する川端の選評>
「逆行と道化の華は一見別人の如く、そこに才華も見られ、
なるほど「道化の華」の方が作者の生活や文学観を一杯に
盛っているが、私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、
才能の素直に発せざる憾みあった」


その川端に、わざわざ斜陽の感想をおくりつける三島。

三島はこの年の1月に太宰に面とむかって、
「ぼくは太宰さんの文学は嫌いなんです」といったことは
有名です。
それに対して太宰は「嫌いなら来なけりゃいいじゃねえか」
言い放ち、「ホントは好きなくせに」と言ったとか言わなかったとか。

三島は太宰の才能に嫉妬していたのでしょう。
だからわざわざ川端康成に無邪気を装って
手紙をだしたのでしょう。


  




無邪気を装う三島。
初やつだなあと思う川端。

                                   前回/次回





  

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川端康成 三島由紀夫 往復書簡 のこと 2、甘え上手な三島由紀夫

2012-03-22 18:12:19 | 本棚
前回






東大学在学中、三島由紀夫は川端康成に
処女小説集、「花ざかりの森」を送ります。


私たちの想像する川端は人間嫌いで
若い人に目をかけるような人物とは
思えません。
が、
実は彼は昭和10年頃までは批評文をよく書き、
添削などもひきうけ新進の小説家に
とても注意をはらっていたといいます。
その注意は嫉妬などではなく
育てるという意味でです。

あの風貌からは意外です。

それが途絶えたのは期待し得る新人が出て
こなかったということ。

目利きの川端からすれば淋しいものだったに
違いありません。

そこへ出てきたのが三島由紀夫です。

川端は「花ざかりの森」の拝受の返礼を
即座に出します。

それは昭和20年3月8日。
東京大空襲の2日前です。

返礼には疎開の荷造り中の物を見に行ったとあり、
「宗達、光琳、乾山をみて、近頃の空模様すっかり
忘れました」となんとはなしにおっとりと
したためられています。

それに対して10日の大空襲をはさんでの三島の
返信(16日付け)は「都もやがて修羅のちまた」と。

戦局のなまなましさを感じとることができる
書簡のはじまりです。


三島は文壇に対してとても野心があり、
デビューを切望して動いていました。
川端に処女作を送る前には佐藤春夫の門を
叩いたりもしています。
が、
川端についたのは賢明、あるいは利に聡かった
といえます。
川端は、この新人の面倒をとてもよく
みます。

三島も川端もお互いに筆まめだったのでしょう。
文通のようにやりとりがはじまります。






三島はあふれるような文学の思いや自分の考えを
丁寧な言葉ですが、伸び伸びと素直に語ります。

↓昭和21年4月15日付の三島の手紙です。

「雪国」については(この作品は何度拝読しましたことか!)
あまりに大きく高く、小さな私には牧童がいつかあの山へも
登れるかと夢想する彼方の青いアルプスの高峯のやうに仰がれる
のみでございます。」


三島の手紙の末尾は常に

何卒御身大切に遊ばしますやう。

で、おわります。


川端が可愛がらないはずはありません。                    前回/次回




  




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川端康成 三島由紀夫 往復書簡 のこと 1

2012-03-21 20:10:20 | 本棚





昭和20年3月8日の手紙のやりとりではじまる
川端康成・三島由紀夫往復書簡 (新潮文庫)
たいした本だといつも思う。






                                    次回



  

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芥川賞のことあれこれ その7

2012-02-26 11:57:27 | 本棚

村上龍、村上春樹、もう一人のMは、




宮本輝です。




彼らは多少の年齢差はあれど同世代といって
よいのではないでしょうか。
小説家としてデビューしたのもほぼ同じです。


1976年 村上龍  「限りなく透明に近いブルー」芥川賞受賞
1977年 宮本輝  「蛍川」芥川賞受賞
1979年 村上春樹 「風の歌を聴け」群像新人賞受賞


宮本輝は現代日本作家の売れっこ純文学作家のなかで
唯一、『超常現象』を小説の中に持ち込まない人です。

但し「泥の河」のお化け鯉や蛍川のラストシーンを超常現象と
ともとれますが。


    


    


さて、
村上龍さんはなんでもありで、テレビ番組も持つほどマスコミに
顔をだし、自分の腹のうちも上手にだす商売上手な作家さんです
からこの際、脇にて休んでいただきます。


問題は宮本輝さんです。

まず、村上春樹さん。
彼は日本の作家を全く相手にしていません。
あるいは日本の文学界(小説界)を、
相手にしていない。
といっても日本文学に関する教養は、
実家が寺でありお父上が国語の教師ということもあり
夕食を食べながら、「日本霊異記」や「源氏物語」が
とりざたされた中で育ち、相当なものです。
経済的にも恵まれている。


かたや宮本さんは家庭的に苦労をしいられ、小説の中に
苦労した自分が投影されている作家です。



ある時期、わたくしは宮本さんの作品を憑かれたように
読み食べました。
それは意図的に何かを得よう、つかもうとか、と
思ったのではなく、純然たる面白さにひかれてです。
デビュー作の泥の河からエッセイにいたるまで
貪りました。


そのときふっと浮かんだのが、

「宮本さんは、村上春樹さんを意識しているなあ」

ということです。
これは、わたくしの思いこみなのですが。

そして、「村上春樹さんを嫌っているなあ」

ということです。なにか文章にしるされているということ
ではありません。
何度も言いますが、わたくしの思いこみ、直感です。

面白いことに、宮本さんのファンは春樹さんを嫌っています。
あるいは読まない。友人に何人かそういう人がいます。
「村上作品は意味不明の絵空事」だそうです。

わたくしにすれば小説に意味を求めることはそれこそ無意味
で、物語として入り込んでいければ、それでよしなのですが。

かたや、村上春樹さんは眼のはしっこにさえ、宮本さんを
とどめていない。
彼の眼は外国の文学(特にアメリカ)にむいている。
これは宮本輝さんにしてみれば悔しいことだろうと思います。

以上がわたくしの思いこみです。








さて、芥川賞にもどりましょう。



1995年より芥川賞選考委員に宮本輝が
くわわります。

その翌年
平成8年(1996年)115回受賞作は


川上弘美 「蛇を踏む」です。






その物語の摩訶不思議なことと完成された美しい文章に
わたくしなど感嘆したものです。


選考委員

池澤 夏樹
石原 慎太郎
大江 健三郎
大庭 みな子
黒井 千次
河野 多恵子
田久保 英夫
日野 啓三
古井 由吉
丸谷 才一
三浦 哲郎
宮本 輝


選考委員の評価は非常に高いものでした。


丸谷才一の選評をあげましょう。

「文句のつけやうのない佳品である。
有望な新人を推すことができて嬉しい。」
「普通、変形譚といふと何か危機的な感じがするものだけれど
、ごく日常的な感じである。」
「普段の暮しのなかにたしかにある厄介なもの、
迷惑なものを相手どらうとしてゐる。それがじつに清新である。」
「書き出しもよく、真中もよく、結末もうまい。」


ところが、ふたりの選考委員がこの作品をまったく評価していません。

石原慎太郎と宮本輝です。

宮本輝は、

「私はまったく評価していなかったので、
最初の投票で委員の多くがこの作品を推した
ときには驚いてしまった。」
「蛇が人間と化して喋ったりすることに、
私は文学的幻想を感じない。」
「私は最後まで「蛇を踏む」の受賞に反対意見を述べた。
寓話はしょせん寓話でしかないと私は思っている。」


この選評はわたくしからすれば、宮本輝は自分を
「小説家としてみずからダメ宣言」をしたような
ものだとみてしまいます。
想像性と創作性の欠如。
小説家としてこの人はなにをやってきたのだろうと
さえ思ってしまいました。

「蛇が人間と化して喋ったりすることに、
私は文学的幻想を感じない。」・・・これが
売れっこの作家のいう言葉だろうかと
暗然としてしまいました。

泥川の鯉はなんだったのだろう。
あの瑞々しい感性はどこいいったのだろうと思って
しまいました。
「寓話はしょせん寓話」・・・寓話も物語であり
小説なのではなかろうか・・・。


  



また、わたくしの思いこみにもどります。

この川上弘美の選評を読んで
わたくしが思っていた「村上春樹嫌い」は
わたくしのなかで絶対的なものになって
しまいました。


    


村上作品は一角獣がでるわ、羊男がでてくるわ、
壁は通り抜けるわ、
それよりなにより寓話のつみかさねですから。


  


さて、記憶に新しい

平成23年(2011年)下半期146回は受賞は2名。

円城 塔 「道化師の蝶」
田中慎弥 「共喰い」


選考委員

石原 慎太郎
小川 洋子
川上 弘美
黒井 千次
島田 雅彦
高樹 のぶ子
宮本 輝
村上 龍
山田 詠美



円城塔の選評をみてみましょう。


「賛否がこれほど大きく割れた候補作は珍しい。」
「私はその中間の立場にいて、私には読み取れない
何かがあるとしたら、受賞に強く賛成する委員の意見に
耳を傾けたいと思っていた。」
「最近の若い作家の眼の低さを思えば、たとえ手は低くても、
その冒険や試みは買わなければならないと思い、
私は受賞に賛成する側に廻った。フィクションになりそこねた言語論
としてあらためて読むと、妙にフィクションとして成り立ってくる。」



これは宮本輝の評です。
この円城塔の作品は失敗作だとわたくしは思っています。
ところが、宮本輝は、

「受賞に強く賛成する委員の意見に耳を傾たい」
と、いい賛成票を投じます。


その、強くすすめたのが誰あろう川上弘美なのです。




芥川賞の選考委員のあれこれは一編の物語です。
これが面白うなかろうはずがありません。



今回の平成23年(2011年)下半期の選考をもって
石原慎太郎は選考委員を退くことになりその
席に奥泉光がすわります。
彼は小説家というより、職業選考委員です。
選考委員の手数料でたべているのかなあと
思えるほど、選考委員に名をつらねています。
地方の文学賞をのぞいてみてください。
彼の名前をあちらこちらで目にします。



再度 第1回選考委員の名をあげましょう。


川端 康成
菊池 寛
久米 正雄
小島 政二郎
佐佐木 茂索
佐藤 春夫
瀧井 孝作
谷崎 潤一郎
室生 犀星
山本 有三
横光 利一

小説で戦ってきた人々です。


小粒の選考委員に、血を吐く思いで小説をかいている
作家の卵が今もいるとしたら(田中慎弥?)
あれこれ言われたくないだろうと
わたくしは思います。



ここらで、村上春樹が選考委員になったら随分と
明日を夢見る無名の書き手を奮い立たせることでしょう。



  


  




*芥川賞あれこれ ///////


                                        前回/追記
    

参考文献・参考ウェブ
芥川賞90人のレトリック 彦素 勉 / 回想の芥川・直木賞 永井 龍男
/芥川賞の研究―芥川賞のウラオモテ(1979年) 永井 龍男
/文藝春秋/週刊文春/ウエブ 芥川賞のすべて・のようなもの


*「芥川賞のすべて・のようなもの」はとても優秀なサイトです。
興味のある方は是非ご覧下さい。
引用に関しては管理者の許可を得ていることを明記
いたします。


  

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マムより


芥川賞のことあれこれ その6

2012-02-25 11:04:42 | 本棚





1979年 村上春樹は群像新人賞を受賞します。

受賞作「風の歌を聴け」。

その3年前に村上龍が「限りになく透明に近いブルー」にて
この賞を受賞し芥川賞をも受賞します。



村上龍と角川春樹の「パクリ」を思わせるような村上春樹
という本名には、申し訳ありませんが巷では笑がおこった
ものです。

余談ですが「ブエノスアイレス午前零時」で
129回芥川賞を受賞した藤沢周も本名で
「藤沢周平のパクリではないと」本人が、弁明のコメントを
していたのは微笑ましかったものです。

話しを村上さんに戻しましょう。

村上春樹は
昭和54年(1979年)81回芥川賞の候補にあがります。

候補作
「風の歌を聴け」

選考委員

井上 靖
遠藤 周作
大江 健三郎
開高 健
瀧井 孝作
中村 光夫
丹羽 文雄
丸谷 才一
安岡 章太郎
吉行 淳之介

永井龍男にいれかわり
開高健と丸谷才一が加わっています。

丸谷才一と吉行淳之介は群像新人賞の選考委員も
兼ねており、群像でも村上を押し、当然
芥川賞候補として推薦します。


丸谷才一の選評。

「アメリカ小説の影響を受けながら自分の個性を
示さうとしてゐます。」
「もしこれが単なる模倣なら、文章の流れ方がこんなふうに
淀みのない調子ではゆかないでせう。
それに、作品の柄がわりあひ大きいやうに思ふ。」

が、
受賞は重兼芳子、青野聰の両氏となりました。

第83回(1980年上半期)では「一九七三年のピンボール」が候補と
なりましたがまたも受賞することができませんでした。

芥川賞をのがした理由は、

群像新人賞を受賞した村上は矢継ぎ早にエッセイや短編小説を
発表し、若者の旗手のような存在になっていきます。
その存在がまぶし過ぎた・・・。
あるいは、10年前に受賞し小説の姿をかえたといわれる
庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」の受賞が響いたと
いわれています。

「赤頭巾ちゃん気をつけて」でいちやく有名作家の仲間入りした
庄司薫は「さよなら怪傑黒頭」「白鳥の歌なんか聞こえない」等
を出版するも1977年以降、庄司いわく「総退却」、つまり
小説を発表していません。
職業は中村紘子の夫というところでしょうか。


村上春樹が芥川賞を受賞しなかったのは、この庄司薫のように
ベストセラーをだしたにもかかわらず、力尽きあとが続かなかった
二の舞を危惧したため・・・ともいわれています。

しかし、それではなぜ村上龍(但し、今もって旺盛に作家活動を
続けている)や池田満寿夫に渡したのでしょうか。
説明がつかないのでは。

また、芥川賞は直木賞と違い新人に出す賞であって、作家としての
持続性は問わないのではなかったでしょうか?



結局つまるところ、村上春樹は芥川賞を太宰治のように切望
していなかった。あるいは2回受賞をのがしたことで見限った
といったほうがいいのではないでしょうか?
もし、芥川賞がほしいのならば、芥川賞を受賞しやすいと
いう原稿用紙100枚前後の中編を書き続けるはずで、
彼が次にだした小説は長編の「羊をめぐる冒険」でした。







1981年に講談社から村上龍と村上春樹の
対談集が出版されます。

この本を読むと、当時村上春樹が龍をとても尊敬していたことがわかります。
春樹は龍が芥川賞受賞後の2作目の「コインロッカー ベイビーズ」に
素直に敬意をあらわしています。
が、
この「ウォーク・ドント・ラン」は絶版です。
もし今も流通しているなら間違いなくロングセラーなのでしょうが、
若気のいたりというか、春樹さんはとても饒舌で、高校生時代の女性経験の
ことや、子供が欲しいなどというプライベートな発言をしており、
流通して後悔したのではないでしょうか。増刷されなかったのは多分
村上春樹の了承がとれないのでしょう。








現在にいたるまでの村上春樹の活躍はわたくしがのべるまでもありません。

彼は日本文学全集に載せる作品のことで編集者ともめ、その編集者が
責任をとる・・・それは入水としてかたちになったり、
信頼していた編集者が原稿を持ちだし、高額で古書店にうりとばしたりと
作家としてかなり辛い立場を経験します。
が、作品は停滞することなく書かれ、足場は外国へときずかれて
今日にいたるまで出す作品すべてがメガヒットなどいわずもがな。




村上龍、村上春樹ときたらもうひとりのMは?



                                        前回/次回

*芥川賞あれこれ ///////


   


参考文献・参考ウェブ
芥川賞90人のレトリック 彦素 勉 / 回想の芥川・直木賞 永井 龍男
/芥川賞の研究―芥川賞のウラオモテ(1979年) 永井 龍男
/文藝春秋/週刊文春/ウエブ 芥川賞のすべて・のようなもの

*「芥川賞のすべて・のようなもの」はとても優秀なサイトです。
興味のある方は是非ご覧下さい。
引用に関しては管理者の許可を得ていることを明記
いたします。


  

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マムより


芥川賞のことあれこれ その5

2012-02-24 16:30:25 | 本棚

村上龍が受賞した1年後。
昭和52年(1977年)77回受賞作は

池田満寿夫「エーゲ海に捧ぐ」です。


選考委員

井上 靖
遠藤 周作
大江 健三郎
瀧井 孝作
中村 光夫
永井 龍男
丹羽 文雄
安岡 章太郎
吉行 淳之介


選考委員に遠藤周作がくわわり
安岡章太郎、吉行淳之介と
第三の新人といわれる世代の作家が
3人となります。

といってなにか新しい選考風景がひろがる
かというとそういうこともない。
それがまた第三の新人らしいのですが。
しかし文士文豪が欠けていき、いれかわりに
第一線の売れっこであり、小説家として肝の
すわった作家がはいったということは
芥川賞にとっては私見ですが、
プラスだったと思えます。





この作品に対して選評はまっ2つに分かれます。


遠藤周作は、


「真向から意見が二つに分れたところにこの作品の
性格がある。私はこの作品を支持した。」
「決して前衛的な小説ではない。」
「耳で聞える声と眼に見えるものの描写しかない。
にもかかわらず電話に反応する二人の白人の女の
なまなましい嫉妬は、彼女たちの動きで
なまなましく伝わってくる。」
「いずれにしろ、この作者の資質を否定
することはできない筈である。」

と述べ、
中村光夫は 

「抜群の出来です。」という言葉を使っています。


ところが、当時文藝春秋編集長として司会を
務めた半藤利一氏が証言するには、
前年の村上龍の受賞にも猛反対した
永井龍男は

「俺に意見はもうない。戦死だ。」

という言葉を発し、選考後に
料理がだされると手をつけず
「本日はこれにて失礼する」と席をたたれ
自ら選考委員を退いたそうです。

村上龍、池田満寿夫と続いた正統芥川賞から
逸脱した(永井からみて)小説に堪忍袋の緒が
切れてしまったのでしょう。

見事な引き際ですね。
芥川賞は受賞側にも物語がありますが、
選考委員にもさまざまな模様が織りなされて
います。

半藤さんは選考委員の思い出として三島由紀夫
のことも週刊文春2月2日号にてのべておられます。

『「三島由紀夫は選考会が終わると、雑談をしながら
選評をサラサラと書き一字の直しもなく
料理も食べずに「それじゃあ」と帰っていく。
格好良かった」。』

これはもう三島のコテコテの美学ですよね。


わたくしは思うのですが、芥川賞受賞に至らずも
あるいは酷評されたとしても三島由紀夫や川端康成他
の綺羅星の作家につつかれただけでも大金星では
ないでしょうか。


問題は村上春樹です。



  



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芥川賞のことあれこれ その4

2012-02-24 09:02:14 | 本棚


「赤頭巾ちゃん気をつけて」の次に
お祭騒ぎになった受賞作といえば、
昭和51年(1976年)75回受賞作

村上龍の「限りなく透明に近いブルー」です。


選考委員

井上 靖
瀧井 孝作
中村 光夫
永井 龍男
丹羽 文雄
安岡 章太郎
吉行 淳之介





この作品を受賞した時、村上龍は美大在学中
の学生でした。
内容は、福生(米軍基地)での女と薬の日々を描いた
反道徳的(大時代的言い回し)ということで、
群像新人賞を受賞したときから、彼をとりまく
状況はまるでカーニバルのような騒々しさでした。

が、

芥川賞選考委員の積極的支持は過半数をとるうえ
選評も非常によいものでした。
芥川賞受賞作品の中で「赤頭巾ちゃん」にならぶ
好意的選評です。

例えば吉行淳之介は

「この数年のこの賞の候補作の中で、その資質は群を抜いており、
一方作品が中途半端な評価しかできないので、困った。」
「どこを切っても同じ味がする上にやたら長く、半ばごろの
「自分の中の都市」という理窟のような部分に行き当って、
一たん読むのをやめた。」「作品の退屈さには目をつむって、
抜群の資質に票を投じた。この人の今後のマスコミとの
かかわり合いを考えると不安になって、「因果なことに才能がある」
とおもうが、そこをなんとか切り抜けてもらいたい。」

と言い、丹羽文雄は

「芥川賞の銓衡委員をつとめるようになって三十七回目になるが、
これほどとらまえどころのない小説にめぐりあったことはなかった。
それでいてこの小説の魅力を強烈に感じた。」
「若々しくて、さばさばとしていて、やさしくて、
いくらかもろい感じのするのも、この作者生得の抒情性のせいであろう。」
「二十代の若さでなければ書けない小説である。」

と、褒めています。
そして中村光夫にいたっては、

「無意識の独創は新人の魅力であり、
それに脱帽するのが選者の礼儀でしょう。」

とまでのべています。



ここまで言われると、三島由紀夫や
川端康成の選評をきいてみたかった
ものですが、すでに泉下の人です。


この後、村上龍は村上春樹さえも憧憬する
「コインロッカー ベイビーズ」を出し
才能をあますところなくみせつけます。








その頃の村上春樹は「風の歌を聴け」で龍に
遅れること3年で群像新人賞を受賞したにも
かかわらず芥川賞をのがし、次作の
「1973年のピンボール」がまたも芥川賞を
のがすというヤレヤレ的騒動の渦中でした。







ヤレヤレ・・・だいじょうぶマイ フレンド・・・。

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芥川賞のことあれこれ その3

2012-02-22 17:50:53 | 本棚
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に移転いたしました。
どうぞお越しください。*



芥川賞をいちやくしらしめたのは
昭和30年34回受賞の
石原慎太郎「太陽の季節」。
ということは間違いないでしょう。

しかし、並行してあげなければいけない作品が
あります。
それは、昭和44年61回受賞作
庄司 薫の 「赤頭巾ちゃん気をつけて」です。






この「赤頭巾・・・」時の選考委員は
やはり文士文豪という
冠が似合う先生がたです。


石川 淳
石川 達三
井上 靖
大岡 昇平
川端 康成
瀧井 孝作
中村 光夫
永井 龍男
丹羽 文雄
舟橋 聖一
三島 由紀夫


この「赤頭巾・・・」は
今の人にどんな作品か一言でわかってもらおう
とするならば「オザケンみたいな小説」で、
きまりです。
と、書きながら、オザケン自体がもう過去形で語られているので、
どう説明すればよいやら。


高偏差値、日比谷高校、甘いマスク、
学生運動、おちゃめな彼女。

この小説のキーワードをあげるなら上記のよう。
文体は軽やかで口語調。

ベストセラーとなり、映画化、NHKドラマ化も
されたものです。
ついでに書くならば、小説の中に紘子ちゃんとして
登場させたピアニストの中村紘子さんとの結婚は
当時大ニュースとなりました。


随分脱線してしまいましたが、この小説が出たことによって
日本の現代小説は随分変わりました。
それまでの自然は重々しくなければならない。
青春とは重くて暗い。
等の重しがとれて、軽くポップな文学がお日様を浴びるようなります。


この時の芥川賞選考委員の選評を紹介しましょう。


三島由紀夫
「才気あふれる作品だと思う。」
「饒舌体で書きつらねながら、女医の乳房を見る
ところや、教育ママに路上でつかまるところ
などは、甚だ巧い。」

丹羽文雄
「面白かった。」
「面白い小説のジャンルでは群を抜いていた。
これはこれでよろしい。」

瀧井孝作
「現今の学校卒業生の生活手記で、十八歳の少年にして
は余りにおしゃべりだが、この饒舌に何か魅惑される、
たぶらかされる面白味があった。」「構成も面白く、
繊細な美しさがあった。筋のない小説らしい。」

大岡昇平
「現代の典型の一つを、「猛烈」「最高」など流行語で
書き表しているのに興味を惹かれました。」
「この作品が「新しさ」という点で、芥川賞に
ふさわしいのではないか、と推薦しておきました」


どうです?
ベタ褒めでしょ。
他の先生方も非常に好意的で、芥川賞の選評で一番
ほめられている作品ではないかと思います。

かく言うわたくしもこの作品は大好きで現代小説の
金字塔だと思っています。この金字塔に関しては
村上春樹の「風の歌を聴け」常にがあがりますが、
その8年前にでたこの小説こそだと思っています。


べた褒めの選評をあげましたが、実は川端康成氏は、

「おもしろいところはあるが、むだな、
つまらぬおしゃべりがくどくどと書いてあって、
私は読みあぐねた。」と。

*選評の引用は「芥川賞のすべて・のようなものより

この選評を読むだけで楽しくなってしまいます。



作家の半藤一利氏は文藝春秋社の編集者としてこの
芥川賞選考会の司会などつとめておられたのですが、
川端康成氏のことを

「怖かった、といえば、川端康成さん。
ほとんど発言しないのだが、
『これはいいと思います』と一言の
重みがあり、議論の流れが変わることもあった。
存在感は絶大でしたね」と。
*引用週刊文春

あの虚無そのもののようなぎょろ目で
言われたら、それはもういうことを
きいてしまうでしょう。



この川端康成の「石原慎太郎の太陽の季節」の
選評は、

「第一に私は石原氏のような思い切り若い才能を
推賞することが大好きである。」
「極論すれば若気のでたらめとも言えるかもしれない。
このほかにもいろいろなんでも出来るというような若さだ。
なんでも勝手にすればいいが、
なにかは出来る人にはちがいないだろう。」

と、いうもので同じような若気の作品の庄司薫作品の
無関心さと随分違います。







この時選者に三島由紀夫がいますが、
三島は作家デビュー前に何通もの
ファンレターからはじまる甘ったれた手紙を
川端康成におくり、またそれに康成自身も応え
とても可愛がっています。



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芥川賞のことあれこれ その2

2012-02-21 16:57:51 | 本棚

前回、選者が小粒といってしまいましたが、
第1回目の選者のすごいこと。

川端 康成
菊池 寛
久米 正雄
小島 政二郎
佐佐木 茂索
佐藤 春夫
瀧井 孝作
谷崎 潤一郎
室生 犀星
山本 有三
横光 利一


まさに文士と文豪の集まりです。
時代劇のお芝居でもはじまりそうです。

ご存知のことと思いますが、芥川賞は
菊地寛が親友の芥川龍之介を偲び
創設した新人小説家に与える賞です。


第1回受賞作は石川達三の「蒼氓 (新潮文庫)」
です。






候補者のなかには、高見順や太宰治がいました。
この頃の太宰治は薬物中毒症となり多額の金銭を必要としており
小説家としての保証として、そしてそれ以上に賞金500円が
必要だったようです。

大方の予想は「逆行」と「道化の華」2作が候補にあがった
太宰治が受賞するということでしたが蓋をあけると落選。

この時の川端康成太宰に対する選評、

「逆行と道化の華は一見別人の如く、そこに才華も見られ、
なるほど「道化の華」の方が作者の生活や文学観を一杯に
盛っているが、私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、
才能の素直に発せざる憾みあった。」というもので、

太宰は「作者目下の生活に厭な雲ありて」に過敏に反応し
「川端康成へ」と題する文章を掲載、
「私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思ひをした。小鳥を飼ひ、
舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す、さうおもった。
大悪党だと思った」と川端をなじり倒すのですが、
これに対し川端は

「根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい。・・・生活に厭な雲云々、
も不遜の暴言であるならば私は潔く取消す」ときわめて大人の対応
をしたのは有名な話です。







太宰はこれほど川端を攻撃したというのに、
翌年の第3回芥川賞決定前に女々しい手紙を「大悪党」に
おくります。

「何卒私に与へて下さい。一点の駈け引きございませぬ。
深き敬意と秘めに秘めたる血族感とが、右の懇願の言葉
を発っせしむる様でございます。
私に希望を与へて下さい。私に名誉を与へて下さい。
晩年(候補作)一冊のみは恥かしからぬものと存じます。
早く、早く、私を見殺しにしないで下さい。
きっとよい仕事ができます」


わたくし自身は逆行はちょっと散漫で好きではありませんが、
道化の華も晩年も非常によい作品だと思っています。
死んでなお増刷され続けているのがのがその証拠でしょう。

太宰は短編の名手ですし、ユーモア作家でもあり
文章もとてもきれいです。


個人的には短編の「眉山」が好きです。


余談ですが、
太宰が芥川賞をとれなかったということは素行が悪すぎた
ということも本の少し影響したかもしれませんが、
次女の津島佑子さんがやはり芥川賞を受賞されていないのは
解せません。











<太宰治 入水地に置かれている玉鹿石(三鷹駅南口)>

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芥川賞90人のレトリック 彦素 勉 / 回想の芥川・直木賞 永井 龍男
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芥川賞のことあれこれ その1

2012-02-15 19:37:49 | 本棚
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マムより

  






2011年下半期の芥川受賞作を読んでみました。



受賞後のインタビューをご覧になられた方々は
椅子から滑りおちるのではと、期待をもこめて
お行儀の悪い田中慎弥氏をニヤニヤしながら
ご覧になったのではないでしょうか。
彼の不機嫌ぶりは結果として出版の増刷に
つながり、集英社はしてやったり、という
ことでしょう。

田中氏の作品は彼のあの不埒な態度とま逆の
整った作品です。
スケールは小さいですが中上健次や宮本輝の初期作品
や車谷長吉の作品を彷彿させる古典的な小説です。
2010年度下半期に受賞した西村賢太 『苦役列車』 も
この系譜です。

私個人としては西村賢太さんの作品を読み苦行のような陰々滅々とした
日々を描く、
そしてそこに性的なものや暴力をともなう小説はもう「飽いた」と
思ったものです。

4畳半フォークに飽きてしまって、
荒井由美がでてきたときのスコーンと抜けるような青さを
もう一度経験したい。
そんな感じです。

それがどんなに出来がよいとしても、うっ屈したものは
たとえいい作品であっても、「もういいよ」と小声で
呟いてしまいます。

そうはいっても、田中氏の作品はたしかに芥川賞に
あたいするものに間違いありません。
読みだして数行で石原慎太郎氏の酷評が
彼にたいしてではなく、もう片方の受賞者、
円城氏であることが誰もが想像できます。

一見お行儀のよい円城氏が不遜な小説、といっても
目を覆う悲惨な描写があるわけではありません。
空。くう。空虚な文字の羅列。








作品は
「わかる人にわかってもらえればいい」という氏の考えが
徹頭徹尾貫かれている作品ですが、
こういう考えは逃げではないかなあと読みながら考えたものです。
その理屈を通したいのなら、最低限、読者が何度も本を閉じるような
内容の小説ではいただけないと思うのです。


 


彼の作品を読みだしすぐにある小説が私の脳裏に浮かびました。

古川日出夫氏のアラビアの夜の種族です。
荒唐無稽、時空をかけての妖術合戦、語りは入れ子状態と、
下世話ないい方をすれば「ひっちゃかめっちゃか」な作品です。
が、
引きずり込まれて、先へ先へと時間を惜しみ読み進む。
手だれの使い手です。

どうも円城氏は古川氏のような作品を目指しておられるのではと
思います。
いえ、文章に関しては古川氏より円城氏の方が整っています。


この円城氏の作品は選者の過半数をとれなかったといわれています。
過半数におよばなかったにもかかわらず芥川賞を与えるというのは
わたくしは選者が小粒になってしまったなあと、独りごちてしまいます。



                                                次回




文藝春秋 2012年 03月号 [雑誌]




*芥川賞あれこれ ///////

京都合気道教室のお知らせ

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16:30~18:00
稽古場所  スタジオ ヒラルダ
体験稽古のお申し込みやご質問等、お気軽にどうぞ。
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