*お引っ越しのお知らせ
当ブログは、下記へ移転しました。
白マム印 日本のこと日本のもの
どうぞお越しください。*
前回
<付箋紙だらけでわけがわからなくなってしまいました 苦笑>
三島由紀夫は猫好きです。
三島の昭和23年9月28日号第一新聞掲載随筆
・・・・・・
あの憂鬱な獣が好きでしようがないのです。
芸をおぼえないのだって、おぼえられないのではなく、
そんなことはばからしいと思っているので、
あのこざかしいすねた顔つき、きれいな歯並、冷たい媚、
なんともいへず私は好きです。・・・・・・
対して川端は徹夜で犬のお産につきあうほどの
有名な犬好きです。
ワイヤー・フォックス・テリア、コリー、
グレイハウンドと、純血種の犬を手塩にかけて
育てる様は、手厚すぎて滑稽感さえかんじますが、
本人は真剣です。
作家の猫 (コロナ・ブックス) posted by (C)poco
往復書簡にもどりましょう。
昭和37年4月17日付の川端康成から三島由紀夫宛てた手紙
・・・・・・
ノオベル賞推せん委員のもたつきはおもしろいですね
日本側が気のりしないらしいフランス作家たちが日本を推すと
パリから手紙がきたりしました まああなたの時代まで延期でせう
近いおめでたをおよろこび申し上げます 奥様御大事のなさってください
ここにみられるようにノーベル賞が日本にもたらされるの
時期早尚とみられ、次の世代の三島が妥当とふたりは
思っていたようです。
二人の手紙のやりとりは、超売れっことなった三島、
親友今東光の参議院選立候補の選挙事務局長となり
大忙しとなった川端、との間でも続きます。
面白い記述が三島の手紙にありました。
随分前に野坂昭如のエッセイにて野坂自身が
「三島由紀夫に褒められたんだ」という一文
を記していました。
その証拠が!
昭和41年8月15日付の三島の手紙
・・・・・・
このごろ読んだものでは、野坂昭如の「エロ事師たち」が
武田麟太郎風の無頼の文学で、面白く思ひました。このごろ
一般に、文学が紳士風家庭風になっているのを苦々しく存じます。
ブル紳の文学など読みたくありません。・・・・・・・
このような箇所を見つけると嬉しく思うものです。
このようにふたりのやり取りがつづくのおですが・・・。
昭和43年10月17日、文学部門で日本人としてはじめての
ノーベル賞が川端に決定を機に二人は疎遠になっていきます。
昭和43年10月16日付の川端から三島に宛てた手紙
拝啓 春の海(←ママ)奔馬 過日無上の感動にてまことに至福に存じました
新潮社より百五十字の広告を書けとは無茶な注文 大変な失礼を
この御名作にをかしたやうで御許しください
・・・・・・
この上記の手紙の翌日17日に川端康成にノーベル賞受賞通知が
届いたのでした。
これで、三島存命中にノーベル賞のめはなくなった。
三島はそう思い、また、川端もそう思い
三島にたいして呵責の念をいだきます。
当時のマスコミもそう思ったでしょう。
三島が川端に甘えはじまった長い手紙のやりとりは
三島が自決する昭和45年の2年間に3通のみになってしまいます。
川端がノーベル賞を受賞しなければ三島はあのような蛮行に
付き進まなかったでしょうし、
川端もあのような最期をとらなかったでしょう。
しかし、今になってみると、大作家というのにふたりはおっちょこちょいと
思われます。いえ、余裕がなさすぎます。
1994年、日本文学史上において2人目のノーベル文学賞を大江健三郎が
受賞するのですから。
その時存命ならば三島は70才ですから、ノーベル賞は彼のものでしょう。
(わたくしとしては何故大江健三郎が受賞なのかとんとわかりません)。
昭和44年8月4日付の三島由紀夫より川端康成宛の手紙は
1年後の自決をうかがわせるようなものです。
前回/つづく
↑この本は絶対の
おすすめです。
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前回
<付箋紙だらけでわけがわからなくなってしまいました 苦笑>
三島由紀夫は猫好きです。
三島の昭和23年9月28日号第一新聞掲載随筆
・・・・・・
あの憂鬱な獣が好きでしようがないのです。
芸をおぼえないのだって、おぼえられないのではなく、
そんなことはばからしいと思っているので、
あのこざかしいすねた顔つき、きれいな歯並、冷たい媚、
なんともいへず私は好きです。・・・・・・
対して川端は徹夜で犬のお産につきあうほどの
有名な犬好きです。
ワイヤー・フォックス・テリア、コリー、
グレイハウンドと、純血種の犬を手塩にかけて
育てる様は、手厚すぎて滑稽感さえかんじますが、
本人は真剣です。
作家の猫 (コロナ・ブックス) posted by (C)poco
往復書簡にもどりましょう。
昭和37年4月17日付の川端康成から三島由紀夫宛てた手紙
・・・・・・
ノオベル賞推せん委員のもたつきはおもしろいですね
日本側が気のりしないらしいフランス作家たちが日本を推すと
パリから手紙がきたりしました まああなたの時代まで延期でせう
近いおめでたをおよろこび申し上げます 奥様御大事のなさってください
ここにみられるようにノーベル賞が日本にもたらされるの
時期早尚とみられ、次の世代の三島が妥当とふたりは
思っていたようです。
二人の手紙のやりとりは、超売れっことなった三島、
親友今東光の参議院選立候補の選挙事務局長となり
大忙しとなった川端、との間でも続きます。
面白い記述が三島の手紙にありました。
随分前に野坂昭如のエッセイにて野坂自身が
「三島由紀夫に褒められたんだ」という一文
を記していました。
その証拠が!
昭和41年8月15日付の三島の手紙
・・・・・・
このごろ読んだものでは、野坂昭如の「エロ事師たち」が
武田麟太郎風の無頼の文学で、面白く思ひました。このごろ
一般に、文学が紳士風家庭風になっているのを苦々しく存じます。
ブル紳の文学など読みたくありません。・・・・・・・
このような箇所を見つけると嬉しく思うものです。
このようにふたりのやり取りがつづくのおですが・・・。
昭和43年10月17日、文学部門で日本人としてはじめての
ノーベル賞が川端に決定を機に二人は疎遠になっていきます。
昭和43年10月16日付の川端から三島に宛てた手紙
拝啓 春の海(←ママ)奔馬 過日無上の感動にてまことに至福に存じました
新潮社より百五十字の広告を書けとは無茶な注文 大変な失礼を
この御名作にをかしたやうで御許しください
・・・・・・
この上記の手紙の翌日17日に川端康成にノーベル賞受賞通知が
届いたのでした。
これで、三島存命中にノーベル賞のめはなくなった。
三島はそう思い、また、川端もそう思い
三島にたいして呵責の念をいだきます。
当時のマスコミもそう思ったでしょう。
三島が川端に甘えはじまった長い手紙のやりとりは
三島が自決する昭和45年の2年間に3通のみになってしまいます。
川端がノーベル賞を受賞しなければ三島はあのような蛮行に
付き進まなかったでしょうし、
川端もあのような最期をとらなかったでしょう。
しかし、今になってみると、大作家というのにふたりはおっちょこちょいと
思われます。いえ、余裕がなさすぎます。
1994年、日本文学史上において2人目のノーベル文学賞を大江健三郎が
受賞するのですから。
その時存命ならば三島は70才ですから、ノーベル賞は彼のものでしょう。
(わたくしとしては何故大江健三郎が受賞なのかとんとわかりません)。
昭和44年8月4日付の三島由紀夫より川端康成宛の手紙は
1年後の自決をうかがわせるようなものです。
前回/つづく
↑この本は絶対の
おすすめです。