聖書の神の厳しさと偏りのなさについて:
聖書の神を信じている者は心当たりがあると思いますが、聖書の神様は優しく、そして厳しいお方でもあるということ。
罪に対して厳しい方ですが、神様はやきもち焼き。特に偶像崇拝を嫌われます。
偶像崇拝と言っても、別に他の宗教や神々に浮気するということだけではなく、おカネ・所有物・趣味・人など、神以上に心が囚われる対象があり、それを優先し続けるならば、神様は、何かを介して私たちの軌道修正をされます。
神さまから離れると、罠にはまりやすくなります、損をします、失敗します、遠回りします、傷つきます、祝福を逃します。
神に従うのは、一見難しいこともあります。早めに神様に従えば、結果的に自分が受けるダメージが大きくならなくてすみます。
神に従うとは、時には、手放すこと、諦めること、止めること、をしなければいけません。上手くいっているのに放棄しなければいけない、住み慣れた土地から引っ越さなければいけない、好きになった人がいても諦める必要がある、願ってはダメなケースもあります。
神がNOと言われるということは、それが必要ではなかったり、それが不幸を招くことになったり、もしくは別の良い計画が用意されているということです。
どう、それを見極めるのかは、聖霊(神の想い)の導きです。祈り続けていくと、聖霊が教えて下さいます。
よくあるケースは、一緒になると不幸になる人と付き合ってしまったり、最悪は結婚してしまうこと。離婚したくても子供のために離婚出来ないケースもあります。未来を見通せる神様から答えを求めることをせず、一時の感情で大事な物事を進めることは危険です。
信仰が長くなれば長くなるほど、神様と心が一致してくるので、祈る動機に敏感になってきます。そうなると、自分の願望中心の祈りが自然と出来なくなります。御利益を求める祈りが出来なくなってくるので、祈りの内容が削られ丸くなっていきます。
本来、祈りは一方的な願望ではなく、神様の想いとハーモナイズ(協調・同期)しながら祈る必要があります。
とは言っても、神様は信仰に入って間もない人に対しては、割とわがままな祈りを許されます。赤ちゃんや子供がいたずらや失敗をしても、多めに見てもらえるのと同じです。子供が言われる前に自分から進んで歯磨きをするだけで親が喜ぶように、神に頼って祈るという行動を起こすだけで、神様が大いに歓ばれます。
神様は一人一人に対しての扱いの導き方やペースが違っており、いきなり厳しいことをなさいません。ですので、はじめは、まず、大胆に求める信仰でよいのです。
しかし、神様との関係が深くなるにつれ、訓練されて行きます。神に訓練されるということは、神に見込まれるということです。
神さまと出会ったばかりの新鮮な時は、忘れられない喜びがあります。
そして、長年信仰を続けていると、神様がどんなお方なのか理解が深まって来るため、また、別の喜びがあります。
オセロ チェス 将棋 囲碁 と、それぞれのゲームで、ルールも面白さも それぞれに違う感覚です🎶