空母ロナルド・レーガンの艦上に戻って来た戦闘機
■日本列島は「不沈空母」であるという発言
1983年1月に正月の初訪米時に当時の中曽根康弘首相が「日本列島は米軍の不沈空母」という発言を行って内外で問題なりました。
中曽根康弘首相が訪米時、ワシントン・ポスト紙との朝食会の席上で出た発言だったそうです。
中曽根首相は「日本列島を空母に見立て津軽海峡を封鎖しソ連(当時)の進出を防ごうという文脈での発言である」と語ったのだそうです。
「対馬海峡を封鎖する」というならば北海道はどうなるのでしょうか?
当時の野党は「専守防衛からの逸脱である」と国会で的外れな追求を行っています。
中曽根氏は「自分の国は自分で守る決意を表明しなければ、『安保条約』があっても米国が本気で守ってくれるかどうか」などの答弁をしたそうです。
この発言の本当の「危険性」が何処にあったのか、ということをこのときこの方々は理解しておられたのでしょうか。
中曽根氏の「不沈空母」の意味するところは、日本という国は永久に「米軍に守ってもらわなければならない国」という認識である、ということです。
空母とは戦闘機の離発着を海上で行うための「大きな戦艦」だし、戦闘機は基本的に「空対空ミサイル」を搭載するもので、場合によっては、その戦闘機が「核ミサイル」を搭載していることだって起こり得ます。
在日米軍を全国津々浦々にもつ日本は、在日米軍に、いざとなれば「核ミサイルを搭載した戦闘機」が領空を飛び交うということを恰も日本国の総理大臣が認めたような発言だったわけです。
中曽根大勲位の「不沈空母」発言の2年後に実際、実際に日本はまさしく在日米軍によって「不沈空母」にされていることがわかりました。
日本の首都東京の横田米軍基地には核爆弾のミサイルを搭載した戦闘機C-106と戦闘機に搭載できる核爆弾「中性子爆弾」が持ち込まれてていることがある大事件によって判明しています。
当時、米国側の「属国日本」に対する怒りが頂点に達していたようです。
1985年の時代背景としては、日米貿易戦争(経済戦争)があり、当時こんなことを米国側は主張していたようです。
「戦争に勝ったのはどちらの方なのか。我々は戦後に日本人達の飢餓を救い、技術者を米国に招いて産業技術を教えてやった。忍耐にも限度がある」と。
戦後の高度経済成長を経て「世界最大の債権国」にまでなった「属国日本」に対し、「世界最大の債務国」である米国が「プラザ合意」(1985年9月2日)を結ばせるために、武力(中性子爆弾の空対空ミサイル)で日本を屈服させた事件が、まさしくその直前の「日航機墜落事件」(1985年8月12日、520名死亡、4名生存)であったという内容を語っておられる人物がいました。
元日航の社員の方の貴重な動画です。2009年8月8日のこの講演のあとで、佐宗邦皇(さそうくにお)氏は「急死」なさっておられます。
(2分10秒頃から)
佐宗邦皇さんは東大法学部卒で日航時代は将来の社長候補と言われるほど人望の厚い方だったそうです。早期退職を願い出て、歴史研究をなさり、日本人の覚醒を促す活動をなさっておられたようです。
(注)中性子爆弾
戦場用ミサイル弾頭用のもので,次のような効果をもつものといわれる。(1) 爆心からの距離約130mで全て建物や車両が破壊され人員は即死する(2) 800mで人員は即時能力を喪失,殆ど100%死亡するが物理的破壊は起らない(3) 1600mで死亡者と放射障害患者が生じる(4) 2000mでほとんど効果はなくなる
因みにJAL123便はボーイング747で全長はおよそ80m。
特捜部長の山口悠介検事正がご遺族に「本当の原因を追究すれば戦争になる」と語っていたといわれています。
米国は日米貿易不均衡を全て日本側に要因を押し付け、日本の内需拡大を迫る米国の指示と「プラザ合意」(1985年9月2日)によって、以後は超円高となって日本では狂騒経済(バブル経済)が始まり、90年代にそれがはじけ「失われた30年」という経済低迷を経験することになったわけです。
1985年8月12日JAL123便墜落当時は中曽根内閣で、墜落現場は奇しくも中曽根総理の地元である群馬県で上野村は中曽根総理の選挙区、まさにおひざ元でした。
■「事故」ではなく「事件」だった
「日航機墜落事故」という名称で呼ばれており、つまり「事故」という括りですが、実際には「事件」でした。
日航機墜落の2日後に、米国のレーガン大統領(当時)から中曽根総理(当時)宛に来た「親書」には、資料として整理するため、総理の秘書官もしくは外務省官僚が「事故」ではなく「日航機墜落事件」と手書きしてあったそうです。これが単なる書き間違いであろうはずがありません。
例えば、交通事故ならば、遺物は一つも逃さず徹底的に調査されますが、この「日航機墜落事故」は520名もの死亡者を出した史上最悪の民間航空機墜落事故であるはずなのに、最重要の遺物である「垂直尾翼」やAPUと呼ばれる機体後部の部品などが、民間の調査機関によって2015年に水深160mの海底でみつかった可能性があるのに、政府や国土交通省(当時運輸省)事故調査委員会は全く見向きもしなかった。
つまり、明らかに「政治的判断」によって幕引きされたものであった、ということが改めて伺い知れます。
水深160mは回収作業が比較的容易な水深といえるそうなのですが・・
それどころか、2013年に日本政府は当時の調査資料を既に廃棄したなどと発表しています。
民間航空機の「ブラックボックス」は最後部の座席の天井裏、「垂直尾翼」の真下にあるそうで、つまりそれほど「垂直尾翼」は頑丈につくってあるものなのだそうです。
そのブラックボックスから回収したコックピットボイスレコーダー(CVR)についてはこれまで、編集と改竄された音声しか公開されていません。
ご遺族が願い出ても完全開示されることが拒否され続けてきました。
事故から38年経った現在でもご遺族の中には真相を求めて国と闘いづづけている方々もおられます。
しかし平成25年に出来た「特定秘密保護法」という分厚い壁のため、この「事件」の真相が国民に明かされることは今後恐らくはありません。
■墜落時の時速650㎞は何を意味していたか
JAL123便の墜落時の速度は時速650㎞という猛スピードで山の斜面に激突して大破していると推定されています。
失速して急降下したという状況だったにせよ、低空飛行をし、既に失速している飛行機が急降下したとしても時速650㎞ものスピードは出るはずはないそうです。
元パイロットの方々によれば、時速650㎞を出すには4つのエンジンをマックパワー(エンジン全開)にしても、(加速のための)距離が必要なので、そのようなスピードは墜落速度としても考えられないそうです。
つまり、墜落時に123便には大きな物理的エネルギー、衝撃波が加わったと考えるべきようです。
■遺体は凄惨を極め墜落現場は地獄図だった
事故発生から、身元確認作業が終了した12月18日まで延べ127日間で、出動した医師、看護師は2891人(医師1087人、歯科医師1217人、看護師587人。
検屍総数は2065体に及んだそうです。内、完全遺体は492体だが、五体満足な遺体は177体しかなく、遺族が面接してはっきり確認できた遺体は60体のみだったそうです。ちぎれた手足や指や皮膚がそこら中の木からぶら下がり、地面に散乱し、遺体は筋肉も骨も炭化し、二人分の頭蓋骨が完全にくっついて顔面が三つ目になっているという凄まじいご遺体などもあったそうです。
「中性子爆弾」ミサイルの照準を定められて直撃されたのが、コックピット正面の中央におられた高濱機長だと思われますが、そのご遺体は顎の骨と歯のみしか残っていなかったのだそうです。
ご遺体の写真一例(閲覧注意です)
4基のエンジンのうち第4エンジンも粉々に破壊されています。
高度24000ftの上空で、垂直尾翼が吹き飛ぶほどの内側からの圧力がかかるほどに「圧力隔壁」が大きく破損して、機内に実際に「急減圧」が起こっていたなら、ー30℃からー40℃の冷たい大気が機内に入り込んで客室内もコックピットも、著しい低酸素状態となっていたはずです。
「爆発音」の後、確かに「酸素マスク」が全て下りた状態になっていたことが、客室内を撮影した写真の画像からや生存者の証言からもわかっていますが、機内の温度はさほど下がらなかったこと、客室内に「霧」は立ちこめず、少しだけ発生してすぐに消えたことが生存者の証言からわかっています。
酸素マスクが下がってきたのは、機体の胴体部分の油圧系統に衝撃が加わったためと推定されています。
民間航空機の酸素マスクはせいぜい17分程度しかもたないが、123便は異常事態発生後も高度7000mの上空を20分間以上は飛行していました。(緊急事態発生の18時24分から墜落18時56分までの飛行時間は32分)
その間、コックピット内の機長は酸素マスクなしで東京管制部と交信していたことがわかっており、乗客の方々も意識を最後までしっかり保っており(最後の瞬間まで家族に宛てた言葉を手帳に書いていた人などもおられたそうです)、生存者の方々の証言などからも、123便の機内に「急減圧」が起こっていたとは到底考えられないそうです。
最終的には、日航側にも、「整備不良による事故であった」とされるボーイング社にも誰一人もこの「墜落事故」の過失責任は問われていませんし、起訴すらもされませんでした。(事故原因はその両者には実際はなかったからです)
JAL安全啓発センターには以前、123便の白い機体残骸の脇に赤い物体が展示されていたそうです。
現在は展示の中に見当たらないようですが、そこには「40番部品」と書いてあったそうです。これは何を意味していたのでしょうか・・
■「事件の概要」
1985年8月12日18時24分頃、羽田発大阪伊丹空港行きJAL123便が相模湾沖の上空23900ft(約7.2km)の高高度を水平飛行。
同じ頃、相模湾沖の海上で試験航行中だった納入前の「新型護衛艦まつゆき」の艦上で米軍の技術者と共に「レーダー追尾機能測定の検定校正」というテストを自衛隊に(本来は標的訓練を行わない海域で)敢えて行わさせ「訓練用の無人標的機チャカ2とファイア・ビー(実用昇高度約15km)」を飛翔させていた。
18時24分、JAL123便を標的にしてテスト中の「無人標的機」を「誤射」させるよう米軍技術者が工作し、JAL123便の「油圧系(機体下部)」と「垂直尾翼」機体に命中するという不測の事態が発生。
しかし、ボーイング747型機は「フェイルセーフ」 が備わっており、少々の損壊では墜落しない安全構造で、機長はベテランの高濱機長だったため、これだけでは墜落しなかった。
参考:
18時28分、JAL123便が「要撃されている」という緊急事態下で「スコーク7700」を発信発令。同時に機長は東京管制部に羽田に引き返すことを打診。
18時31分、JAL123便の「スコーク7700」発信発令を受けた航空自衛隊百里基地(茨城県)のファントム戦闘機F-4機2機よりも先に、予め米軍横田基地から発進していた横田米軍戦闘機C-106機2機が駿河湾上空でJAL124便を誘導・指示体制に入る。
米軍戦闘機C-106機はJAL123便は駿河湾の辺りで北上するよう指示し、東京都内の米軍「横田飛行場」への緊急着陸へと誘導して、18時40分、大月辺りから緊急着陸態勢に入らせる。
18時45分「横田飛行場」で(滑走路に障害物を並べておくなど)「着陸妨害」して、JAL123便に緊急着陸させず、(CVRに18時46分高濱機長「もうだめかもわからんね」)北西の山岳部に向かうよう指示。
18時56分、群馬県上野村御巣鷹山の山中で米軍戦闘機C-106が「中性子爆弾」の空対空ミサイル用いて乗員・乗客524名が乗っているJAL123便を撃墜。
墜落事故の速報の段階では恐らく海上自衛隊の報告などから「自衛隊の誤射による民間機の墜落」だと思い、東京管制部のレーダーなどから、米軍戦闘機が誘導していたこと、墜落現場からコックピットボイスレコーダー(CVR)を回収して解析した時点で米軍戦闘機のパイロットと機長とのやりとりが判明。
それでも尚、米軍機が「地上での二次被害を防ぐために山中に誘導している最中に墜落した」と思いこんだ中曽根政府は、「自衛隊による誤射が原因」と日本国民に知られないように「隠蔽工作」を図ることを関係各所に指示。
当時の中曽根内閣(中曽根首相、加藤紘一防衛庁長官、山下徳夫運輸大臣)の日本政府が「全ての痕跡を徹底的に消す必要がある」と「政治判断」し、「人命救助よりも何よりも隠蔽工作を最優先にした」ことで、520名死亡4名生存という結果となってしまった。
間抜けな日本政府はこの事件を、いまだに「横田米軍による故意に行われた武力攻撃」だと思わずに「海上自衛隊が民間旅客機JAL123便を誤射してしまい、先にスクランブルしていた米軍の戦闘機が山中に誘導してくれために地上の二次被害だけは免れた」と思っている可能性もあります。まさかそこまで馬○でもないかもしれませんが。
■「日本政府と米側(ボーイング社)によって行われた隠ぺい工作」
①墜落地点の情報をわざと攪乱して、夜間中には墜落現場を立ち入り禁止区域にし、自衛隊の特殊部隊によって無人標的機ファイアビーとチャカ2を墜落現場から回収。
②墜落前には百里基地の航空自衛隊ファントム戦闘機F-4機2機がスクランブル発進していなかったことにする(非番の自衛官は18時40分頃群馬県で目撃している)
③翌日、相模湾を海上自衛隊が徹底的に捜索させて「落下した遺物」を捜索させ、「垂直尾翼」の一部を発見回収。(ファイア・ビーもここで回収?)(「垂直尾翼」の残りは2015年に海底160mで民間調査機関に発見されるも引き揚げず)
④回収されたコックピットボイスレコーダー(CVR)からは123便のコックピットと米軍戦闘機のパイロットとのやりとりを「編集削除」し全体公開しないようにする
⑤2日後に米国のレーガン大統領(当時)が「親書」を中曽根首相宛てによこし、ボーイング社の技術者を派遣し、墜落原因を「7年前のしりもち事故後の整備不良と金属疲労によって、後部の圧力隔壁が破壊して機内で「急減圧」が発生し、結果的に垂直尾翼が損壊飛散し同時に油圧系操舵性を失った」という「内部要因による墜落事故」とすることで収集を図った。
⑥「特定秘密保護法」(平成25年12月13日法律第108号)(注)をつくり、念のため2013年には資料を廃棄したと発表
「隠蔽工作」を行った日本政府は、犯罪集団「横田」との共犯関係となってしまったことで、以降、彼らの専横ぶりが増長の一途となり、日本は武力で脅せば何でも従ってくる国だと、要求をエスカレートさせ、さながら日本は「武力」で統治されているかのような有り様となった。
■運輸省事故調査委員会が出した報告書
事故調査委員会が出した墜落原因の結論は、「墜落事故の7年前の尻もち事故のときに圧力隔壁に残った破損をボーイング社による整備不良があったことで、飛行中に圧力隔壁が破損して『急減圧』が起きてしまい、それよって垂直尾翼に内側からの強い圧力がかかって損壊飛散、そして油圧の操縦系も破損したため」という内容でした。
事故の2年後1987年6月に出された運輸省事故調査委員会の報告書:
ご遺族の中には今でも、その日、何が起こったのか真実を求めて闘っている方々もおられると聞きます。
8月になると毎年、ご遺族の方々がこの場所に慰霊登山をなさって来られたのだそうです。
ご遺族も高齢化し、山を訪れることは困難となってきたと伺っておりますが、37年余経った今も、この大きな出来事は遺族の方々のみならず、我々日本人にとっても、忘れてはならない大きな事件だったわけです。