「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

ジェンダー・バイアスとしてのキュリー夫人―『マリー・キュリーの挑戦』

2010年08月09日 | Gender
☆『マリー・キュリーの挑戦』(川島慶子・著、トランスビュー)☆

  ある学校のある授業で、知っている科学者の名前を10名ほど学生に挙げさせてことがある。1年目の授業では女性科学者の名前がまったく挙がらなかった。2年目にはかろうじてキュリー夫人の名前が出てきた。学生の大半が女子だったにもかかわらず、やはり女性科学者の名前は出てこないものだと、あらためて確認させられた。逆に1年目、2年目を通じて名前が出てきた科学者がいる。アインシュタインである。近年アインシュタインの名前は多くの一般人にも知られているようで、科学者の象徴のようになっている感がある。
  女性科学者の名前が挙がらないという事実を説明のきっかけとして、話は科学とジェンダーとの関わりへと進んでいく。しかしながら、科学論やジェンダー論の授業ではないので、話はほんのさわりだけで終えなければならなかった。これがもし科学論やジェンダー論そのものの授業だったならば、本書『マリー・キュリーの挑戦』をサブテキストくらいの扱いにしたかもしれない。(1年目のときにはまだ出版されていなかったが)
  この本はキュリー夫人、すなわちマリー・キュリー(旧姓スクォドフスカ)を一つの象徴的存在として、科学(自然科学)におけるジェンダー・バイアスについて幅広く、かつひじょうにわかりやすく書かれている。一見マリー・キュリーの伝記のような体裁だが、マリーとピエール夫妻で終わらず、娘のイレーヌとジョリオ夫妻、もう一人の娘エーヴ、さらにはマリーと何らかの関係があった他の科学者たちにも話は及んでいる。
  核分裂を発見しながらもノーベル賞を取り損ねたリーゼ・マイトナーや、日本人女性ながら第二次世界大戦の戦中戦後にフランスで物理学者として活躍した湯浅年子、アインシュタインの最初の妻にしてやはり物理学を志していたミレヴァ・マリッチなどにも一章が割かれている。キュリー夫人の伝記の域をはるかに超えているといっていい。しかし、すべてに共通してジェンダー的な視点から検討を加えられているところが、本書のいわば売りである。読んで初めて知ったのだが、マリーに師事した日本人青年科学者の山田延男とその妻浪江の人生にもかなり詳しくふれられていて、注目に値するように思う。
  どこかで書いたようにも思うが、かつての自分にとってアインシュタインは憧れの天才科学者だった。著者の川島慶子さんも理系少女だった頃、一見オチャメなアインシュタインは魅力的に見えたという。一方でキュリー夫人には優等生的でお堅いイメージがあったという。いまでも一般的には品行方正な妻にして母親というイメージがキュリー夫人にはあるのかもしれない。しかし、第二波フェミニズムの影響を受けた近年のキュリー夫人伝では、たとえばランジュヴァンとの“不倫”は避けて通れない有名なエピソードである。アインシュタインとミレヴァとの関係もまた、世間受けするアインシュタインのイメージとはかなり異なっている。
  川島さんが告白しているように、「優等生キュリー夫人対ユニークな天才アインシュタイン」という一般に流布している対照的なイメージこそが、ジェンダー・バイアスの罠だったのである。自分も見事に罠にはまっていたというか、罠に気づきもしなかった。いまの時代、科学技術の分野にあっても、男女の雇用機会均等や性差別的な待遇改善は当然のことになっている。しかし、これはまだ第一波フェミニズムの枠内の話である。
  第二波フェミニズムは社会経済的な構造のみならず、文化や個人のライフスタイル、さらには意識にまでメスを入れようとする。しかし、科学の分野はまだまだフェミニズムのメスを受け入れようとせず、聖域を守っているように思えてならない。それでも牙城は徐々に崩れはじめているようだ。やがては科学という営み自体にも深く切り込まなければならない。第二波フェミニズムを象徴する「個人的なことは政治的なことである」というスローガンは科学の分野にも適用され、科学者自身も意識しなければならない時代がきている。
  本書は、日本ではまだ数少ないフェミニズム科学論の入門書として、バランスのとれた良書であると断言できる。現役の科学者にも読んでほしいところだが、何よりもまず理系を志望している若い人たちに強くすすめたい。そしてまた、今後もフェミニズムと科学との関係について話す機会がもしあれば、ネタ本として本書を大いに活用したいものである。
  

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