「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

自らのジェンダーバイアスに気づく第一歩―『なぜ理系に女性が少ないのか』

2023年08月13日 | Gender
☆『なぜ理系に女性が少ないのか』(横山広美・著、幻冬舎新書、2022年)☆

  人生二度目の大学で入学したのは理学部物理学科だった。物理学科に女子学生が少ないのは知っていたのでとくに驚きはしなかったが、1年生が一つの教室に集められたとき、同級生を見渡して女子らしき顔がなかなか見つからず、女子学生の少なさを実感した覚えがある。
  同じ理学部には数学科と化学科もあった。部活(一応学術系の研究部だったが)などを通じて知り合った他学科の学生の話やさまざまな情報、また授業など実際の見た目などから、各学科の女子学生の割合は、大雑把な印象として、化学科が3割程度、数学科が2割以内、物理学科が1割未満といった感じがした。当時の他の理学部と比較してもそれほど大きな差はないように思う。
  その後2年生になってから学生実験がはじまった。学生実験は五十音順の氏名で並べられた学籍番号の近い学生が組んで行うことが多かった。幸いにも自分の学籍番号の近くに2人の女子学生がいて、彼女たちと実験で組んだり話をしたりすることがときどきあった。1人は「生物物理学」の研究室に所属することを希望していて、まだ2年生だというのに進路をすでに決めている様子だった。もう1人は本来ならば天文学をやりたかったと言っていた。
  これはわたしの勝手な推測だが、彼女たちは、原子核や素粒子、物性など王道の物理学を学びたくて物理学科に入ったのではなく、本当は生物学や天文学をやりたかったのに、いろいろな理由でそこには入れず、たまたまこの物理学科に入ったのではなかったのだろうか。この物理学科には当時(現在はどうか知らないが)王道の物理学研究室のみならず幅広く生物物理学や宇宙物理学の研究室も存在していた。
  わたしの推測が当たっていたとすれば、物理学らしい物理学をやりたくてこの物理学科に入った女子学生はさらに少なかったことになる。それにしても、なぜこれほどまでに物理学科には女子学生が少ないのだろうか。この大学には工学部もあったが、全体的には理学部以上に女子学生が少ない印象だった。同じ理系でも工学部と薬学部とでは雲泥の差があったことも知っている。
  逆に、ある私立大学の文学部などは女子大と見紛うほど女子学生が多く、『文系と理系はなぜ分かれたのか』でも触れたが、男子学生が入学をためらったり、入学しても居場所がなかったりするとも聞く。もちろん文系の内部にも学部学科によって差が生じている。
  このようなジェンダーギャップは何に由来しているのだろうか。このような問いに対して研究プロジェクトを立ち上げ、その研究成果をまとめたのが本書『なぜ理系に女性が少ないのか』である。著者の横山広美さんは物理の世界に興味を持ち物理学科に進学、大学院までは高エネルギー素粒子実験を専門にしていた。もともとは科学を社会に伝える仕事がしたいと思っていたこともあって、現在は科学技術社会論を専門として東京大学国際高等研究所カブリ数物連携宇宙研究機構(カブリIPMU)の副機構長をつとめている。
  本書は『文系と理系はなぜ分かれたのか』とかぶる部分も少なくないが、前者が歴史的な経緯に深く切り込んでいるのに対して、本書は主に研究プロジェクトの成果として上がってきたデータを分析することで、ジェンダーギャップやジェンダーイメージの現状を浮かび上がらせている。
  本書では「理系」といっても、やはり横山さんが専門としてきた「数学・物理学」がメインとして扱われている。しかしそれは、理系の学問分野とジェンダーの関わりを考察する上で「数学・物理学」が最も象徴的と考えられる分野であるからと思われるし、他の理系分野や人文科学や社会科学といった「文系」との比較も行われている。
  数学の能力は生まれつきのものか環境要因によるものか、といった古典的なテーマからはじまって、さまざまなジェンダーギャップに関するデータが次々と紹介されていく。データを虚心に読めば、自らの内なるジェンダーバイアスに気づくことも少なくないはずだ。そのなかでとくに興味深いと思ったのは「数学・物理学」の男性イメージについての指摘である。本書を読むまで「数学・物理学」に対して男性イメージが持たれているという意識はなかった。
  しかし、自分なりに少し考えてみると、これまでの戦争で圧倒的に利用されてきた学問分野は「物理学」だった。技術もその基礎はほとんど物理である。もちろん化学兵器や生物兵器も存在するが、圧倒的に物理学が戦争と結びつけられたのは原爆の開発と投下だろう。戦争が男性イメージと結び付くのは容易に想像がつく。結局、物理学は男性イメージと結びついてしまう。誤解されないように付け加えておくが、このことはわたしのジェンダーバイアスがかかった上での余談であり、本書で触れられていることではない。
  ところで、ここまで「女子学生」という言葉を使ってきたが、本書ではあまり馴染みのない「女性学生」という言葉が使われている。考えてみれば、大学生を指す言葉として「女子」「男子」は相応しくないかもしれない。現在は高校から現役で大学へ入学してもすでに「成人」である。さらに社会人大学生も多くなっている昨今では「女性」「男性」学生と呼ぶのが当然だろう。大学生を「女子」「男子」学生と呼ぶのも一種の思い込み(バイアス)かもしれない。
  数学などの能力に男女差はなく、優秀な女性が歓迎される社会をつくっていくためには、学校や親だけでなく、メディアや企業など社会全体の前進が必要だと横山さんは結論づけている。この結論には100%同意する。その上であえて付け加えるが、小中学生以下の子どもを持つ親が自らのジェンダーバイアスに気づくことからはじめなければ、ジェンダーに関わる社会の混迷を根本から変えることはむずかしいように思う。本書がその第一歩になることを願いたい。さらなる研究による新たなデータの追加や刷新も希望しておきたい。
  なお、本書p153に掲載されているカブリIPMU発行の「ものしり新聞」(第6号)はこちらで公開されている。

  


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