20201119
昨日のページに「夢の中で」と書いたのだが、この「夢を見る、夢を見た」という場合「見る、見た」の漢字の使い方に以前から何か釈然としない気持ちを持っていて、今、他に書くこともないのでその気持ちを整理する意味も含めてここに書き始める。
見た、観た、視た、診た、看る、など「みた。みる。」にはシチュエーションに合った漢字があるわけだが、これがなかなか難しい。
汎用的に「見る」を使い通すことも出来なくはないが、それではせっかくの漢字を使うことの悦びを味わえないし、象形の意味がなくなってしまい漢字はただの記号となり、文章が有機から無機的に感じられ、それはただ表面的な意味が伝わればよい、というようなことになりかねず、たとえばもしも国の政策で「これからは(見る)だけを使うことにします。他の文字は一切使ってはなりません」と決まったなら、私はもう文章を書く気にならないだろう。
「映画を見た」は「映画を観た」とも書けて、私なら鑑賞という意味で「映画を観た」と書くことが多い。しかし「テレビを観た」とはあまり書かない。テレビなら視聴という意味の「テレビを視た」と書くだろう。
ところが「テレビで映画を見た」場合、「観た」か「視た」か、もしくは「見た」か。これは迷うところだが、まあ私は「観た」を使うかな。
私はポンコツノータリンなので国語と漢字を学術的に解説することは出来ないが、このページで何を言いたかったかというと、「夢を見る」「夢を見た」の場合、「見」この字では何か味気なさを感じませんか?ということ。
前提として、夢には誰もが知っているように代表的には二通りの意味があり、一つは睡眠中の夢。もう一つは将来の夢。です。
この二つの意味の夢に「見る、見た」しか使えないのは日本人としていかにも寂しい。とはいってもそれ以外の漢字はまったく使えないし、この問題に私は長らく悶々としてきた。
「見」という漢字は元来、人の上に大きな目が載っているという象形から始まったというのだから、わかります? ほら夢を見ることに目は使わないでしょう。眠っている時にも、将来を考える時にも目は使わないわけです。だから私は釈然としない。
もちろん和語優先で考えれば「ゆめをみる」で事足りるし、これはこれで美しいわけだが、しかし「夢」という漢字も捨てきれないわけですよ。平仮名ばかりの文章では読み難いし、しかし漢字多用の漢語優先の文章も硬くて読み難い。だから私としては普段から和語と漢語のどちからといえば和語優先で書きますが、「夢を見る」と書く場合、繰り返すが「見る」の文字がどうにも気になってしまう。
もう結論を言いましょう。
夢に対応する「みる」の漢字を新しく創っていただきたい。政府に。菅さんに。
創るなら、やはり偏は心を表すりっしんべんだろう。旁に「見」を配置すれば誰でも理解できるのではないだろうか。自画自賛になるが、これはなかなかの発見と提案ではないか。よし早速例文を書いてみよう。
あらためて見て、正直「ぜんぜん違うな」と思った。
「なんだコレ」感がすごい。
やっぱり「夢を見る」でいいや。
おつかれさまでした。
バナナ食べたい。
E V O L U C I O