2月21日、フェアレディZの父として知られ、北米日産自動車の初代社長を務めた
片山豊さんがお亡くなりになりました。105歳でした。
f-o-qのどこかにぽっかりと穴があいた感じです。
以下は今から4年前、2011年の2月
何かに誘われるように片山豊さんの生まれ故郷である
春野町のK'z ROADを走ってきた時の投稿の再掲です。
<(*_ _)>
Kに至る道Ⅲ
f-o-q は聖地(って言い過ぎか)に赴く。
ここは春野町(旧気田村)の王子製紙気田工場跡。
K'zROADの起点となる場所です。
K'zROADとは、
米国自動車殿堂入りしており、ミスターKの愛称で知られる
「Love Cars~Love People!~Love Life 」
「快走」
片山豊さんの100歳を記念して設定された現浜松市春野町にあるドライブコース。
氏は9代目工場長麻生誠之氏を父にもち、この地に生まれる。
車っていいな。と思えるのは「○○の生みの親、□□の父」ってな感じで
人の顔が見えるものが存在するということで、単なる工業製品とは違う、
心の琴線に触れるものが多いってことですよ。
その中でも、片山さんは「ズィーカーの父」と呼ばれ、このモデルの開発・
販売を企画した方です。
氏の考えは、日本という枠におさまりきらない。
一貫して、
「クルマ作りは、すべて、人が基準。
人が乗って、人が運転するのを妨げない造りでなければならない。
だから、動物的な感覚で、クルマを造れ」
と説く。
ズィーカーが一旦途絶えてしまった頃にも
「エンジンは、 1800 cc か 2000 cc で十分。
人間の五感を満足させることができて、これからの時代、そう、アジアの若者も、
経済的に、そして走りに満足させることができる、そういうクルマにしたい」
と復活を語っていた。
その思いは後にZ33が300万円からという価格で販売された事にあらわれている。
現在も多くの自動車イベントへの出席の他「浜松市やらまいか大使」として
市のPR活動等、精力的に活動されている。
昨今の日本車バッシングの際にも車づくりを原点から見直すように熱く語っていた。
驚くべき方である。
101歳ですよ。自分なら・・・と青ざめながらⅥにつづく。
Kに至る道Ⅵ
帰りはK'zROADをゆっくりとぶっ飛ばす
(いちおう気持ちよく走ると言う自分なりの表現)ことに。
コンビニで遅めの朝食にありつくと、春野文化センターの開館時間に。
往路でも立寄ったセンターの駐車場内、天狗広場に設置された天狗面は、
縦8m横6m、鼻の長さは実に4mにも及ぶ日本一大きいもの。
実車がまるでミニカーですな。
さて文化センターには、ミスターKこと片山豊さんの常設展示がある。
常に人々の笑顔が氏のまわりを取り囲んでいる。
うらやましいかぎりである。
ただし○産時代は、氏の考えや行動に対し、
旧態依然とした社員からは、批判が多かったようで、
(お役人体質の会社では有能官吏タイプでないとやっていけませんからね)
追われるように米国に渡ったのは50も過ぎてから。
逆境の中でのズィーカー開発の際の氏の言葉、
「世界から尊敬されるクルマ(○○)を造る」
は、どんな時代でもどんな業種にも当てはまるんじゃないでしょうか。
今のメーカーは、「クルマじゃなく、お金を作っている」と
批判したのが去年のこと100歳でですよ。
とんでもないおじいさんである。
矮小な自分に気づかされ、ちょっと気落ち気味でしたが、
展示の色紙の言葉に目を見張ったですよ。
「快食、快眠、快便で快走」てな感じでしょうか。
まさに人間かくありたいものです。101歳パワーの源ですな。
そういえば f-o-q の恩師にもやたら「くうねるだす」を強調する人いたけど
+α で、動物以上の人間っぽい、いい言葉になるもんだなぁ。
f-o-q
その後103歳まで免許を更新されていたとか。
恐るべき御方である。
ご夫婦合わせて200歳!なんてのもニュースになってましたね。
まさに、素晴らしき哉、人生!だったのではないでしょうか。
K’z ROAD という名の
今日は我が家の淑女殿も涙に濡れているようです。
謹んでお悔やみ申し上げます
f-o-q