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毎日が観光

カメラを持って街を歩けば、自分の街だって観光旅行。毎日が観光です。

呪の思想

2010年01月22日 20時58分34秒 | 読書
白川静/梅原猛「呪の思想」    平凡社

 やっぱり読んだ本のことなどもちょこちょこ、と。そうしないと観光ではなく、地形ブログとなってしまいそう。最近は寒くて自転車に乗って出かけたりもせず、暇があれば本ばかり読んでます。
 本はいいですね(ばかみたいな感想だな)。本を読むことは旅をすることに似てる。空間や時間の異なる場所へ赴き、その雰囲気を味わったり、また、そこから今・ここを再び照らすこともできるし。時間や空間が異なるだけじゃありません。たとえばモンゴメリの「赤毛のアン」を読む(素晴らしい本)。そうすると、ぼくはいつの間にかアンの気持ちになって、その時代を進んでいる。
 45歳の日本人男性が、プリンス・エドワード島に住むカナダ人の女の子のメンタリティを持つなど奇蹟に近い気がするけれど、本を読めば簡単にかなってしまう。ことばはまったく違う概念を結びつける画期的な手段なのです。
 いやあ、本はいいですね。

 そんなわけで、今回は白川静と梅原猛の対談集「呪の思想」です。漢字の中から膨大な情報と物語を引き出してくる白川静といろんなことに興味津々梅原猛の、まさに92歳児と76歳児、世界に関心ありまくりの二人の男の子(あえて)の対談集。時に噛みあってなかったり、進行するはずの「編集部」がやけに熱かったり、そういうところも楽しい。
 それと同時にやはり学のある人の話は面白いことを改めて実感する。1980年代以降、教養がププって感じに成り下がってしまったけれど、あれ、やりすぎだったよね、反権威主義運動。確かにあの時点では正しかったんだけれど、徹底すぎた。世に氾濫する新書を立ち読みすると、その知的レベルに驚く。で、これが売れてるって。1980年代に高校、大学あたりにいたわれわれの世代の教養が問題なのよ。でも、手っ取り早く頭よくなりたいという下心で「頭のいい人、悪い人の話し方」とかが売れる。いや、喋り方じゃないだろ、問題は。
 この本に話を戻すと、とくに感銘を受けたのは次の二つ。一つは殷と縄文、周と弥生とが関連あるという指摘。それから、征服した王朝を祭に参加させるのは、空間だけでなく、過去からすべて包摂していることの証だという点。日本では御霊信仰の面が強調されていたけれど、そればかりでない新たな視点に目からウロコです。
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立川談春「赤めだか」

2009年12月25日 18時30分07秒 | 読書

 立川談春著「赤めだか」         扶桑社刊

 名著。
 ぼくは志らくのファンで、彼の独演会で、このままじゃ殺される、と思ったことがあった。たたみかけてくる彼の仕掛けに腹をよじって、もうやめて、もうこれ以上笑ったら死ぬ、と。志らくにはそういう狂気のようなものを感じている。
 一方、談春は違う。もっと楷書の芸だ。破天荒の志らく、楷書の談春。正反対みたいな二人が立川ボーイズなんてやってた。目つきからヤバイ感じの志らくに対して、見た目普通の談春。しかし、もちろん人間そんな簡単じゃない。そんな簡単じゃない談春の、ビルドゥングス物語であると同時に、師匠談志の最良の描写でもある。

 「総数(赤穂藩の武士300人)の中から47人しか敵討ちに行かなかった。残りの253人は逃げちゃったんだ。まさかうまくいくわけがないと思っていた敵討ちが成功したんだから、江戸の町民は拍手喝采だよな。そのあとで皆切腹したが、その遺族は尊敬され親切にもされただろう。逃げちゃった奴等はどんなに悪く云われたか考えてごらん。理由の如何を問わずつらい思いをしたはずだ。落語はね、この逃げちゃった奴等が主人公なんだ。人間は寝ちゃいけない状況でも、眠きゃ寝る。酒を飲んじゃいかないと、わかっていてもつい飲んじゃう。(中略)それを認めてやるのが落語だ」という談志の姿に男惚れする。

 ずいぶん昔、勘九郎(現勘三郎)に対して、談志が自分の芸以上のものを背負い込んでしまって苦しんでいる、と書いていた。当時の勘九郎を見ていて、現状の歌舞伎の状況をなんとか突破しようともがいている様子が感じられて非常に納得した覚えがあった。でも、その言辞はまさに談志自身へ突き刺さるものではなかっただろうか。自分の芸だけでなく、落語界そのものに焦慮している彼の姿とも重なるのだ。そうした談志の姿をこの本の中で随所に垣間見ることができる。そこも大変貴重だ。
 最終章、目白の師匠とのくだりは落語ファンなら、ちょいウルウルかも。
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33個めの石

2009年10月25日 21時30分47秒 | 読書

森岡正博「33個めの石 傷ついた現代のための哲学」          春秋社


 2007年、アメリカのヴァージニア工科大学で発生した銃乱射事件はそれまでの犯罪史を塗り替える死者をうみ、犯人はその場で自殺した。
 やがて行われた追悼式には彼らを象徴する石が33個置かれた。
 犠牲者は27人の学生と5人の教師。
 もう一つの石は、もう一人の死者、犯人のためのものだ。
 この石は公の手によって除かれる。しかし、その後も誰かが石を置いた。公式行事には決して現れてこない33個目の石。
 この一つ多い石こそ、もしかしたらわたしたちが陥ってしまった窮屈で、思いやりや赦しという概念を欠いた社会の希望かもしれない。そんな風に筆者は語る。
 911事件以降支配的になった、やられたらやりかえせ、という社会の風潮がただ悲劇や泥沼しか生まないことを、わたしたちはイラクやアフガニスタンの現実で思い知っているのではないだろうか。
 久しぶりに読んだ風通しのいい優しい本。
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先週の読書

2009年02月23日 12時43分19秒 | 読書

 高橋源一郎「一億三千万人のための小説教室」   岩波新書
 前書きには小説を越えて生きることに直接つながる何かが書かれてあった。すばらしい。文章だって難しくない。実に丁寧にゆっくり進んでいく。
もしこの本に実用的な文章技法みたいなものを期待している方には勧められないけれど、素晴らしい本だ。

「いまそこにある小説は、わたしたち人間の限界を描いています。しかし、これから書かれる新しい小説は、その限界の向こうにいる人間を描くでしょう。
 小説を書く、ということは、その向こうに行きたい、という人間の願いの中にその根拠を持っている、わたしはそう思っています」

 小説は教わるものではなく、その先に行きたい人が自分で道を探していくものなんだという出発点をこの本は教えてくれる。



山崎ナオコーラ「長い終わりが始まる」     講談社
 マンドリンの仲良しサークルで人間関係よりも技術を重要視して、周囲からういてしまう女子大生小笠原。ちょっと見ひねくれた人間性のように思われる彼女だけれど、実は悲しいほど一直線で不器用で。彼女のいる田中のことが好き。でも、そんな条件、彼女には関係ない。一途に思っている。
 小笠原の性格がゆがんでるとか言う人もいるが、そうじゃない。ゆがんでないから、小笠原は困ってるんだ。そんな小笠原の純愛物語なのだ。
 山崎ナオコーラは「人のセックスを笑うな」に続き読むのは2冊目なんだけれど、この主人公像を見事に描ききっていて感心いたしました。もっと読もう。



絲山秋子「ダーティ・ワーク」   集英社
 お見事。
 読むたびに感心する絲山秋子。この人の文章の余白ってすごいな。文章の外ににじみ出させる筆力。
 一つ一つが独立した短編でありながら、全部読み終わるとキレイにつながっている構造。そしていろんなことを含めて前向きである姿勢。いいねえ。



藤野千夜「彼女の部屋」     講談社文庫
「春らしい七分袖のブラウスなんか着た大河内ななえは、はにかんだようにゆりえを見返している」
 主人公はゆりえ。訳あって、男友達の棚橋と女友達の大河内の初対面コンビと待ち合わせをしたシーン。なんとない描写だけど、ブラウス「なんか」の「なんか」に細かな女性の感受性を感じる。こういうところが藤野千夜はうまいよなあ。
 何気ない話なんだけれど、こういう細かなところにうなりっぱなし。もっとも死んだ父がなぜか帰ってきた「父の帰宅」は何気ない話じゃないよね。でも、そういう突飛な話でも何気ない話になってしまう魔術。なぜ父が帰ってきたのかなどは一切説明なく、それ以上に兄嫁の細かな描写がにくい。


 


町田康「おっさんは世界の奴隷か」     中央公論新社
おかしい。言ってることは実はしごくまっとうなんだけれど、レトリックにやられる。くっくっくと笑いをもらしてしまう。
 スキーについて。
「ただただ、引力にまかせて斜面を滑り降り、「わきゃーん」と言っているだけで、つまりこれは三歳くらいの幼児が児童公園の滑り台を滑り降り、「わきゃーん」と言っているのと原理的にはなんの変わりもない。
 同じことを大の大人がやっているのであり、いったいなぜそんな無駄なことをいい大人がするのか並の神経では理解できない。だからこそつい最近まで日本人はスキーをしなかったのであるが、ではなぜするようになったかというと冒頭に申し上げたように、スキー場なる物を拵えた人があったからである」
 この人の文章力ってすごいと思う。
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先週の読書

2009年02月16日 20時04分02秒 | 読書

 橋本治/内田樹「橋本治と内田樹」     筑摩書房
 内田樹による橋本治の解剖対談。そして「橋本治」を出発点にあちこちふらふらしながら、やがてまた「橋本治」に帰ってくる。驚異的な多作者であり、精力的な執筆者であるのは両者共通。いろいろ気づかされることが多い。
 戦後教育なんて括り方は乱暴きわまりないというのも納得。だって戦後って60年もあるんだもん。
「僕らが小学生のときなんて、先生の半分くらい明治生まれだったわけですからね。明治生まれの、『坊っちゃん』や『三四郎』を四十年くらい老けさせた校長先生が朝礼の訓話でしゃべってるわけですよ。そういう先生が話すのって、だいたい自分が明治時代に小学生のときに聞いた訓話の焼き直しなわけでしょう。その校長先生のそのまた先生は天保生まれかもしれないし。だから、僕らの小学校のとき、教育空間の一部はほとんど江戸時代と地続きだったんですよ。」
 戦争初期にアメリカ軍を困らせた零戦の部品は牛車で運んでいた。昭和と江戸時代はたいして変わらなかったりする。



 内田康夫「地の日天の海」     角川書店
 上巻はそれなりに面白かったのだけれど、地の日=秀吉に対する天の海=天海、この両者が絡んだ話なのかと思っていたのだけれど、そうなった瞬間唐突に話は終わる。なんだ、今までの歴史小説の筋立てと同じじゃないか、ちょっとがっかり。違うところは、信長の残虐性。これについてよく書いてあって、英雄信長像に異議をはさむ内容になっている。この部分が光秀謀叛の原因の一つになっていったという話はわかりやすかった。



 林田直樹「クラシック新定番100人100曲」     アスキー新書
 一人の作曲家についてだいたい3pほどの記述。そこで作曲家と選んだ1曲などについて書く。多くの場合、こうした企画は作曲家のうわっつらをなでて終わり、読んでいて何の薬にも毒にもならない。
 しかし、この本は違う。スプラッタ的な表現で申し訳ないが、この著者は利き腕をぐっと作曲家のお腹に突っ込み、胆をわしづかみにして取り出してわれわれに見せる。何年にどこどこで生まれてなんて話はない。
 たとえばクープランについてはこうだ。
「クープランの音楽は、「私は悲しい」とか「私は嬉しい」とか、そういった一人称の音楽ではないように思う。それはロマン派の世界である。それよりも、響き自体が、現実と夢の境界線へと聴く者の心を誘い、不思議な精神的解放をもたらすのだ」
 深い洞察と優しい目線と細やかな感受性に裏打ちされた著者の語りは、音楽を聴く裾野を広げてくれるとともに、その音の精妙な調べの奥深さも教えてくれるだろう。新書の可能性を広げたと言っても過言じゃない。
 その新たな可能性はこの卓越した文章のみならず、ネットととのコラボレーションにも現れている。
アスキーのサイトにアクセスすると、著者の勧める100曲を聴くことができる。運用は今年いっぱいぐらい。ジスモンチやフィンジ、ブローウェルなどそれほどメジャーじゃない作曲家の素晴らしい音楽に触れるチャンスである。



 羽田圭介「走ル」     河出書房新社
ところどころの描写にうなるけれど、ぼく、だめ、これ。受け付けないや。
 ビアンキに乗って走り出したら停まらなくなって、青森まで自転車で走ってった話。そう聞けば食指がびんびんに動くんだけれど、どうにもこの主人公がつまらなくてイヤ。
 別につく必要もないくだらない嘘を数多くつきすぎることに違和感。



 大泉洋/松久淳「夢の中まで語りたい」     マガジンハウス
 「水曜どうでしょう」ファンであり、大泉洋ファンであるぼくは、「アフタースクール」などの映画に飽きたらず、今度は大泉洋の本まで読んでしまった。対談集。
 猫好きな人間に向かって「トイレに流れちゃえばよかったのに」と言い切りながら、なぜか憎めない性格が彼の持ち味。そういった大泉洋の雰囲気がよく出ていて、楽しめた。



 中沢新一/山本容子「音楽のつつましい願い」     筑摩書房
 ため息が出るほど美しい本。
 クラシック音楽の作曲家11名について中沢新一が文を書き、山本容子がエッチングを描く。文が美しく、エッチングが美しい。流れる文章の美しさに時間とともにある身体が流されがちで、意味をとらえることなく過ぎてしまいそうになるほど。
 慌てて戻り、また文章の美しさを体中に感じながら散歩をすることの、なんて幸せなことだろう。
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先週の読書

2009年02月09日 10時05分44秒 | 読書

 藤野千夜「ルート225」             理論社
 登場人物の微妙な感じが心地よくてこの作者の本を何冊か読んできたけれど、これはそれまでのものとはちょっと毛色の違うもの。ラノベじゃないヤングアダルト向き作品といったところかな。
 そんなわけでぼくは楽しむことができなかった。主人公の女の子がなんでこんなに偉そうなのか、威張っているのか、上から目線なのか、引いてしまう。ルート225(15)歳からルート256(16)に至る女の子の成長小説にちょっと不思議なパラレルワールドのSF風味を味付けた感じ。



 田中啓文「チュウは忠臣蔵のチュウ」     文藝春秋
 田中風アレンジの忠臣蔵。浅野内匠頭切腹の裏に暗躍する水戸、皇室、幕府のバトルロワイヤル。最後に仇討ち団が討ち取ろうとした人物は!?
 各章冒頭が講談調に始めるのだけれど、それがなかなかいい。最後までそのノリでやってもらいたいくらい。
 寝っ転がって、気軽に読むにはちょうど適した本。
 ところで不思議なことに忠臣蔵では大石と対立した家老大野九郎右衛門が没したのはここだという伝承が群馬、山梨、京都にある。慕われてない? 忠臣蔵では悪役めいた彼には当時の人の知る別の面があったのかもしれない。



 絲山秋子「豚キムチにジンクスはあるのか―絲的炊事記 」   マガジンハウス
 高崎在住、一人住まい作家の食い倒れ自炊記。
 いやあ、抱腹絶倒………じゃないな、ニヤニヤしながらずんずん読み進む。ああ、だめ、今すぐ厨房に立って無謀な料理を作りたい。だいたい夜に本を読むことが多いぼくにはものすごい誘惑の書であります。
 いきなり冒頭から「力パスタ カパスタではありません。ちからパスタです」の宣言高らかにイカスミパスタに焼いた餅投入。男っぷりのいい著者ならではの豪快な料理が繊細な筆致で味わうことができます。
 それにしても著者の料理にはどれもちょっとした創意工夫が感じられて、笑い読みだけじゃなく参考にもなります。「ヘナポコ」作ってみようかな。



 小川光生「サッカーとイタリア人」     光文社新書
 日本が戦後どこに行っても同じような顔をした街作りに励んだのに対して、イタリアの街は地方地方特色がある。そしてその特色のある街々にはフットボールクラブがあり、街の住人はどのカテゴリーでプレイしているかを問わず、街のクラブを応援する。
 日本の場合Jリーグは地域密着を目ざしてはいるものの、出発点は野球と同様企業スポーツ。街のクラブが発展したわけではない。ぼく自身、自分の街である東京のチーム(しかし、ヴェルディやFC東京が本拠地としている調布を自分の街とは言えないよなあ)ではなく、企業チームであった日産からの流れでFマリノスを応援している。浦和のように三菱から独立できたチームもあるが、それはやはりごく一部。
 という大まかな考えをしていたのだけれど、この本を読むとぼくの考えにはちょっと誤解があったようだ。イタリア人といっても、みながみな自分の街のチームだけ応援しているわけではないらしい。自分の街のチームを応援するのはもちろん、その一方でインテル、ミラン、ユヴェントス、その3つのうちのどれかを応援しているんだとのこと。著者はイタリア人ジャーナリストにこう言われたという。
「ユヴェントス、ミラン、インテルは(中略)、言ってみれば、銀幕のスター、憧れの大女優さ。一方、地元のチームというのは、自分の身近にいる美しい娘という感じ。その娘とシャロン・ストーンの両方を愛してどうしていけないんだい?」
 たいへんイタリア人らしい比喩の使い方だと納得させて頂きました。
 都市ごとにサッカーチームをまとめていて、語り口が普通にうまいので普通に面白く読めた。
 今度一度東京23サッカークラブの試合でも観に行ってみようかな。
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先週の読書

2009年02月02日 12時11分04秒 | 読書
 高山文彦「鬼降る森」      幻戯書房
 高千穂を巡る思い出と民俗、歴史。その重層的な響きの向こうに、失われてしまった高千穂の姿が浮かび上がる。
 かつてここには相互扶助に支えられた共同体があった。険しい山中にあるため独立国として1000年間の安逸の中人びとは生きてきたのだ。しかしやがて豊臣秀吉による九州征討により、豊臣側の延岡藩の支配下に置かれるようになる。これからこの地は苦心惨憺な状況に置かれる。こう考えると、国なんてものはあった方が迷惑なんじゃないか。
 天孫が降臨したとされる高千穂には、その一方で抑圧された鬼八の伝承も残る。
「彼らはつくられた天孫の神話を食い破り、地方から神話まで奪おうとする中央の小賢しいたくらみを暴露する。それは私のことだ。たったいま、これを書いている私のことだ」
 高千穂には天孫と鬼八、両面の神話が伝えられてきたのだ。
 だが、残念ながら筆者の描く高千穂は、失われつつある。民俗的社会が消えつつあるのは全国共通だ。



 藤野千夜「恋の休日」     講談社文庫
 人と人との微妙な距離感。どこか求める前からあきらめている風情。そんな空気の漂う小説。高校を退学になったフィンが山梨の別荘で過ごした数日間を描く「恋の休日」、夫がゲイとわかり離婚した漫画家のその後を描いた「野生の金魚」。
 どちらも女性の細やかな心理描写にうならされる。いや、心理描写じゃないんだよな。その言動に彼女たちの心の動きを浮かばせる著者の心憎い筆致がすてきだ。
 「野生の金魚」の「思い出したときだけ忘れてことに気づく」、「そこに誰もいないと知ることでしか、そこに誰かがいたと思い出すことはできなかった」という逆説は実に真理。



 早乙女貢「敗者から見た明治維新」     NHK出版
 どんどん悲しい話になっていく「会津士魂」は4巻で挫折。でも、一応最後まで見届けようと、同じ作者の同じテーマのこの本を読んだ。ま、見届けるって言っても、どうなったのかは知っているんだけどさ。ミシュレの「ジャンヌ・ダルク」に、本を読んで泣いている男がいて、どうしたんだ、って尋ねると、今ジャンヌ・ダルクが死んでしまったんだ、と答えたってくだりがあったけど、どうなっているかわかっていながら、それを語る時間の中に浸ることも大切なんじゃないか、と。もう一度そのことを思い出すために。
 やはり転回点は慶喜が大勢の家臣、味方する武士たちを置き去りに大阪城を脱出して江戸に逃げ帰ったところだな。あれ以降、慶喜は薩長のいいなりになってしまった。だめじゃん、慶喜。
 徳川歴代将軍の中で増上寺・寛永寺、または日光に葬られていないのは、慶喜だけである。
 それにしても幕末~明治における長州のやり方は汚すぎる。著者の憤りも生半可なものではない。
「今日の道徳の乱れと悪事の横行、政治不信の淵源は明治政権に端を発することは、言うを俟たない。
 陸軍大輔から陸軍中将、近衛都督という要職にあった長州の山県有朋が陸軍省予算の半分に及ぶ大金の汚職を行い、嘗ての騎兵隊の同士山城屋和助こと野村三千三が陸軍省で切腹するという事件を惹き起こした。その衝撃性がさすがに隠蔽を難しくして辞職せざるを得なかったが、一年足らずで陸軍卿(陸軍大臣)として復活するのである。この最大の事件を摘発しようとした司法卿の江藤新平は、長州権力の憎しみを買い、追いこまれて下野し、佐賀の乱の主謀者として斬首。獄門台の生首が新聞を賑わすことになった。権力への抵抗が、蟷螂の斧たることを知らしめたのである」
 こういう山県有朋のような奸物が教育勅語などを作り、自分たちの体制に箔を付けようとしたのである。



 島田裕巳「平成宗教20年史」      幻冬舎新書
 新書だから仕方ないのだけれど、何か上っ面をすうっとなでていくような印象。
 ただオウムの事件が思ったよりも社会の深層に傷跡を残しているのではないかという指摘には納得した。あの事件の頃少年だった酒鬼薔薇聖斗にオウムの影があるという。もちろんオウムが裏で手引きしたということではなく、犯行声明に現れる「聖名」や「アングリ」など14歳の少年がオウムの影響で知った言葉なのではないか、と。
 ぼくらは別々の事件のように思ってしまうが、実は九州でバスを乗っ取って乗客1名を刺殺した少年、去年秋葉原の歩行者天国で7人を殺傷した男と酒鬼薔薇聖斗、この3人はいずれも同い年なのだ。酒鬼薔薇聖斗が同年代の少年に英雄視されたことを考えると、オウムの影響はこんなところにまで及んでいるのかもしれない。
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先週の読書

2009年01月26日 15時05分28秒 | 読書

 中沢新一「神の発明」     講談社選書
 スピリットから一神教が生まれる、その現場に立ち会える良書。
 国家を作る、王を作る要素をそろえながら国家を作らなかった人たち。一神教の要素をすべて持ちながら一神教に進まなかった人たち。この2つがパラレルな関係にあることをこの本は示している。
 一神教というとわれわれのイメージはユダヤ教、キリスト教、それにイスラム教であろう。この中でキリスト教だけ異色の存在である(ここで言うキリスト教はアタナシウス派のこと。アリウス派は別)。キリスト教は唯一神信仰でありながら、そこに3つの位格を見出すという、一見ちょっとわけのわからない形態だ。
 そこに意味があるのだとこの本は指摘する。キリスト教はスピリットの持つ増殖性をベースに近代資本主義社会を用意したのだと(これは5巻の内容か)。
 それとともにぼくが興味を持ったのは、御嶽に関する記述。
「「御嶽の神」をお祀りするのが、女性だけの集団であるというのも、ひょっとするとこの神のもつトーラス構造と関係があるのかもしれません。このトーラスの中心をなす空洞は、ことばによって表現不能な「超越性」をあらわしていますが、これは女性という存在がことばの象徴秩序にはおさまりきらない不確定な霊性を抱えた、とてもデリケートな生き物であることと関係があるかもしれません。
つまり、中心に空虚を抱えた「高神」と、知性によるのではないやり方で交信をおこなう資格のある生き物は、その神と同じように、心の真ん中にぽっかりと開いた空虚を抱えた女性でなければならないのではないかということなのです」
 性と聖と芸能が未分化だった頃、遊女は差別されるものではなく、長者と呼ばれる女性がそのとりまとめを行っていた。「もののけ姫」におけるエボシの役割とも言える。やがて彼女は男にとって代わられることになるだろう。人間と自然との対立なんていう単純な図式からはあの映画のエッセンスがぼろぼろこぼれてしまう。



 吉田修一「悪人」     朝日新聞社
 やられた。
 読了後、ほろっときちまったじゃんか。絶望的な逃避行の美しさ。どうしようもない淋しさ。愛する娘を二度失った父親の悲しさ。いやはや、どうにもこうにも。
 そうかあ、悪人かあ。なんて優しいんだよ、おい。


日高 恒太郎「オウムの黙示録―新興宗教はなぜ流行るか」
 画像なし、スマソ。
 新興宗教ってちょっと好き。入ろうとは絶対に思わないけれど、そのインチキなところに興味津々。「心のエンターテイメント」なんだからお金を出すのは当然だという理屈で宗教という巨大な集金システムが出来上がってるとしたら、そんなものに救いなどないはずだ。その本質を、儀式やわけのわかんないオカルトティックな教義など巧妙な目くらましで隠し、優遇された税制を最大限に利用し、巨大な施設を建設する。
 だいたい町を歩いていて、今時、こんなばかげた建物誰が建てたんだろうと不思議に思うと、それはたいてい宗教か行政。どちらも人の金だからどうでもいいやって感じがプンプンする。
 そうした宗教団体の内幕を描いた本書は、その後オウムの事件を経てオウムの部分を追加して再販されたもの。宗教と悪徳商法の発想って実に広告代理店っぽいんだな、としみじみ思った。欲望をあおってるんだよね、どっちも。そして広告代理店とは欲望をあおるプロ、発想が似ているのも当たり前だ。
 ぼくは思うんだけれど、新興宗教と資本主義とはその原動力を一にしているんじゃないだろうか。今の自分に不満がある。それを変えるために宗教的なもの(自己啓発セミナーも含みます)にすがる。今持っているものに不満がある。それを変えるためにモノを買う。みんなが今の自分に満足し、今持っている物に満足して生活するようになると、宗教も資本主義も立ちゆかなくなるだろう。現状の自分と自分を取り巻く物に満足することは、実にエコ。
 「我々のもっとも誇りたいものは、我々の持っていないものだけである」(芥川龍之介「河童」)
 ま、ぼくのような欲しがりくんが言っても説得力ないんだけどさ。



 爆笑問題「爆笑問題の戦争論」       幻冬舎
 これは「戦争論」というものではない。日清戦争から第二次世界大戦までの歴史を田中が淡々と語り、そこに歴史とは無関係に太田がぼける。中学生のための日本近代史的なもの。したがってこの中に太田の主張などはほとんど見ることはできない。

田中:当時日本では尋常小学校の修身書などで、銃弾に倒れながらも進軍ラッパを吹き続けたという、木口小平二等兵の「死んでもラッパを離しませんでした」という話が美談として載った。
太田:葬式の時もプープー鳴ってたらしいな。
田中:怖いだろそんなの!

 こういう具合である。
 南京大虐殺については「被虐殺者の数については、中国政府の発表が43万人。日本国内では十数万から20万人前後とする説、4~5万人とする説、1万人前後とする説、事件そのものの虚構説など、諸説ある」といろんなところに気配った説明。「戦争論」のタイトルはちょっとな。
 ただそこに載っていた資料に日清戦争での戦死者数に驚いた。日本の戦死者は11587人なのだが、戦闘死者数はたったの1401人。あとは病死。つまり戦死者の9割近い人が病気で亡くなっているのだ。ずいぶんっちゃずいぶんな話だ。
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先週の読書

2009年01月19日 09時09分08秒 | 読書

 細野晴臣/鈴木惣一朗「分福茶釜」     平凡社
 ああ、これはまさに「ぼくのおじさん」なんだと思った。
 おじさんというのは、たとえばこんな人のことを言う。
「人類学や民俗学は、「おじさん」を特殊な存在であると見なしている。ここで言う「おじさん」とは、両親の兄弟の中で、結婚もせず、定職にもつかず、遊びほうけている連中のことを言う。
そういう「おじさん」は、共同体にとって、不要な存在であった。父親や母親は胡散臭がるが、甥や姪からは絶大な人気があった。なぜかと言うと、共同体の外にまで遊びに出かけるおじさんは、外の世界のことをよく知っていて、両親たちが絶対教えてくれないようなことを、なによりも「自由」を、教えてくれるからである。
 かつては、そんな「おじさん」たちがたくさんいた」(高橋源一郎「おじさんは白馬にまたがって」)
 その具体的なものとして、ジャック・タチの名作「ぼくのおじさん」があり、かつて伊丹十三が編集長を勤めた「モノンクル」という雑誌があった。この本を読む者は、細野晴臣にそんな「おじさん」的姿を見ることができるだろう(先ほど引用した高橋源一郎本人もそういう意味では「おじさん」的である。もっとも彼の場合、結婚してないどころか、5回もしてるけど。いや、その過剰性こそが「おじさん」的なんだ)。
 飄々として、自由で、他の大人の感性とは違う視点からものを言う。
「今の世の中は泣かせるビジネスが溢れてて、そういうのが気持ちが悪い」と最近の風潮を嫌がってみたりしたのちに、「泣けないような悲しみっていうのがこの世にはあるんだ。人間の一番深くにある孤独感っていうのはそういうものであって、泣いたり笑ったりするのは、お酒を飲んでるのと大して変わらないものだよ」
 ノンシャランとしていながら、なかなかに深い言葉だと思う。
 こないだ「神楽感覚」を読んだり、ここんとこなんだか細野晴臣と縁がある。あ、そういえば、この本を読んで知ったのだが、武満徹はコシミハルを天才と呼んで高く評価してた、と。



 別冊歴史読本「歴史の中のサンカ・被差別民」   新人物往来社
 差別について考えている。縄文がぼくのキーワードだったのだけれど、いろいろ調べていくうちに差別に行き当たった。こういう雑誌の特集の面白いところは、1冊の中に相反する意見があったり、同じ意見を何人かがくり返していたりするところだ。
 たとえば東北に被差別が少ない、また差別そのものがあまりないという点について(実は縄文的世界観の残っているところには差別が少ない)、宮台真司と網野善彦の発言は正反対だったりする。
「東北は、江戸時代後期に至るまで非常に貧しく、それゆえに社会的分業もさして進んでいなかったので「職業に貴賤なく」、それゆえに「貴賤」への「聖穢」の重ね焼きもなかった。皆が貧しくてカツカツの状況では、実は、人に「聖穢」を貼り付ける差別は起こらないのです。人に「聖穢」を貼り付ける差別は、豊かになり、階層化が進み、分業秩序を維持したり頂点を正当化する必要が出てきて、初めて登場するのです。その結果として、聖でも穢でもない―――階層の頂点で末端でもない―――膨大な人々が、方向感覚や美意識や勇気を与えられるわけです」(宮台)
 しかし、網野善彦(そしてその発言はこの本にはないが赤坂憲雄なども)はそれを古く一方的な見方でしかないと退けている。
 またその一方で宮台のこの発言は正鵠を得ていると思う。長くなるけど引用しちゃう。
 「これまたどんな社会にもあることですが、同型的な部族社会が社会の各所に散在するような環節的=セグメンタルな段階から、これらが中心的部族によって集権的に掌握される段階になると、中心的部族の巫王だけが偉くて、後は偉くないんだという話になります。日本で言えば、飛鳥時代の朝廷成立に関わることですが、階層的な社会構成に変わっていくわけです。そのときに、どの社会でも同じなんですが、聖なるものは、ピラミッド型をした階層の頂点に存在する人に配当されます。そのときに問題になるのが、各部族で聖なるシャーマンとして機能してきた人たちがどうなるのかということです。
 日本でもそれが問題になって、彼は典型的には陰陽寮に隔離的に配置され、ミカドの聖性に抵触しない範囲内で、人々の土俗的な習俗に見合った統治の装置としての機能を、過渡的には果たすわけです。やがて中央集権化が深まってくると、これも多くの社会で起こったことですが、頂点に存在する聖性にとって、下々の土俗的聖性を支えてきたシャーマン、すなわち陰陽寮に属する者たちが、邪魔になってくるんです。
 つまり、権力的支配が貫徹可能な段階になると、従来の部族的段階の聖性を担ってきた者たちは、集権的支配を補完する道具として利用できる範囲で存在を許されていたものが、用済みになって、階層性の最も下に叩き落とされるわけです。かくしてピラミッド型階層の頂点に聖なるミカドが存在し、底辺に穢なる被差別民が存在し、他の階層は全てケ(俗なるもの)として両者にサンドイッチされる形になります。すなわち、非階層的な環節的社会における「聖穢」観念が、階層的社会における「貴賤」の身分観念と重ねられ、単なる時間・空間観念というよりも、人に貼り付けられるものとなります。どこでも同じことが起こっています」
 そこに問題がある。古くからのとして有名なのが京都の清水坂と奈良坂だが、そのどちらも皇室が起源であるという出自をもつ。差別の問題は王権と強く絡み合っているのだ。であるならば、宮台本人の言う「経済的要因」だけでなく、西の方に差別が強くあるのは、東北に比べて王権が確立していた側面もその要因になっているのではないだろうか。
 ところで、「野中(野中広務のこと)のような出身者を日本の総理にはできないわなあ」などと言い放った麻生太郎こそ日本の総理にふさわしくないと思うのだが。



 藤野千夜「おしゃべり怪談」     講談社
 女流作家かと思った。4編の短編小説集なんだけれど主人公はみな女性。すごいなあ。ぼくにとって女性は謎なのに。長島有なんかもそうだよなあ、すごいよなあ。もっとも謎は謎なりに、生のまま提出してる部分が味なのかもしれない。たとえば病気の金魚に対するぐずぐずした態度とか。
 いずれにしても、ああ、そういう女性っているかもね、という日常の面白さと不思議なずれが満載。表題作はその点、ほかの3作と違って背景が非日常的で異色。店長が刺された雀荘で、包丁で脅され延々麻雀をさせられる4人の女性たち。この作品はそうした背景だけじゃなく怖かった。



 早乙女貢「会津士魂」第4巻   新人物往来社
 ちょっと辛くなってきた、第4巻。慶喜の大阪脱出。もうこれから会津にとっていいことなんかありゃしねえ(C忌野清志郎)。歴史ものの困るところはここなんだよなあ。おお、会津ここから奇跡のJ1残留かよ、みたいなドラマは訪れない。会津やアイヌといったぼくがシンパシーを感じる人々の歴史のなんとツライことか。
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先週の読書

2009年01月13日 12時10分00秒 | 読書
 いや、まさか早稲田が勝つとは思わなかった、大学ラグビー。今年の帝京は強く、また激しく、ちょっと早稲田は厳しいかな、と思っていたのだが、やはり決勝となると伝統校の強みが出た気がする。ずいぶん前だけれど、大阪体育大学との準決勝を思い出した。帝京も大阪体育大学も、もう一度やったら勝ったんじゃないかと思う。


早乙女貢「会津士魂」第1~3巻   新人物往来社

 暮れに亡くなった早乙女貢氏の代表作。全13巻のうち、今週は3巻まで。
 もともと明治維新などというものが嫌いなぼくにとっては自分の主張にかなり近い本なのだけれど、それでもやはり片方を下げすぎ、片方を上げすぎというきらいもなきにしもあらず。事実がどう、というより著述のやり方として。
 明治維新が嫌い、だと言うと、じゃあ、お前はいまだにちょんまげ、刀ぶらさげてる時代劇みたいな世の中がいいと言うのかと質問されそうだけれど、そんなことはない(というか、それはそれで楽しそうな気もするけれど)。薩長と公家の一部が自分たちの野心むき出しに成り上がったことを美称したのが明治維新にすぎない。事実、あいつらは開国を容認する幕府に攘夷しろと迫っていたんだから、時代錯誤もはなはだしい。
 幕府の作ったドライドックが今でもアメリカ軍横須賀基地で現役で使われていることから考えても、薩長などがしゃしゃり出ずとも、十分幕府主導で近代化はできたはずである。
 しかも大政奉還して望み通りになったにも関わらず、薩長は自分たちだけがトップになるために戊辰戦争をしかけてきた。
 戊辰戦争に勝つと、会津藩全体を下北半島に流し、昭和になるまで、会津は朝敵であると教科書に載せ続けた。
 以前読んだ、半藤一利と保坂正康の「『昭和』を点検する」に面白い一節があった。

半藤 こういうこと(日本は戦争でアメリカに勝てる)を言った人、すなわち日本を破滅の淵に引きずりこんだのはみな薩摩と長州の出身であった。いつもこの話になると、ついよけいな話をしたくなるんですが、あの戦争を終わらせなくてはならないといって、命懸けで頑張った人は、みんな明治維新のときの賊軍側なんですね。米内光政は盛岡藩、井上成美は仙台藩、それから鈴木貫太郎は関宿藩、みな御一新の際に賊軍側だった人たちばかりなんです。明治国家をつくったのは薩長かもしれないがダメにしたのも薩長であった。そしてそれを救ったのは賊軍である。

 長州は藩を二つに割って、藩の中で殺し合い、めぼしい者はどんどん死んでいった。維新の元勲などといっても山県有朋や伊藤博文などは、その殺し合いの中で標的にさえならなかった小物ばかりだ。

「天下を奪おうという野望は、金銭をも、湯水のように費消する。公金を女と酒につぎこんで、英雄とされるのが、祇園という色街である。長州の桂小五郎(木戸孝允)と幾松の関係なども、その間の消息を物語っている。こうした風潮が、山県狂介(有朋)や伊藤俊輔(博文)などの後年の破廉恥きわまる行動になってあらわれている。そして、それはたんに好色の問題だけではなく、色街と政治との結びつきという悪習を一世紀後の現代にまで持ちこしてしまうのである。
政治汚職は、色街と政治の結びつきから起こっている。明治維新というものの性格も背面から見ると、いかに私利私欲に裏打ちされたものか理解される」(「会津士魂第3巻」)



中沢新一「対称性人類学」    講談社選書
 中沢新一のカイエ・ソバージュを後ろから読んでいこうとする企画。そんなわけで最終巻「対称性人類学」を読む。
 区別するよりも同質性を重視する対称性人類学は、したがって人間と動物との間に隔絶された境界線を引くことを拒絶する。しかしそれでは人間は生きることができない。同質性を強調していけば、人間は仲間を殺して食うことになってしまう。そこで対称性の論理に対する非対称性の論理と、このバイロジックな論理によって社会は運営されていく。
 しかし、その2つのうち非対称性の論理だけが前面に出てきてしまっているのが現代社会であり、今の社会に多く存在する問題や困難は対称性の論理を喪失してしまったことによる、とこの本は説く。
 その一方で対称性の論理は決して滅びていないとも指摘する。それはわれわれの無意識そのものなのだ、と。
 そこから始まる、無意識、仏教、性を巡る中沢新一の大冒険はわくわくスリリング。
コメント (2)
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青山真治「死の谷 ‘95」

2008年11月04日 19時38分48秒 | 読書
青山真治「死の谷‘95」       講談社

 車を運転していたある朝。ラジオが関西地方を襲った地震について伝えていた。死者が出たもようです、との報道に、車載のテレヴィをつけてみた。そこに映された映像は「死者が出たもよう」などというアナウンスが間抜けなものに聞こえる惨状だった。
 仕事が始まってまだ10日、それなのに1995年は唐突に惨事を用意し、しかもそれを関西にとどまらせることはなかった。
 3月には地下鉄でサリンがまかれるという前代未聞のテロ事件が起きた。
 1995年、この国は戦争以来初めて理不尽な大量死を再び味わうことになる。
 首都高5号線沿線に住んでいるぼくは、この時期、ものすごい数の自衛隊車両が何度も5号線を南下していたのを覚えている。そのたび、また永田町近辺で何かあったのか、と思ったものだ。
 死が、死者に原因があるものではなく、むき出しの不条理さで人々に無差別に迫ってきたのが1995年だ。天災であれ、犯罪であれ、この何の罪もない落ち度もない被害者たちが死んだ理由は一つしかない。
 たまたまそこにいたからだ。
  これは戦争と変わらないことなんだ。
 1995年の日本は戦時下と変わらなかった。

 この物語は、だから戦時下の日本なんだ。その状況下で語られる人と人とのつながりのあやうさ、本能が壊れた人間たち(これはわたしたち全員がそうだ。わたしたちはすべて潜在的な変態なのである)が織りなす性と死、これらを探偵=謎解きをエンジンとするリーダビリティの高さでぐいぐい引っ張って描写していく。
 青山真治は映画もいいが、小説もいい。
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飯嶋和一「出星前夜」

2008年10月30日 22時29分35秒 | 読書
飯嶋和一「出星前夜」                 小学館


 島原の乱。
 苛政とそれに連なる貧困、飢餓が25年の時を隔て人々をキリスト教に帰らせることになった。したがって、そこで戦われたのは、信教の自由というよりも、貧困や飢餓、疫病から逃れ、人が人として生きる権利だったのではないか。
 丁寧に人々の困窮する生活を描くことによって、この本はそういう新たな視点をぼくたちに獲得させてくれる。
 キリシタンに立ち返ること、それは単にキリスト教を再び信仰する宣言なのではなく、悪政に立ち向かうことを意味したのだ。したがって、ここでのキリスト教は最後の審判を信じ、それまで耐える宗教ではなく、戦う宗教となった。
 人々は熱狂し、進んで戦闘に参加した。しかし、著者はその様子を「焼け死ぬことを知らず灯火に吸い込まれていく羽虫の群れの寒々とした光景」と描写する。われわれも知っている、これがどんな結末になったのか。
 大変興味深いのは島原で生きるために勃発した蜂起と天草での蜂起とが微妙にそのスタンスを違えている点だ。島原では主謀者は処刑されるにしてもこの蜂起によって藩のめちゃくちゃな政治は公になり、改易など幕府の介入によって残された民衆の生活は上向きになるだろうとの考えで蜂起は起きた。
 それに対して天草ではキリスト教の神の国の実現を目指して、そのためには殉教もいとわない覚悟で蜂起した、とこの小説は語る。
 島原も天草のジェロニモ四郎に忠誠を誓った以上、全体が天草の殉教へ向かっていってしまう。
 生活苦から始まった蜂起がいつの間にか神の国建設の蜂起へと変化するにつれ、、生きるための蜂起が死ぬための蜂起へと変わってきてしまうのだ。
 その2つの立場を寿安と四郎という2人によって実感できる形で描写されている。
 そして著者は主人公を寿安とすることによって彼の主張を吐露しているのだろう。

 同じく島原の乱を描いた堀田善衛の「海鳴りの底から」もすばらしい本なので、できれば2冊あわせてどうぞ。
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コニー・ウィリス「ドゥームズデイ・ブック」

2008年10月24日 10時25分31秒 | 読書

  コニー・ウィリス「ドゥームズデイブック」     ハヤカワ文庫

 高麗神社からの帰り、自転車をばらして電車に乗った。
 自転車を持って電車に乗ると注目を浴びることが多い。そのときも一人の外国人が本を読みながら、ぼくをちらちら見ていた。
 見られていることよりも、ぼくは彼が読んでいる本の方が気になった。彼が読んでいたのは、コニー・ウィリスのペイパーバック「Passage」だった。
 実は、ちょっと前それを読んで、感心したのだ、その手管、テクニック、読者のツボを察知する能力。
 まあ、一言で言えば、やられちゃったのよ、その本に。
 終末まで一気に読み終わりたいくせに、読み終わったあとの寂寞感にさいなまれてしまい、ぼくは、だから、彼女の他の本も読むはめになってしまった。
 それがこの「ドゥームズデイ・ブック」。
 生を豊かにするために本を読むのではなく、その本を読むためだけに生きているときがある。
 シェンケヴィッチの「クォ・ヴァディス」、デュマの「三銃士」、ワクワクする気持ちでその本を読みたくて、食事だろうが学校だろうが、そんなものは二の次で、大事なのは目が文字を追うことと指がページをめくることだけ。
 もちろん社会人になってしまった今日、それが完全な形で再現できるとは思わないが、ずいぶんスケールダウンした形として、ぼくは言える。ぼくはコニー・ウィリスの「ドゥームズデイ・ブック」を読むために、ここ数日生きていた。
 それくらい面白かった。いや、面白いというのはどうだろう、ふさわしくないかもしれない。なにしろ悲惨な場面や生理的に受け付けないような場面が続出するのだから。
 でも、読み続けたくなる読書を引っ張る力があるのだ。
 この人の宗教との関わり方の絶妙さがいい。ときとして狂信家は狭い場所に他人を押し込めようとしたり(しかもそれを善意で! この善意が一番うさんくさいんだ、実は)、他人に自らの狂信を押しつけようとする。それに対する警鐘の鳴らし方がいい。
 過去への時間旅行が可能になった未来。女子大生キヴリンは衛生状態が悪く、危険なため誰も訪れたことのない14世紀(トレチェントだ!)に旅立つ。旅行時、すでにウィルスに感染していた彼女は、行った先で倒れてしまう。さらに悪いことに時間旅行の操作者もそのウィルスに感染して朦朧とした意識の中、彼女を誤って目標よりももっと後の時代、ペストの時代に送り込んでしまう。
 果たして彼女を待ち受ける運命は………。
 ほんと、おもしろかった。文庫本、上下で1200ページほどなのに、あっという間に読み終わった。
 ただ、書かれた年代のせいか、時間旅行が可能な時代に携帯電話がないのかよ、とか、この時代はもうトイレットペイパーは使わないんじゃないの、などの感想もあり。
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ユベール・マンガレリ「四人の兵士」

2008年10月21日 08時34分48秒 | 読書

 ユベール・マンガレリ「四人の兵士」            白水社



 これがフランスで売れているとしたら、フランスの文学的成熟度はかなり高いと思う。
 静かに淡々と語られる兵士の休息。文学的な語り口調などなく、表現は平素、アクロバティックなたとえや小粋な会話もない。戦争文学にありがちな思索的なもの、あるいはヒロイックな行動、手に汗を握るスリリングな展開、そんなものもない。
 1919年、ルーマニア戦線から退却中のロシア兵四人は互いに気遣い、一緒に楽しみ、つかの間の時を安らぐ。
 シンプルで素直な筆致で描かれる彼らの生活は、読んでいくにつれ、彼らにとってどれだけ貴重なものであったか悟らされる。
 やがて、宿営地を引き払うよう命令が下る。追っ手が追いついてきたのだ。そのときの彼らの静かな絶望、不安、とまどい。声高に叫ばない悲しみが痛いように伝わってくる。

「ぼくの横にはシフラがいた。せめて、持って行くのが清潔な毛布でよかったよ、と話しかけると、コートも洗っておけばよかったね、とこたえた。うん、洗えなくて残念だ。そう返事をしたとたん、ぼくは思った。そんな日があと一日でもあったら、沼にコートをざぶんと浸けたり、ごしごしやったりして愉快に過ごせたら。そして、洗ったコートを陽なたに干してやる日が、さらにもう一日あったら」

 その一日を希求するのが人間であり、そして悲しいことにほとんどの場合、その一日が再び訪れることはない。
 彼らの思い出は記録されることなく消え去ってしまうのだろうか。
 しみじみといい本に出会えた。
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野田隆「テツはこう乗る」

2008年10月08日 13時03分46秒 | 読書
野田隆「テツはこう乗る」      光文社新書


 日本で一番長いホームのある駅はどこ?
 日本で一番大きい番数のホームのある駅はどこ?

 わかります?
 実はこの2つ、同じ駅なんです。正解は最後に(おいおい)。
 自転車であちこち行くようになって、不思議なことに鉄道が好きになった。移動手段が行きが自転車、帰りが鉄道という形態を多く取るようになって、鉄道と接することが多くなったからだろう。
 去年の夏に鶴岡から新潟まで乗った羽越本線なんか旅情豊かでよかったなあ。
 などと少しテツ分が蓄積したかな、と感じた昨今、手にしたのがこの本「テツはこう乗る」。
 マニアというのはディープな世界である。自転車一台に100万円払う人もいれば、自宅をお城に改造してしまう人もいる。それと同様、テツも奥が深いのだ。ぼく程度の人間は普通の範疇で、とても鉄道マニアなんかじゃないことがよくわかる。
 ひと言でテツと言ってもいろんな人がいる。なかには鉄道に乗ることにあまり興味がない人さえいるんだそうだ。
 たとえば古い型の機関車の模型を作ることに一生懸命になっている模型テツ。そういう人にとって現実の山手線や羽越本線が興味の対象であるとは限らない。なるほどね。
 その分類によれば、ぼくは「乗りテツ旅情派」らしい。乗りテツにはほかに記録派があり、こちらはたとえば一つの路線を全線制覇(各停じゃなきゃだめだの、いや、全駅下車じゃなきゃだめだの、人によって基準はまちまちだが)するとか、一つの駅を2度通過することなく最長の片道旅行をするとか(これは現在、稚内から佐賀県の肥前山口までが最大らしい。その距離12000キロ弱。ちなみにパリから北京までがおよそ16000キロ)。
 そんなマニアックな世界がかいま見られる。野次馬根性で見てもおもしろいし、好きな人にはそれなりの情報もある。まあ、気軽に読める楽しい本でありました。

 あ、冒頭のクイズの解答をば。
 答えは「京都駅」。京都駅0番ホームは、30番ホームとくっついていて、全長約558m。
 そしてまた京都駅には34番ホームがあり、これが日本一大きい番数のホーム。
 ちなみに一番ホームが多いのは東京駅(28番)。
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