江戸の北の千住、南の品川には共通するものがいくつもある。
たとえば刑場、被差別民、天王社、遊女。さらにその少し内側に徳川政権の菩提寺(北の寛永寺、南の増上寺)があることも共通している。それはまるで江戸の北と南にきれいなシンメトリーを描いているようにも見える。
たぶん、描こうという意図はあったのではないだろうか。
千住は仮想敵国蝦夷を控え、品川はやはりいわば仮想敵国である天皇へ通じる道。
その道の境界上に浄化装置としてこのようなものが置かれたのではないか。
刑場は悪を排除し、体制内を浄化する。
被差別民は刑の執行や死体の処理にあたるとともに、コトホギやヤクバライなどのキヨメも行った。
遊女たちはいわば江戸の穢れを一身に背負うことによって、来た者の穢れを払う。
天王社も御輿が水を浴びることによって浄化する祭を行う。
「こうして徳川王権は、江戸の南北に延びる二大街道の境界付近に、まず徳川聖地の祈願寺・菩提寺を置き、その外側の他界空間には二大刑場、二大被差別民、二大遊里という“浄化装置”を配したわけです。さらに奥州街道と東海道のふたつのルートは、北に征夷大将軍の仮想敵国・蝦夷地をひかえ、南は天皇の住む京都に通ずる道でもあったのです。
このような、日本列島の全構図にまで拡がるヴィジョンをもった徳川将軍家は、たんなる天皇を補完する武家政権の枠を大きく逸脱し、やはり「王権」としての力を十二分にもった武力的・呪術的権力だったと結論づけられると思います」(内藤正敏「魔都江戸の都市計画」)
さてさて、そんなこんなで旧東海道が国道15号と再び交わるところにあるのが、鈴ヶ森刑場跡である。
ぼくは霊感などこれっぽっちもないのだけれど、頭が重くなってちょっと頭痛がした。
歌舞伎などでおなじみのひげ題目。
丸橋忠弥などを処刑する際、磔をこの穴に固定して行ったとの伝承。まさに処刑の行われたリアルな礎石。
こちらは同じように火あぶり用の鉄柱を建てる穴とのこちらも伝承。真偽はわかりません。
江戸時代、これらの刑場で年間1000人が処刑されたと言われている。公開で毎日2,3人が処刑された計算で、ちょっと想像がつかない数だ。
千住もここも大きなマンションが建ち並ぶ街となり、徳川王権のヴィジョンは跡形もなく消え去ってしまった。