栗本慎一郎/小松和彦「経済の誕生」 工作舎
なぜ人はパンツをはくのか。
それは脱がすため、あるいは脱ぐためだ。かつて「パンツをはいたサル」で一世を風靡したクリシン(そんな風には呼ばれてなかったけど)こと栗本慎一郎と当時気鋭の若手民俗学者小松和彦との対談。クリシン、はしゃぎ気味、30年近く前の出版。
禁忌と侵犯。
パンツに限らず、日本に限らず、およそ人類はこのテーマを繰り返し繰り返し語ってきた。多くの場合、それは「見ること」のタブーだ。火の神を生んで局所を火傷して亡くなった伊邪那美命を追って黄泉の国を訪れた伊邪那岐命。エウリディーチェを失って冥界を訪ねたオルフェウス。メドゥーサ、ゴモラ、さまざまなタブーがあり、人類はそのたびにそのタブーを犯してきた。
鶴の恩返しだって、浦島太郎だって、倭迹迹日百襲姫尊命だって、見ちゃ後悔している。
もはや、すでに「見るな」は前フリでしかない。「開けちゃだめ」って言いながらモノを渡す乙姫さんの心の中に黒いものが見える。わざと禁止を犯させるために言ってるだろ、それ。
パンツは、つまり「開けちゃだめ」という前フリであり、そしてその後の「見ちゃう・開けちゃう」ことはすでに織り込み済みの行為なのだ。
集団を規定できるのは、その集団に対してメタレベルから禁忌を与える異界である(とか、ちょっと言ってみたかっただけ)。そしてわれわれの集団は、その禁忌と侵犯を繰り返すことによって、集団を活性化し、かつ安定化させている。
経済学は資産運用とか、企業情報とかとは本来質が異なるものだ。ここで言われる「経済」はクリシンのこのような発言によって垣間見られる。
「死のしるしに接触することによって共同体が燃え上がる。死のしるしとは他界であり、燃え上がるというわけだから、燃え上がらせるもの、生存させるものこそ、広義の経済学、本当の経済学の富なんですよ」
今でも古い議論ではない。
なぜ人はパンツをはくのか。
それは脱がすため、あるいは脱ぐためだ。かつて「パンツをはいたサル」で一世を風靡したクリシン(そんな風には呼ばれてなかったけど)こと栗本慎一郎と当時気鋭の若手民俗学者小松和彦との対談。クリシン、はしゃぎ気味、30年近く前の出版。
禁忌と侵犯。
パンツに限らず、日本に限らず、およそ人類はこのテーマを繰り返し繰り返し語ってきた。多くの場合、それは「見ること」のタブーだ。火の神を生んで局所を火傷して亡くなった伊邪那美命を追って黄泉の国を訪れた伊邪那岐命。エウリディーチェを失って冥界を訪ねたオルフェウス。メドゥーサ、ゴモラ、さまざまなタブーがあり、人類はそのたびにそのタブーを犯してきた。
鶴の恩返しだって、浦島太郎だって、倭迹迹日百襲姫尊命だって、見ちゃ後悔している。
もはや、すでに「見るな」は前フリでしかない。「開けちゃだめ」って言いながらモノを渡す乙姫さんの心の中に黒いものが見える。わざと禁止を犯させるために言ってるだろ、それ。
パンツは、つまり「開けちゃだめ」という前フリであり、そしてその後の「見ちゃう・開けちゃう」ことはすでに織り込み済みの行為なのだ。
集団を規定できるのは、その集団に対してメタレベルから禁忌を与える異界である(とか、ちょっと言ってみたかっただけ)。そしてわれわれの集団は、その禁忌と侵犯を繰り返すことによって、集団を活性化し、かつ安定化させている。
経済学は資産運用とか、企業情報とかとは本来質が異なるものだ。ここで言われる「経済」はクリシンのこのような発言によって垣間見られる。
「死のしるしに接触することによって共同体が燃え上がる。死のしるしとは他界であり、燃え上がるというわけだから、燃え上がらせるもの、生存させるものこそ、広義の経済学、本当の経済学の富なんですよ」
今でも古い議論ではない。
二項対立で物事を斬っていくのもわかりやすかったです。
病気で倒れてからは順調に回復されているのでしょうか・・・。もしお元気だとすれば、最近は栗本さん、どんなことを考えてらっしゃるのでしょうね。
クリシンは、あのバカの小泉純一郎(彼と同級生)でも代議士になれるしやってるんだから、俺がやったらもっとすごいことができると思ったのではないでしょうか(バカ発言は栗本慎一郎によるもの)。政治家は結局向いてなかったようにぼくも思います。何を言っているかより、誰が言っているかの方が大事な世界は、学者向きじゃないですもんね。
ぼくも彼によって、たとえば「ドーパミン」なんて言葉を初めて知りました。