Cool Struttin' performed by Sonny Clark
日本人は何かにつけ外国人からどう思われているのかを必要以上に気にする国民のようで、ジャズが本場アメリカでどう聴かれているのか、日本人の聴き方とどう違うのかが60~70年代のジャズ専門誌でも頻繁に議論された。曰く「今のジャズの本流は○○だ」とか「○○を聴かない日本のジャズファンは、だから駄目なんだ」等々、噴飯ものの発言が幅を利かせていた。
このソニー・クラークのクール・ストラッティン/ Cool Struttin'も、「これぞジャズの本流と有難がって聴いている日本人程、アメリカ人はこの曲を評価していない」と当時の専門誌で主張されていたと記憶している。実際のところ21世紀の日本においてさえ、映画の宣伝で「全米が泣いた」という惹句があれば映画館に足を運んでしまう映画ファンがいるというから、事情は変わっていないのだ。
筆者はこのような断定が音楽を聴く楽しみを妨げていると考える。音楽も映画もビジネスなので配給側はマーケティングに知恵を絞り、消費者の琴線に触れるコピーで売り上げをあげるのが当たり前なのだが、自分以外のその他大勢が注目しているから聴いてみる、観てみるというのは自分の感性を信じていないということだ。
86年のフジマウント・ジャズフェスでクール・ストラッティンを楽しんで演奏するミュージシャンと、放たれた音を楽しむ聴衆を観ていると「音楽は楽しむためのもの」という当たり前のことを感じてしまうのだ。
日本人は何かにつけ外国人からどう思われているのかを必要以上に気にする国民のようで、ジャズが本場アメリカでどう聴かれているのか、日本人の聴き方とどう違うのかが60~70年代のジャズ専門誌でも頻繁に議論された。曰く「今のジャズの本流は○○だ」とか「○○を聴かない日本のジャズファンは、だから駄目なんだ」等々、噴飯ものの発言が幅を利かせていた。
このソニー・クラークのクール・ストラッティン/ Cool Struttin'も、「これぞジャズの本流と有難がって聴いている日本人程、アメリカ人はこの曲を評価していない」と当時の専門誌で主張されていたと記憶している。実際のところ21世紀の日本においてさえ、映画の宣伝で「全米が泣いた」という惹句があれば映画館に足を運んでしまう映画ファンがいるというから、事情は変わっていないのだ。
筆者はこのような断定が音楽を聴く楽しみを妨げていると考える。音楽も映画もビジネスなので配給側はマーケティングに知恵を絞り、消費者の琴線に触れるコピーで売り上げをあげるのが当たり前なのだが、自分以外のその他大勢が注目しているから聴いてみる、観てみるというのは自分の感性を信じていないということだ。
86年のフジマウント・ジャズフェスでクール・ストラッティンを楽しんで演奏するミュージシャンと、放たれた音を楽しむ聴衆を観ていると「音楽は楽しむためのもの」という当たり前のことを感じてしまうのだ。