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わたしはほんとうに断食献金を納めなければならなかったのでしょうか

2021-11-08 04:57:59 | 日記
わたしはほんとうに断食献金を納めなければならなかったのでしょうか

チャケル・ワードレイ・ハーバート
教会機関誌
わたしは断食献金を納めたことがありませんでした。ビショップからの招きに従うべきでしょうか。

わたしはビショップと,彼のオフィスで楽しい会話をしていましたが,ほんとうはそれほど集中していませんでした。

12月の中旬で,什分の一の面接を受けていたのです。什分の一の証があるので完全に納めていましたし,その短い面接のことはそれほど重要に考えていませんでした。そのときは特に数学の期末試験の再試験で不合格の通知を受けたばかりでしたので,早く大学の試験勉強をしたいとそわそわしていました。

試験の結果にとてもがっかりしたので,うわの空でした。

ビショップは優しくわたしの方を見て,

「今年は断食献金を納めていないようですね」と笑顔で言いました。

その言葉はわたしの注意を引きました。

ビショップの言うとおりでした。

何か月も断食献金のことは念頭にありませんでした。わたしが育った環境では,家族内でも教会でもそれについてあまり話題になることはありませんでした。

自分が今YSAワードに所属しているので,それほど献金しなくてもよいと誤解していたのもありますが,さらに自分の高慢さや,断食と断食献金に対する証をほんとうは持っていなかったということも理由として挙げられます。

什分の一を納めて,食を断っていれば十分だと考えていたのです。

「確かに今年は払っていませんでした」とわたしは答えました。「でも,什分の一を納めて断食をしていれば,それで十分ですよね?」

ビショップはほほえんで,毎月の断食に伴って断食献金を納めることの大切さと,それがワード内で必要な人達にどのような物質的な祝福をもたらすのか説明してくれました。

ビショップは何よりも,自ら犠牲を払って断食の律法を守る人に与えられる祝福について強調しました。

彼はわたしの目を見て言いました。「これらの祝福は,その時々で直面している試練を乗り越える助けとなります。教育に関することでさえもです。」

無意識に口が開くほど驚きました。わたしが数学のテストで不合格になったことはまだ伝えていませんでした。

「つまり,わたしが断食献金を納めれば,次のセメスターでは数学の試験に合格できるということですか?」と尋ねました。

二人で笑いましたが,彼が実際にうなずいたのには少し驚きました。

ビショップは,わたしが研究して,断食の律法の重要性について証を得て,毎月断食献金を納めれば,天の御父がわたしに注いでくださる祝福に驚くでしょうと言いました。

この数学のクラスが大学で進級する唯一の壁となっていること,そしてこれまでも数学で苦労してきた(特に数字と文字が出てくる問題)ことを考えて,わたしは試してみることに決めました。

なぜ断食をするのかを学ぶ

次のセメスターの初めに,わたしはこれまで以上に数学の勉強に励み,またできるかぎり断食と断食献金についても学ぶことを自分に約束しました。

小さいころからいつも断食はしてきましたが,意味のある断食をしたことはありませんでした。通常は,断食日の日曜日になると,自分がどれほど空腹か考えて,聖餐会中に幼い子供たちが床に落とすグミを,おいしそうに眺めていました。

新しい月がやって来ると,什分の一と断食献金を納めるのは困難でした。金欠の大学生でしたので,大して献金する余裕はありませんでした。

しかし数か月もすると,嫌々納める気持ちや高慢さが少しずつ薄れていきました。なぜ断食をしているのかに焦点を当てると,毎月の断食安息日を通して,多くの面でわたしの心と信仰に変化が起こりました。

⚫ 断食の始めと終わりのお祈りが,もっと心のこもった意味深いものとなりました。

⚫ 断食献金は,ただ胃袋が鳴ることに集中する代わりに,目的を持って断食する助けとなり,わたしは御霊の静かな声と影響を認識するようになりました。

⚫ 毎回の断食の終わりには,純粋で深い霊的な力がわたしの霊を満たし,心に穏やかな気持ちを感じました。

⚫ 最終的に気づいたことは,わたしたちがほかの人々のために進んで犠牲をささげるときに,よりキリストのようになるために精錬されるということです。それは主がわたしたちのためにまさに行ってくださったことだからです。主の生涯そのものが,人々に与えることでした。

⚫ どれほど多くの人に,自ら進んで与えようという思いで仕えることができるかを考えるにつれて,慈愛の精神が毎月心に育まれていくのを感じました。そして,人生において,これまで見過ごすことがあったすべての祝福に対する感謝の思いも感じました。

⚫ 光と祝福を人々と分かち合うという目的のために断食をすることは,自分自身のために断食をすることよりももっと大切だと思うようになりました。

⚫ 天の御父と救い主とのつながりをさらに感じるようになりました。

⚫ 絶え間ない試練に直面しても,多くの小さな恵みを経験し,生活の中でたくさんの喜びを感じました。

十二使徒定員会ジョセフ・B・ワースリン長老(1917-2008年)の言葉に感銘を受けました。

正しい精神で,主の方法によって行う断食は,わたしたちを霊的に活気づけ,自制心を強め,家庭に平安を満たし,喜びによって心を軽やかにし,誘惑から守り,逆境に備え,天の窓を開きます。

断食の律法を守るときに,祈りによって神に近づくだけでなく,飢えた人に食べ物を与え,貧しい人を助けることができます。

それは多くの約束された祝福がわたしたちを待っていることを意味しています。

この経験以来,主の弟子としてのわたしの人生において,断食と断食献金は重要な要素となりました。献金するたびに,天の御父と救い主をさらに近くに感じます。時には,わたし自身やほかの人々のために答えや慰めを求めて断食日ではない日に断食をすることもあります。

断食の律法はほんとうに贈り物だと気がつきました。

わたしの試験のことを気にしているのであれば,もちろんあのセメスターに奇跡的に数学のクラスをパスしました。そしてただ合格しただけでなく,クラス内で最高得点者の一人になりました。もちろん勉強はしましたが,これまでの人生で初めて,あの苦手だった文字や数字の意味がようやく頭で理解できたように思います。

天の御父は奇跡の神であられる

わたしたちが天の御父とその御子イエス・キリストに従い,その戒めに従う努力をするときに,信仰と希望,慈愛をもって前進することができ,御二方はわたしたちの努力に応じて祝福を与える用意ができていることを教えてくださいます。

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🔵本日もお読みいただいて、ありがとうございます。

このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会リアホナ2021年7月号からご紹介しました。

本日も、良い1日をお祈りします。

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正しい精神で,主の方法によって行う断食は,わたしたちを霊的に活気づけ,自制心を強め,家庭に平安を満たし,喜びによって心を軽やかにし,誘惑から守り,逆境に備え,天の窓を開きます。

“Fasting in the proper spirit and in the Lord’s way will energize us spiritually, strengthen our self-discipline, fill our homes with peace, lighten our hearts with joy, fortify us against temptation, prepare us for times of adversity, and open the windows of heaven. …

断食の律法を守るときに,祈りによって神に近づくだけでなく,飢えた人に食べ物を与え,貧しい人を助けることができます。

“As we live the law of the fast, we not only draw nearer to God through prayer, but we feed the hungry and care for the poor.”



「わたしがあなたがたを導いて行く」

2021-11-08 04:26:20 | 日記
わたしに従ってきなさい
教義と聖約77-80章

「わたしがあなたがたを導いて行く」
ミルトン・カマルゴ兄弟

中央日曜学校会長会第一顧問
わたしたちは霊的には子供かもしれませんが,主を信頼するなら,主がわたしたちを導いてくださいます。



教義と聖約第78章17-18節で,救い主は次のように言っておられます。

「まことに,まことに,わたしはあなたがたに言う。あなたがたは幼い子供であり,父がどれほどの大いなる祝福を御手の中に持っていて,あなたがたのために備えておられるかをまだ理解していない。

あなたがたは,今はすべてのことに耐えることはできない。しかし,元気を出しなさい。わたしがあなたがたを導いて行くからである。王国はあなたがたのものであり,その祝福もあなたがたのものであり,また永遠の富もあなたがたのものである。」

わたしたちは皆,人生における経験について考えるとき,必ずや,主が自分を導いてくださったときのことを思い出すことでしょう。

ある宣教師の信仰

わたしは,主が何人かの人たちを導いてくださったときのことを覚えています。わたしはそのとき,ブラジル・ポルトアレグレ南伝道部で伝道部会長を務めていました。宣教師の一人に口蓋裂という疾患があり,彼はその治療を受けたことがありませんでした。彼が話をすると,空気が口の上から鼻に抜けていきました。ほかの人たちが彼の言葉を理解するのは困難でした。

この若い長老はわたしに,自分の問題について祈ったことを話してくれました。答えを見いだすのをわたしが助けてくれると御霊がささやいたのだと,彼は言いました。その純粋で確固とした信仰に,わたしは霊が鼓舞されました。わたしは神に頼り,解決策を見つけられるよう助けを求めました。

簡単な手術で問題を解決することができるのですが,手術を受けるまでのプロセスは簡単ではありません。もし私費で手術を受けるなら,この宣教師の家族にとってはあまりに高額になります。一方,公の医療制度を使えば,何度も予約が必要になり,彼の伝道の残りの期間を使い果たしてしまうことになりそうでした。


妻の信仰

成し遂げるのが難しい使命にぶつかる度に,わたしは妻の信仰と助けに頼ります。わたしはこの宣教師が置かれた難しい状況を妻に説明し,地元の公立病院に相談してほしいと頼みました。どうにかして費用をかけず,無理のない期間で手術ができる方法はないものだろうか。

助けを求めて祈った後,妻は病院へ行きました。妻は受付と話をするために長い列に並びました。列が進むにつれ,前に並んでいる人たちの相談がどのように処理されているかが聞こえてきました。たいていの人は,半年後,時にはそれ以上後に予約を取ってからもう一度来るように言われていました。

それではわたしたちの宣教師にとっては長すぎると,妻には分かっていました。妻は促しを感じ,列を離れて別のドアを入りました。そこで妻は,別の職員を見つけました。妻は自分が何者であるかを伝え,宣教師が必要としている内容を説明しました。




職員は妻に,その日病院の別の階で手術をしている外科医と直接話をするよう指示しました。妻は外科医に,宣教師がどのようなことをしているか,そしてもし口蓋裂の手術を受けることができたら,この宣教師にとってどのような祝福となるかを説明しました。

外科医は幾つか質問をしました。その後,こう言ったのです。「2週間後に手術の予定を入れるということでいいですか。」外科医は病院の用紙に必要事項を書き入れました。そこには,この手術は地域社会の利益になる,自分はこの手術に個人的に興味がある,という説明が書かれていました。医師はその用紙を助手に渡し,予定を入れておくよう言いました。

10日後,外科医は宣教師の手術を行いました。ほどなく伝道地に戻ったこの長老はとても元気で,はっきりとした声で話をしました。新たな熱意を胸に,主が自分を導いてくださったことを認めていました。

この宣教師の経験は,御父がわたしたちの祈りに耳を傾け,手を取ってわたしたちを導いてくださるという証です。

神がおられなければ,わたしたちは取るに足りないものである

霊的に言えば,わたしたちは幼い子供のようなものです。天の御父がわたしたちのために用意してくださっている大いなる祝福を,わたしたちは理解していません。肉体的に成長する中で,わたしたちは自分たちの生活に影響を及ぼしている地上のもろもろの法則を徐々に理解していきます。しかしわたしたちは決して地上の知識を,天の御父がわたしたちのために備えておられる大いなる祝福を理解することよりも大切にすべきではありません。

旧約聖書の偉大な預言者モーセは,ある経験を通じて,自分がほんとうに知っていることがどれほどわずかであるかを思い知りました。モーセは,「世界とその果てと,現在いる人の子らと,過去に創造された人の子らのすべてを見……,これらのことに……ひどく驚くとともに,不思議に思〔い〕」ました。それから,神は去って行かれました。モーセは一人残されると,地に倒れました。


「さて,多くの時間が過ぎて,モーセは人としての本来の力を再び取り戻し,独り言を言った。『今これで,わたしは,人は取るに足りないものであることが分かった。このことは,思ってもみないことだった。』」(モーセ1:8-10)

もし主が,わたしたちが主の力を受けて行えることをすべて見せてくださったとしたら,わたしたちは圧倒されてしまうことでしょう。モーセと同じように,神がおられなければ自分は取るに足りないものであることを思い知るでしょう。

一歩ずつ

しかし,主はわたしたちを圧倒するのではなく,一歩一歩導いてくださいます。そのおかげでわたしたちは,自分だけではできないことを成し遂げることができるのです。

「わが思いは,あなたがたの思いとは異なり,わが道は,あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。

天が地よりも高いように,わが道は,あなたがたの道よりも高く,わが思いは,あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:8-9)

主が教義と聖約第78章18節で言っておられるとおり,わたしたちは「今はすべてのことに耐えることはでき」ません。わたしたちはまだ,主が理解しておられることをすべて理解することはできません。では,わたしたちは何をすべきなのでしょうか。主は次のようにこたえておられます。「元気を出しなさい!」

元気を出して聖約の道を歩むということには,幼子のように謙遜であることが含まれます。わたしたちは進んで御父から教えを受け,御父に導いていただかなければなりません(教義と聖約112:10参照)。人生は非常に複雑で,わたしたちには旅のあらゆる細部をコントロールすることはとうていできません。また,自分や自分の大切な人たちがこの地上で経験するすべてのことを理解することもできません。

しかし,主を信頼し,主に手を取って導いていただくとき,わたしたちは主の王国において,自分たちにはとうてい想像が及ばないほどのことを成し遂げることができます。天の御父の子供たちの人生に,さらに祝福をもたらせるようになります。自分たちの人生に現されている救い主の御手に,さらに気づけるようになります。主の無限の憐れみと愛に,さらに感謝の気持ちを感じられるようになります。

祝福は皆さんのものです

最後に,主は次のことを思い起こさせることにより,わたしたちを導いてくださいます。「王国はあなたがたのものであり,その祝福もあなたがたのものであり,また永遠の富もあなたがたのものである。」(教義と聖約78:18)

先ほどの宣教師の話に戻りましょう。彼は助けを求めるよう導かれ,祝福されて手術を受け,今でははっきりと意思の疎通ができるようになりました。そして彼は,バプテスマを含め,福音とその祝福を受ける準備ができている人々へと導かれました。わたしはまた,妻の模範についても考えます。主の導きを受けながら,妻の証は強くなっていきました。そして主は天の窓を開き,祝福を注いでくださいました。

わたしは純粋で力強い信仰に満ちたこの若い宣教師と一緒に働くことができたことを感謝しています。そしてわたしは,主に導いていただくことの模範を示してくれる妻と永遠にともに住めることを感謝しています。

ほんとうに王国と祝福はわたしたちのものです。

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※このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会リアホナ2021年7月号からご紹介しました。

創世記 2:18また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。

伴侶が必要なことの、大切さが分かります。

今日も良い1日をお祈りします。