イエス・キリストの福音をご紹介します。

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ヨハネによる福音書 第1章 1~5節

2021-12-22 05:06:26 | 日記

ヨハネによる福音書
第1章
1 はじめにことばがあった。ことばかみともにあった。ことばかみであった。

1 初めに御子を通して福音が宣べられた。福音は言葉であり,言葉は御子とともにあり,御子は神とともにおられ,御子は神から出ておられた。

2 このことばはじめにかみともにあった。

2 御子は初めに神とともにおられた。

3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。

3 すべてのものは,この御方によって造られた。造られたもののうち,一つとしてこの御方によらないものはなかった。

4 このことばいのちがあった。そしてこのいのちひとひかりであった。

4 この御方の内に福音があった。福音は命であり,この命は人の光であった。


5 ひかりはやみのなかかがやいている。そして、やみはこれにたなかった。

5 光は世の中で輝いている。そして,世はそれに気づかない。

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新約聖書ヨハネ1章1〜5節をご紹介しました。

青字は、聖書のジョセフ・スミス訳です。

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お読みいただいてありがとうございます。

良い一日をお祈りします。

天使の言葉

2021-12-20 04:18:46 | 日記
天使の言葉
ジェフリー・R・ホランド長老
十二使徒定員会
わたしたちの言葉は,行動と同様,信仰,希望,慈愛で満たされるべきです。
預言者ジョセフ・スミスは,言葉の持つ力について,わたしたちの理解を深める次のような教えを残しています。

信仰によって業を行うとき,人は言葉を通して行う。神は『光あれ』と言われた。すると光があった。ヨシュアが言葉を発すると,神が創造された大きな光がとどまった。エリヤが命じると,天は3年半閉ざされ,雨は降らなかった。……これらはすべて信仰によってなされたのである。……まず信仰があり,次に言葉によって業が行われた。そして,〔言葉〕によって,最も力ある業が行われてきた。これからもそうであろう。」”

「上から来る」あらゆる賜たま物ものと同様,言葉は「神聖であり,それについては注意して,御み霊たまの促しによって語るようにしなければならない……。」

言葉の持つこのような力と神聖さをよく理解したうえで,もし警告する必要があるなら,わたしは互いにどのような言葉遣いをすればよいか,また自分自身についてどのように語ればよいかについて警告したいと思います。

聖書外典の中に,この問題の重大さをわたしよりも明確に語っている一節があります。こう記されています。

鞭むちの一打ちは肉体に傷跡を残す。しかし言葉の一打ちは骨を打ち砕く。

この一節の持つ痛々しいイメージを心に描いていたわたしは,ヤコブの手紙の中に「完全な人」となるための方策があることを知ったとき,深く感銘を受けました。


ヤコブはこう語っています。

わたしたちは皆,多くのあやまちを犯すものである。〔しかし〕もし,言葉の上であやまちのない人があれば,そういう人は ,全身をも制御することのできる完全な人である。

さらにヤコブは,制御することを次のようにたとえます。

馬を御するために,その口にくつわをはめるなら,その全身を引きまわすことができる。

また船を見るがよい。船体が非常に大きく,また激しい風に吹きまくられても,ごく小さなかじ一つで,操縦者の思いのままに運転される。……

そして,ヤコブは自分の言いたいことを明らかにします。

舌〔もまた〕小さな器官ではあるが,……〔しかし〕見よ,ごく小さな火でも,非常に大きな森を燃やすではないか。

……舌〔火〕は,わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが,全身を汚し,……自らは地獄の火で焼かれる。

あらゆる種類の獣,鳥,這はうもの,海の生物は,……人類に……制せられてきた。

ところが,舌を制しうる人は,ひとりもいない。それは,制しにくい悪であって,死の毒に満ちている。

わたしたちは,この舌で父なる主をさんびし,また,その同じ舌で,神にかたどって造られた人間をのろっている。

同じ口から,さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は,あるべきでない。

実に率直な言葉です。もちろん,ヤコブはわたしたちの舌がいつも罪深いと言っているわけではありませんし,わたしたちの口にする言葉がすべて「死の毒に満ちている」と言っているわけでもありません。

しかし,ヤコブは確かに,わたしたちが口にする少なくとも幾つかの言葉は,破壊的であり,有毒なことさえあると言っています。

末日聖徒にとっては身も凍るような言葉です。わたしたちは心からの証あかしを述べ,熱烈な祈りをささげ,シオンの賛美歌を歌うその同じ声で,非難し,批判し,卑しめ,辱め,苦痛を与え,いつの間にか自分自身と周囲の人々の霊を破壊することがあるということです。

「同じ口から,さんびとのろいとが出て来る」とヤコブは嘆きました。またこう勧告しています。「わたしの兄弟〔そして姉妹〕たちよ。このような事は,あるべきでない。」

これはわたしたち全員が取り組むべき事柄ではないでしょうか。「完全な」男性あるいは女性になるために,もう少し努力することができる分野ではないでしょうか。

夫の皆さん,皆さんは神がお与えになることのできる最も神聖な賜物を授かっています。

それは,愛と喜びに満ちた夫婦関係を築くために,自らを皆さんにささげている妻であり,神の娘,子供たちの母親です。

交際中に口にした優しい言葉を思い出してください。奥さんの頭に手を置いて,彼女に授けた数々の祝福を思い出してください。あなたと伴はん侶りょが,生まれながらに受け継いでいる神々としての特質に思いをはせてください。

それからしばらくの間,冷たく,辛しん証辣らつな,制し切れなかった言葉を使ったときのことをよく考えてください。

言葉がもたらす害について考えると,救い主がこう言われたのも驚くに当たりません。

口にはいるものは人を汚すことはない。かえって,口から出るものが人を汚すのである。

物理的に妻を殴るなど夢にも思わないような夫でも,思いやりのない不親切な言葉という暴力によって,たとえ彼女の骨を砕くことはなくとも,その心を傷つけることはあるのです。

身体的な虐待は,どこにおいても,どのような理由であっても,末日聖徒イエス・キリスト教会では罪に定められます。それよりもさらに罪深いことがあるとすれば,それはあらゆる形の性的虐待であり,わたしたちはその行為をさらに強く非難します。

わたしは,だれであろうとあらゆる人への言葉による虐待,精神的虐待,特に夫の妻に対する虐待を強く非難します。兄弟の皆さん,このようなことは,あるべきではないのです。

同様の精神で,姉妹たちにも話します。なぜなら言葉による虐待の罪に男女差はないからです。

妻の皆さん,皆さんの口は言葉を制していますか。皆さんの言葉が持つ力は善と悪のどちらですか。

神の摂理により,これほど美しく,清らかであり,霊的で,生まれつき優しくて親切な声が,けたたましく,辛辣で,とげとげしい,また荒々しい声に突然変わることがあるのはなぜでしょうか。

女性の言葉は,これまでに造られたどの短刀よりも鋭利な刃物となることがあります。

また,会話を始めた時点ではだれも想像し得なかったほど遠くまで,愛する人を後ずさりさせることがあります。

姉妹の皆さん,皆さんのすばらしい霊に,うわさ話や陰口,悪意のある言葉を含む,辛辣な,あるいは不快ないかなる言葉も入り込む余地はありません。

わたしたちの家庭やワード,あるいは近所で,「舌は火である。わたしたちの間で燃える,不義の世界である」と言われることがないようにしようではありませんか。

この勧告をさらに拡大して,家族全体に関連づけましょう。

子供に話しかけるときには細心の注意を払わなければなりません。

何を言い,何を言わないか,どのように言うか,いつ言うか,これは子供が自分自身をどうとらえるか,その方向性を決めるうえで実に,実に大切な要素です。またそれは,子供が両親を信じる気持ちと神への信仰をはぐくむうえで,さらに大切な要素となります。

子供たちにはいつも建設的な言葉をかけるようにしてください。冗談交じりであっても,子供に「太っている」や「頭が悪い」「怠け者」「器量が悪い」などと言わないでください。決して悪気がなくても,子供たちはその言葉を記憶し,それを忘れ,赦ゆるすために何年も苦しむかもしれません。

また,うまく褒める自信があっても,子供たちを比べないようにしてください

褒め言葉のつもりで,「スーザンはかわいいし,サンドラは頭がいい」と言ったとしても,スーザンは「自分は頭が良くない」,サンドラは「自分はかわいくない」としか記憶しないでしょう。子供たち一人一人の,そのあるがままを褒めてください。そして,比較し,競い,決して「自分はこれで十分だ」と満足することのない,この文化にこびりつく妄想から解放されるようにしてください。

言うまでもないことですが,ほとんどの場合,否定的な言葉は否定的な考えから生まれます。

その中には自分自身についての否定的な思いも含まれます。わたしたちは自分の欠点を見ます。自分自身について批判的なことを口にするか,少なくとも考えます。やがて,すべての人,すべてのことを批判的に見るようになります。

太陽の輝き,バラの美しさ,希望あるいは幸福の兆しが見えなくなるのです。そしてすぐに,自分も周りの人も,皆が惨めになります。

オーソン・F・ホイットニー長老がかつて言った言葉が好きです。「福音の精神は楽観的です。神に信頼を置き,物事の明るい面に目を向けます。その反対,すなわち悲観的な精神は,人を落ち込ませ,神から引き離します。暗い面に目を向け,つぶやいたり,不平を漏らしたりして,なかなか従順になれないのです。」

わたしたちは,「元気を出しなさい」という救い主の宣言に従うべきです。(実際,この戒めはほかのどの戒めよりも頻繁に破られているように思います。)

語るときには希望で心を満たしてください。自分自身を含め人を励ますように語ってください。ひっきりなしに愚痴をこぼしたり,嘆いたりしないようにしてください。

ある人が次のような言葉を残しています。「文明の黄金時代であっても,こうつぶやく人がいたに違いない。『何だ,見るものすべて黄色じゃないか。』」


ニーファイにとって,縄で縛られ,棒で打たれることは,レーマンとレムエルの不平を絶え間なく聞かされるよりは耐えやすかったかもしれない,と何度も思ったことがあります。ニーファイも少なくとも一度はこう言ったことでしょう。「気を失うまでたたいてください。これ以上不平を聞かずに済むでしょうから。」

そうです,人生には問題がつきものです。確かに,否定的な事柄に直面しなければなりません。しかし,どうぞホランド長老の処世訓を取り入れてください。「不平を言うことほど,人を不幸にするものはない。

パウロは同様のことを率直に,しかし大いに希望を抱きながら語りました。わたしたちすべてに向けた言葉です。

悪い言葉をいっさい,あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば,人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って,聞いている者の益になるようにしなさい。

神の聖霊を悲しませてはいけない。……

すべての無慈悲,憤り,怒り,騒ぎ,そしり……を捨て去りなさい。

互たがいに情なさけ深く,あわれみ深い者となり,神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように,あなたがたも互にゆるし合いなさい。

ニーファイは,深い感動を与える最後の証の中で,「十分に固い決意をもって〔神の〕御子に従」うよう勧め,次のように約束しています。

「……火と聖霊によるバプテスマを受け〔た後に〕,〔あなたがたは〕新しい言葉,すなわち天使の言葉で語れるように〔なる〕。……また,聖霊によらなければ,どうして天使の言葉で語ることができようか。天使は聖霊の力で語る。したがって,天使はキリストの言葉を語る。……」

愛弟子ヨハネが記したように,過去においても現在においてもキリストは確かに恵みとまことに満ち,憐あわれみと慈悲に富んだ「言ことば」であられるのです。

兄弟姉妹の皆さん,救い主にさらに似た者となるというこの永遠の追求を続けるに当たって,現時点では,少なくともこの一つの方法で「完全な男性および女性」となれるように努力しようではありませんか。

言葉で人を傷つけないようにしましょう。もっと前向きな言い方をすれば,新しい言葉,すなわち天使の言葉で語りましょう。

わたしたちの言葉は,行動と同様,今こん日にちの世界にぜひとも必要なクリスチャンの三大原則,すなわち信仰,希望,慈愛で満たされるべきです。御霊の影響の下に語られるそのような言葉により,人は涙をぬぐい,心を癒いやし,生活を向上させ,希望を取り戻し,自信を増し加えることができるのです。

難しくとも取り組みがいのあるこのテーマに関してさえも,わたしの言葉が,皆さんに失望ではなく希望を与えるように,わたしの声を通して,わたしが皆さんを文字どおり心から愛していることを感じ取ってもらえるように祈ります。そして何よりも,天の御父が皆さんを愛しておられ,その独り子も皆さんを愛しておられることを知ってください。御二方が皆さんに語りかけられるとき,――確かに御二方は語りかけられます――それは風の中でも,地震の中でも,火の中でもなく,静かな細い声で,優しく思いやりに満ちた声で語られるのです。 天使の言葉で語られるのです。

わたしたちが皆,次の思いに喜びを見いだすことができますように。すなわち,これらの最も小さい者であるわたしたちの兄弟姉妹,子供たちを教化し,励ます言葉を口にすることは,ほかでもない神に向かって口にしているのです。イエス・キリストの御み名なにより,アーメン。

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このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2007年4月号リアホナから、ご紹介しました。

赤字青字は、追加しています。
段落も、変更しています。

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互たがいに情なさけ深く,あわれみ深い者となり,神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように,あなたがたも互にゆるし合いなさい。

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“And be ye kind one to another, tenderhearted, forgiving one another, even as God for Christ’s sake hath forgiven you.”

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「並要以恩慈相待,存憐憫的心,彼此饒恕,正如神在基督裡饒恕了你們一樣。」

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ヨハネ1章
1 はじめにことばがあった。ことばかみともにあった。ことばかみであった。
1 In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.
※「 ことばかみであった 」とは、今まで、謎の聖句でした。
しかし、赦しと親切な愛に溢れた言葉は、神の愛を感じることができます。
神の愛を言葉を通して、伝えることができます。
語るとき、信仰、希望、愛を語れるように、自分自身を含め、人を励ます言葉を語れるように努力したいと思います。
良い一日をお祈りします。

モンゴルズ・ゴット・タレント!「SION」

2021-12-18 04:36:31 | 日記

モンゴルズ・ゴット・タレント!
ポー・ニエン(フェリーペ)チョウ,ペトラ・チョウ,オドゲレル・オチリヤブ
筆者はアメリカ合衆国ユタ州とモンゴルのウランバートルに住んでいます。
モンゴルでは教会の知名度はそれほど高くありませんが,この合唱団によって大きく変わりました。



写真/オドゲレル・オチリヤブ氏の厚意により掲載、観客の写真はGETTY IMAGESより
昨年の12月に,モンゴルのウランバートル東および西ステークの合唱団が全国ネットで配信されているモンゴルズ・ゴット・タレントというテレビ番組で準決勝まで進みました。

その合唱団はセミナリーとインスティテュートの生徒たちで構成されており,半数が帰還宣教師なのですが,彼らは自分たちの信条や才能をこのような形で分かち合う機会に恵まれるとは夢にも思っていませんでした。

2015年に,地域七十人がモンゴルを訪れ,教会の広報活動に関する訓練を行いました。

モンゴルウランバートル西ステークのオドゲレル・オチリヤブ会長は,どのように広報活動を進めればよいのか分かりませんでした。

そのようなとき,2016年1月に,彼の義理の兄弟から電話があり,「『モンゴルズ・ゴット・タレント』を見ていたんだけど,……君の教会の聖歌隊が出場するべきだという思いを強く感じたんだ」と言われました。

オチリヤブ会長は,聖歌隊の指導者であるウヌルヤルガル・プレブ姉妹とその考えについて話し合いました。

可能性について,彼女も聖歌隊のメンバーも興奮していました。

彼らは,「シオン」(モンゴル語で御霊,信仰,思い,一致という言葉の頭文字を取って「SION」)という名の合唱団として知られるようになりました。
第1次予選
2016年3月に行われた第1次予選では,二つの曲を組み合わせた歌を披露しました。

審査員の一人はこう述べました。

「みんなの顔が輝くのが見えたよ。……君たちの動画をユーチューブに投稿して,世界中の人にこの番組を紹介する必要があるね。」

もう一人の審査員は彼らが優勝賞金の5万ドルを手にしたら,どうするか尋ねました。

彼らが,すべての賞金を孤児院に特別なクリスマスの贈り物として寄付したいと答えると,驚いていました。
第2次予選
「シオン」は400組の参加者のうち,第2次予選に進む200組に選ばれましたが,予選の日は35人のメンバーのうち半数が参加予定であった複合ステークのユース・カンファレンスの日と重なってしまいました。

合唱団は2次予選に参加することを決め,バスを手配して予選で歌った後に,8時間かけてユースカンファレンスに向かいました。

「シオン」は,200組の中から準決勝に進む32組に選ばれました。

合唱団は『モンゴルズ・ゴット・タレント』に関連するソーシャルメディアで注目されるようになりました。
準決勝
彼らは準決勝の舞台に向けて,6月から9月まで練習を重ねました。

準決勝の当日,彼らは摂氏マイナス34度の気温の中,朝4時に起きました。

合唱団のメンバーであるノムウンゲレル・エンクツブシン姉妹はこう述べています。

「わたしたちのグループのかなりの人が風邪を引きました。でもみんなで彼らのために祈ると,次第に良くなりました。」

番組を見た人々が,モンゴルの各地からメールで投票しました。

シジル・プレブドルジュ兄弟は次のように述べています。「このテレビ番組のおかげで,多くの人々が教会に対してとても好意的に感じてくれるようになりました。」
祝福
合唱団のメンバー自身も祝福を受けました。

オドゲレル・トゥムルスク兄弟は述べています。

「わたしたちはこの1年間,仕事や生活におけるほかの予定を管理しながら,自分たちの熱意と時間をささげてきました。大変なこともありましたが,多くの祝福を受けました。時間の管理をして,主にささげる時間を作ることを学びました。」

信仰が強まっただけでなく,合唱団のメンバーたちは自信を得て,新たな友情を築き,一致の精神を学びました。

「合唱団として歌うことによって,お互いに赦し合い,支え合うことを学びました。そしてより一致することができました」とガンバータル・ウルジドゥーレン兄弟は述べています。

ビルグーンザヤ・ツンガラクトゥール姉妹は「自分自身を疑ったり,何かが自分にはできないと決して思うべきではない」ということを学びました。
バヤルツォグト・ラグバヤブ兄弟は,「この合唱団で歌うことによって家族にも祝福がもたらされましたし,自分がしばらく前から求めていた答えを受ける助けにもなりました。指導者が解決法を示してくれて,……わたしたちの指導者が神から召されているという証が強まりました」と述べています。

オノン・ダラクウ姉妹は次のように説明しています。「わたしが『モンゴルズ・ゴット・タレント』に参加したときに,お互いに励まし合って,助け合うことが成功の鍵だということを学びました。」

ダラクウ姉妹は参加者をまとめる割り当てを受けていたので,この経験を通してリーダーシップのスキルが強化されたのです。

彼女はこう述べています。

「わたしたちは主が導いて,影響を与えてくださっているのを感じました。わたしたちの多くが,体調を崩したり,忙しかったり,疲れていたり,圧倒されたりしていました。それでも,みんなで一緒に祈ったときに,堪え忍ぶために必要な力や望みを見いだすことができました。」

得票数が足りず,決勝に進むことはできませんでしたが,彼らの演奏はモンゴル全土に教会を知らしめる特別な機会となったのです。

オチリヤブ会長はこう述べています。

「わたしたちは神権指導者からの割り当てに従い,主が道を備えてくださいました。……今,ウランバートル中で,モルモンの合唱団が『モンゴルズ・ゴット・タレント』に出場したことが話題になっています。

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このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2017年12月号リアホナから、ご紹介しました。

モンゴル語は、分かりませんが
下記のURLで、ご覧いただけると思います。間違っていたら、ごめんなさい。🙇
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今日もお読みいただいて、ありがとうございます。

良い一日をお祈りします。

ジョセフィン・スキーリー

2021-12-17 04:46:07 | 日記
信仰の肖像
ジョセフィン・スキーリー
アメリカ合衆国,ペンシルベニア州

2016年にペンシルベニア州フィラデルフィア神殿が奉献されたことにより,ジョセフィンは毎週参入できるようになりました。神殿で,人生の困難に取り組むための強さと癒しを得ています。
写真撮影,レスリー・ニルソン


わたしは生まれながらに苦労を負っていました。母はリベリアからの移民で,わたしたちは貧乏でした。わたしは子供のころ,母が信頼できそうだと思った人たちに預けられましたが,その人たちに虐待を受けました。このために,とてもつらい人生になりました。

責任を負う年齢になる前に試練が始まると,救い主との関係は格段に深いものになり得るように思います。救い主との関係こそがわたしにとって最もすばらしい祝福であり,その事実を無視することはできません。

福音に従って生きる決意を固く持ち続けてこられたのは,試練があったおかげです。

アフリカの文化は,主への愛を幼いころから育みます。4歳のころに祖母が「主の祈り」を教えてくれたことを,今でも覚えています。祖母は,救い主と個人的な関係を築くことがいかに大切であるかを教えてくれました。救い主とのきずなは,わたしにとってとても確かなことでした。

福音はこれ以上ないタイミングで人生に訪れました。14歳のときです。シニア夫婦宣教師,グレン・ホーズ長老とジョアン姉妹が福音を伝えてくれました。二人は,わたしに教えたとおりに生きてきた人たちでした。彼らはわたしを守ってくれました。

母は1995年に会員になっていました。リベリアで内戦があったころです。母は,戦闘できょうだいを何人か失いました。そして,わたしの弟の父親であり,母が当時一緒に住んでいた男性が,ここアメリカで殺されました。母にとって非常につらい時期で,母は教会に行かなくなりました。

自分が教会員であることを,わたしたちに教えてもくれませんでした。ランプのついた小さな机に聖書以外にも聖典が置いてあるのを見た覚えがあるぐらいです。ホーズ長老と姉妹は,母に友情の手を差し伸べるため,また福音を教えるために訪れたとき,「あなたが知っていることを娘さんにも知ってほしくないですか」と母に聞いてくれました。わたしは2000年5月21日にバプテスマを受けました。

末日聖徒であってもそうでなくても,人生は楽ではありません。わたしの強さは救い主とのきずなと,息子エノクとのきずなから来ています。神殿で交わした聖約を守ることも,強さを与えてくれます。

フィラデルフィアにある神殿は,この町の様子を変えました。オープンハウスの期間中,わたしは毎日と言えるほど神殿にいました。人々は足を止めて目を見張り,ぽかんと神殿を見詰めました。保安係として働いていたある夜,ある女性が立ち止まって「この建物は何ですか」と聞いてきました。

「ここは末日聖徒の忠実な教会員がやって来て,主と聖約を交わすことができる建物ですよ」と答えました。

彼女は視線を落とすと,「鳥肌が立ったわ」と言いました。

そのとき,わたしは強い感銘を受けました。この女性はフィラデルフィアの一般的な市民です。何が起きているのか分からないながらも,同じように御霊を強く感じたのです。それは,福音が真実だからです。

何しろ真実は真実なのです。言い争う必要も,証明する必要もありません。ただ,そうなのです。ほんとうであり,だれにとってもほんとうなのです。ユタ州ソルトレーク・シティーに住む人々にとっても,フィラデルフィアのスラム街に住む人々にとってもほんとうなのです。わたしたちを駆り立てるのはその福音であるべきだと思います。


末日聖徒であってもそうでなくても,人生は楽ではありません」とジョセフィンは語ります。でも,試練そのものが福音に従って生きる決意を保つ力となっていると言います。


スキーリー家の夕方の日課に宿題があります。


ジョセフィンにとって救い主とのきずなと,息子エノクとのきずなは人生で最も重要です。


お互いに対する義務と責任があります」とジョセフィンは言います。

「主がわたしたちを御覧になるのと同じ見方で,お互いのことを見るべきです。」


エノクは母親と毎日二人きりで過ごすのを心待ちにしています。


宿題の合間には,フィラデルフィアにある家の外で一緒にバスケットボールをします。


ジョセフィンは救い主とのきずなと息子とのきずなから強さを得ています。「神殿で交わした聖約を守ることも,わたしに強さを与えてくれていることを知っています」と彼女は言います。
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このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2017年12月号リアホナからご紹介しています。
青字赤字は追加しています。
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東京神殿
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福岡神殿



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札幌神殿


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お近くの神殿へ是非お越しください。
神殿推薦状が無くても、ロビーまでは、入ることができます。
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本日もお読みいただいてありがとうございます。
良い一日をお祈りします。

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救い主にささげる家族の贈り物

2021-12-16 04:37:28 | 日記
12月が近づくにつれて,わたしは慌ただしいクリスマスシーズンの準備に追われました。

ここ4年間,クリスマスのお祝い事を自宅で開催していましたが,今年はいっぱいいっぱいでした。

プレゼントの購入,食事の用意など,やらねばならないもろもろのことについて夫に相談すると,今年のクリスマスはパーティーをやめて何かほかのことをしよう,という話になりました。

救い主への贈り物となるようなことをしたいとわたしたちは考えました。

12月の間ずっと,家庭の夕べでイエス・キリストの生涯について採り上げ,神殿に行き,家族で奉仕するプロジェクトを計画しました。

夫は当時ビショップであったため,クリスマスの日には,夫を亡くしたワードの姉妹たち皆のために歌を歌うことに決めました。

歌う賛美歌を何曲か,家族で練習し始めました。子供たちは「天を降りし神の御子」(『賛美歌』120番)を歌うことが大好きでした。

クリスマスイブには,特別なクリスマスのメッセージを添えたカードを作り,訪問先に持っていくお菓子を用意しました。

家族がこんなに一つとなって,愛をもって喜んで奉仕する様子を見るのは,とてもうれしいことでした。クリスマスの精神を感じました。

クリスマスの日になると,子供たちは姉妹たちを訪ねたくてたまらない様子でした。

1軒ずつ訪問するごとにわたしたちは幸福になり,歌うごとに賛美歌がうまくなっていくような気がしました。

最後の家に着くと,留守のようでした。

数分待っていると,子供たちがそわそわし始めました。

しばらくして,高齢の女性が出迎えてくれました。

髪をきっちりとかし,よそ行きの服を着ています。

わたしたちを見ると,目に涙があふれました。

わたしも感極まって,歌うどころではありませんでした。

家に帰る道すがら,5歳の娘は,まだ帰りたくない,歌っていたいと言い出しました。

わたしが答える前に,9歳の息子が「来年もやればいいじゃないか」と答えました。

わたしたち家族にとって,忘れ難いクリスマスとなりました。

人を元気にし,イエス・キリストへの愛を示したのですから。

その日起こったことを思い返すと,主の愛を感じるとともに,主の言葉を思い出しました。

「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは,すなわち,わたしにしたのである。」(マタイ25:40)

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このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2017年12月号リアホナから、ご紹介しました。
赤字は追加しています。

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「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは,すなわち,わたしにしたのである。」(マタイ25:40)
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“Inasmuch as ye have done it unto one of the least of these my brethren, ye have done it unto me” (Matthew 25:40).


inasmuch (not comparable)

(obsolete) In like degree; in like manner; to the same or similar degree; likewise. [14th c.] ▼ show
This text is extracted from the Wiktionary and it is available under the CC BY-SA 3.0 license

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「這些事你們既做在我這弟兄中一個最小的身上,就是做在我身上了」(馬太福音25:40)。

用例 (白水社 中国語辞典から)
  • 这些人都是刚入学的学生,他们是多么可爱。=これら(の人)は入学たばかり生徒で,彼らはなんとかわいいことか.
  • 我不要这些,我要那些。=私はこれら(の物)は要らない,あれらが欲しい.
  • 这些是什么?=これら(の物)は何か?

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日本語訳も、分かりやすいですが、

英語訳では、更に
「あなたが行った程度に」
のニュアンスがあります。

主に行うのと同じだから、奉仕も心を込めて行うことが大切と理解できます。

良い1日をお祈りします。