今年の夏は辛い。。。
年明けには元気だった母が7月終わりに逝ってしまった。
4月から何度か伊勢に向かう電車の中で、今日の母の様子はどんなのだろうかと。
伊勢の駅まで妹が迎えに来てくれ病院に向かい、初めの頃はいつもと変わらぬ冗談をいう母の姿が見れたが、
寝ていて起きない母の姿もあった。
5月7日・・・一時退院できると聞き、5日から実家に行き妹、姪たちと離れの母の部屋を掃除して母を迎えた。
退院してきて綺麗になっている自分の部屋をみて綺麗好きな母は喜んでくれた。
弟が庭先の母が手掛けている畑にトマト、ナス、キュウリなどを植えたのを見て喜んだ母・・・。
26歳のなっちゃんが「野菜つくり初体験・・」と母の指導の元にトマトの芽を摘むのをみて皆で笑った。
5月9日・・・一時退院も終わり再び病院へ。
帰る間際に母を見ていると胸が痛くなる私を見て「あんたの気持ちはわかっているから」と。
5月24日・・・急きょ29日まで一時退院するからと妹から連絡を受け実家に行く。
昼間は伊勢志摩サミットのテレビを観て、オバマさんが広島に着いたか心配して・・
新聞は先ず第一面のトップ記事を見てから三面記事、暮らしの作文や発言欄をみるのだけど、なぜだか読んでいても
頭に入ってこないと。
もしかして頭にもウィルスが転移しているかも知れないと思ったけど、「認知症になるといけないから頑張って読んで」
と答えるのが精いっぱいだった。
夜も何度か心配で起きては寝返りしている母を見て安心し・・・トイレに連れて行き介護は本当に大変だと思った。
5月29日・・・帰りの電車の中で涙を我慢するのが辛かった。
6月17日・・・母の希望で退院して、母が手掛けて楽しんでいた庭先の畑をみたり、新聞を読んだり、テレビを観たりの生活ができた。
やっぱり病院のご飯より家で食べると美味しいわと喜んで食べる姿が見れて自宅に連れて帰って良かったと思った。
いつも庭の草をひいたり、花を植えたりしていた母の代わりにバタバタしていたら、
「まるで掃除婦やぁ~」と言われてしまった。
6月21日・・・娘がyuiちゃんを連れて日進から、息子夫婦はleoくん、kioくん,rinoちゃんを連れて東京から母に会いに来てくれた。
母は娘にyuiちゃんの顔を見るのに11年待ったよと。本当に待ちわびていたから、母が生きている間に会えて良かった。
海外に行ってしまうからと双子のひ孫にも会えてよかった。
6月22日・・・一泊した翌朝、10時半に息子たちは東京に帰り、午後3時くらいに娘とyuiちゃんと私は一緒に自宅に帰った。
7月4日・・・「母にまた来たよ」と声をかけ、顔を見ると6月に半ばに退院したころと変わらぬ母の笑顔があった。
今回は、実家のお嫁さんが胆石の手術の為、入院したので家事と母の介護で忙しかった。
母の部屋には手すりを置いてもらってあったので、トイレに連れて行くにも楽になった。
7月10日・・・1週間いる間に食欲も落ちてしまい段々と耳も聞こえなくなってきた母に、
「今度は7月の終わりに来るよ。8月は孫たちを預からなければいけないから来れないかも。
孫たちがシンガポールに行ったらまた来るね・・・・・」と手紙を渡したら
「ラブレターみたいやなぁ~」と、この会話が母と交わした最後の普通の会話になるとは思ってもいなかった。
7月16日・・・姪のなっちゃんから泣きながら夜に電話があり、「おばちゃんもう一度来てくれる。お婆ちゃんが元気がないの」と。
7月17日・・・お昼ころに着くと1週間前と違い弱ってしまった母の姿が・・・。
7月18日・・・妹、弟と相談し祝日だけど、入院させてくれたら再度入院させようと病院に連れていった。
入院すると再度治療が始まるのを見ると辛い。でもこのままでは衰弱してしまう。
病院に着くと直ぐに点滴をしてもらい、お昼過ぎには少し会話もできるようになり、プリンを食べさせてあげると「あ~美味しい」と一言。
7月19日・・・聞こえているか分からない母に今月の終わりに来るねと言い自宅に帰る。
7月27日・・・伊勢市駅まで妹に迎えに来てもらい、今回は伊勢日赤の近くに住んでいる叔母の家に泊めてもらい、
朝から夕方まで妹と一緒に母の側にいることができた。
7月29日・・・治療は緩和治療になるけど、緩和ケアが空いたので移りますかと先生から話があり即お願いして移る。
部屋は付き添いが泊まれるようになっていて母と一緒の部屋で過ごせた。
一晩中看護師さんが寝ている母の向きを変えたり、点滴の様子、酸素マスクの確認に来てくれ殆ど一睡もできなかったけど、
看護師さんの母にかけてくれる優しい言葉に救われた。
7月30日・・・朝10時。近くに住む叔母が来て、「お義姉ちゃんきたよ」と声をかけると
暫くして母が目を開け何か言いたそうに口を動かしていたけど聞き取れなかった。
看護師さんが着替えをさせますので・・というので廊下で待っていたが時間がかかりすぎるので確認しに行ったら
呼べる人を呼んでくださいと。
妹、弟に電話をし、妹が着くのを待っていたかの様に逝ってしまった。
自宅にいるころから通院するたびに付き添ってくれた妹。。。
4月に入院してから殆ど毎日のように病院に通ってくれた妹。。。
退院すると昼間は母の介護に来てくれた妹。。。
母はどんなに心強かったことかと思うと妹には感謝の気持ちでいっぱいだ。
そして姪のなっちゃん、私が自宅に帰ってくるとなっちゃんが夜は母に付き添って世話してくれた。
病院の近くに住む父の妹の二人は代わる代わる見舞いに来てくれ、母が退院してからも通院があると車椅子を用意して待っていてくれた。
退院中、週一の通院には、弟も仕事から抜け出し母を病院に連れて行ってくれ、弟のお嫁さんもお昼休みには病院に顔を出してくれ、
本当にみんなで母の介護ができて良かった。
病院の先生からは「上野さんは優等生だね」
看護師さんからも「可愛いお婆ちゃんだわ」と褒めてもらい
「こんなに皆によくしてもらう人はおらんなぁ」と言っていた母。
「私たちにしてくれた恩返しだよ」と母と交わした言葉が思い出される。
17年前に先に天国に旅立った父に再会できるのはいつかな?
お互いに年取ったなぁと会話する日も近いだろうね。
この夏は母を見送り、息子夫婦が子供たちが成人するまで海外で勤務をしたいとシンガポールに24日には旅立つ。
8月は息子たちがシンガポールに住居の手続きに行き、最後の仕事の引継ぎや家の手続きに東京に帰り、その間は孫たちを預かり毎日が忙しかった。
19日から今日の夕方まで息子のお嫁さんの実家に行っている間にやっと母の記録を書くことができた。
8月3日から姪のみーちゃんがアメリカに、6日から甥夫婦がスイスに旅行の出かける予定があり、
息子夫婦は7日からシンガポールに住まいの用意に出かけることが決まっていた。
自分勝手な思いかもしれないけど、
母が逝ってしまった寂しさも孫に癒され 母は最期まで幕を下ろす時期を考えてくれたのだと改めて感謝!!
母が亡くなってから3週間・・・
まだまだ母のことを書くのは辛いけど 忘れないうちに母と過ごした3か月間を記録しておきたかった。
何度も何度も母の顔と声が思い出されて書きながら涙が出た。
世話をするたびに“ありがとう”“ごめんな”と言っていた母。
お母さん私たちこそありがとう。
年明けには元気だった母が7月終わりに逝ってしまった。
4月から何度か伊勢に向かう電車の中で、今日の母の様子はどんなのだろうかと。
伊勢の駅まで妹が迎えに来てくれ病院に向かい、初めの頃はいつもと変わらぬ冗談をいう母の姿が見れたが、
寝ていて起きない母の姿もあった。
5月7日・・・一時退院できると聞き、5日から実家に行き妹、姪たちと離れの母の部屋を掃除して母を迎えた。
退院してきて綺麗になっている自分の部屋をみて綺麗好きな母は喜んでくれた。
弟が庭先の母が手掛けている畑にトマト、ナス、キュウリなどを植えたのを見て喜んだ母・・・。
26歳のなっちゃんが「野菜つくり初体験・・」と母の指導の元にトマトの芽を摘むのをみて皆で笑った。
5月9日・・・一時退院も終わり再び病院へ。
帰る間際に母を見ていると胸が痛くなる私を見て「あんたの気持ちはわかっているから」と。
5月24日・・・急きょ29日まで一時退院するからと妹から連絡を受け実家に行く。
昼間は伊勢志摩サミットのテレビを観て、オバマさんが広島に着いたか心配して・・
新聞は先ず第一面のトップ記事を見てから三面記事、暮らしの作文や発言欄をみるのだけど、なぜだか読んでいても
頭に入ってこないと。
もしかして頭にもウィルスが転移しているかも知れないと思ったけど、「認知症になるといけないから頑張って読んで」
と答えるのが精いっぱいだった。
夜も何度か心配で起きては寝返りしている母を見て安心し・・・トイレに連れて行き介護は本当に大変だと思った。
5月29日・・・帰りの電車の中で涙を我慢するのが辛かった。
6月17日・・・母の希望で退院して、母が手掛けて楽しんでいた庭先の畑をみたり、新聞を読んだり、テレビを観たりの生活ができた。
やっぱり病院のご飯より家で食べると美味しいわと喜んで食べる姿が見れて自宅に連れて帰って良かったと思った。
いつも庭の草をひいたり、花を植えたりしていた母の代わりにバタバタしていたら、
「まるで掃除婦やぁ~」と言われてしまった。
6月21日・・・娘がyuiちゃんを連れて日進から、息子夫婦はleoくん、kioくん,rinoちゃんを連れて東京から母に会いに来てくれた。
母は娘にyuiちゃんの顔を見るのに11年待ったよと。本当に待ちわびていたから、母が生きている間に会えて良かった。
海外に行ってしまうからと双子のひ孫にも会えてよかった。
6月22日・・・一泊した翌朝、10時半に息子たちは東京に帰り、午後3時くらいに娘とyuiちゃんと私は一緒に自宅に帰った。
7月4日・・・「母にまた来たよ」と声をかけ、顔を見ると6月に半ばに退院したころと変わらぬ母の笑顔があった。
今回は、実家のお嫁さんが胆石の手術の為、入院したので家事と母の介護で忙しかった。
母の部屋には手すりを置いてもらってあったので、トイレに連れて行くにも楽になった。
7月10日・・・1週間いる間に食欲も落ちてしまい段々と耳も聞こえなくなってきた母に、
「今度は7月の終わりに来るよ。8月は孫たちを預からなければいけないから来れないかも。
孫たちがシンガポールに行ったらまた来るね・・・・・」と手紙を渡したら
「ラブレターみたいやなぁ~」と、この会話が母と交わした最後の普通の会話になるとは思ってもいなかった。
7月16日・・・姪のなっちゃんから泣きながら夜に電話があり、「おばちゃんもう一度来てくれる。お婆ちゃんが元気がないの」と。
7月17日・・・お昼ころに着くと1週間前と違い弱ってしまった母の姿が・・・。
7月18日・・・妹、弟と相談し祝日だけど、入院させてくれたら再度入院させようと病院に連れていった。
入院すると再度治療が始まるのを見ると辛い。でもこのままでは衰弱してしまう。
病院に着くと直ぐに点滴をしてもらい、お昼過ぎには少し会話もできるようになり、プリンを食べさせてあげると「あ~美味しい」と一言。
7月19日・・・聞こえているか分からない母に今月の終わりに来るねと言い自宅に帰る。
7月27日・・・伊勢市駅まで妹に迎えに来てもらい、今回は伊勢日赤の近くに住んでいる叔母の家に泊めてもらい、
朝から夕方まで妹と一緒に母の側にいることができた。
7月29日・・・治療は緩和治療になるけど、緩和ケアが空いたので移りますかと先生から話があり即お願いして移る。
部屋は付き添いが泊まれるようになっていて母と一緒の部屋で過ごせた。
一晩中看護師さんが寝ている母の向きを変えたり、点滴の様子、酸素マスクの確認に来てくれ殆ど一睡もできなかったけど、
看護師さんの母にかけてくれる優しい言葉に救われた。
7月30日・・・朝10時。近くに住む叔母が来て、「お義姉ちゃんきたよ」と声をかけると
暫くして母が目を開け何か言いたそうに口を動かしていたけど聞き取れなかった。
看護師さんが着替えをさせますので・・というので廊下で待っていたが時間がかかりすぎるので確認しに行ったら
呼べる人を呼んでくださいと。
妹、弟に電話をし、妹が着くのを待っていたかの様に逝ってしまった。
自宅にいるころから通院するたびに付き添ってくれた妹。。。
4月に入院してから殆ど毎日のように病院に通ってくれた妹。。。
退院すると昼間は母の介護に来てくれた妹。。。
母はどんなに心強かったことかと思うと妹には感謝の気持ちでいっぱいだ。
そして姪のなっちゃん、私が自宅に帰ってくるとなっちゃんが夜は母に付き添って世話してくれた。
病院の近くに住む父の妹の二人は代わる代わる見舞いに来てくれ、母が退院してからも通院があると車椅子を用意して待っていてくれた。
退院中、週一の通院には、弟も仕事から抜け出し母を病院に連れて行ってくれ、弟のお嫁さんもお昼休みには病院に顔を出してくれ、
本当にみんなで母の介護ができて良かった。
病院の先生からは「上野さんは優等生だね」
看護師さんからも「可愛いお婆ちゃんだわ」と褒めてもらい
「こんなに皆によくしてもらう人はおらんなぁ」と言っていた母。
「私たちにしてくれた恩返しだよ」と母と交わした言葉が思い出される。
17年前に先に天国に旅立った父に再会できるのはいつかな?
お互いに年取ったなぁと会話する日も近いだろうね。
この夏は母を見送り、息子夫婦が子供たちが成人するまで海外で勤務をしたいとシンガポールに24日には旅立つ。
8月は息子たちがシンガポールに住居の手続きに行き、最後の仕事の引継ぎや家の手続きに東京に帰り、その間は孫たちを預かり毎日が忙しかった。
19日から今日の夕方まで息子のお嫁さんの実家に行っている間にやっと母の記録を書くことができた。
8月3日から姪のみーちゃんがアメリカに、6日から甥夫婦がスイスに旅行の出かける予定があり、
息子夫婦は7日からシンガポールに住まいの用意に出かけることが決まっていた。
自分勝手な思いかもしれないけど、
母が逝ってしまった寂しさも孫に癒され 母は最期まで幕を下ろす時期を考えてくれたのだと改めて感謝!!
母が亡くなってから3週間・・・
まだまだ母のことを書くのは辛いけど 忘れないうちに母と過ごした3か月間を記録しておきたかった。
何度も何度も母の顔と声が思い出されて書きながら涙が出た。
世話をするたびに“ありがとう”“ごめんな”と言っていた母。
お母さん私たちこそありがとう。