SERGIO BRUNI -- FUNICULI', FUNICULA'
これが世界最古のCMソング。
「フニクリ・フニクラ」は19世紀末の時点では活火山で営業していた世界唯一のケーブルカーだった、イタリア・カンパニア州に存在したケーブルカーヴェズヴィアナ鋼索線(Funicolare Vesuviana)を宣伝するために作られた。
写真:Wikipedia
数週間前の日曜日の午後NHK FM✕(かける)クラシックを聞き流していたら面白い話が聞こえて来た。
この「フニクリ・フニクラ」がナポリ民謡だと思いこんでいたリヒャルト・ゲオルク・シュトラウス(Richard Georg Strauss)は、1886年イタリア旅行後に作曲した交響的幻想曲『イタリアから』(Aus Italien) に「フニクリ・フニクラ」のメロディーを取り込み裁判沙汰になった、と。
調べてみたら、完全敗訴したR・シュトラウスはこの曲が演奏されるごとに作曲家に著作権料を支払うことになったとか。
Richard Strauss - Aus Italien Op. 16 - IV. Neapolitanisches Volksleben
これじゃあ仕方がないね。
まぁ、この歌が出来てたった5,6年で民謡と思われるほど浸透していたのだからCMソングとしては大成功!!R・シュトラウスにはお気の毒だけど。
1879年、ヴェスヴィオ山の山頂までFunicolare(伊:フニコラーレ。ケーブルカー)敷設された。
ヴェスヴィオ山は活火山なのに、大丈夫か?と思ったら、案の定1944年に起きた噴火により破壊され、運行を終了した。
「フニクリ・フニクラ」とは、フニコラーレの愛称である。
当初は利用者が少なかったため、運営会社は宣伝曲を作ることを考えた。
依頼を受けた作曲家ルイージ・デンツァ ( Luigi Denza)とジャーナリストのジュゼッペ・トゥルコ(Giuseppe Turco)の詞で1880年に発表されたのがこの曲。
初めてこの歌が歌われたのはCastellammare di StabiaのReggia di Quisisana(クイジザーナ王宮)。
その後9月8日のFesta di Piedigrottaでこの歌が爆発的な人気になり、瞬く間にイタリア中だけではなく、全世界へと広まったという。
このFesta di Piedigrottaピエディグロッタ祭は元はナポリの伝統的な宗教的な祭りだった。
豊穣と生殖の神様、プリアポ(プリアープス)に捧げるバッカス祭から由来していて、このバッカス祭は、メルジェッリーナのクリプタ・ネアポリタナというトンネルで行なわれていたそうだ。
3世紀カンパーニャ地方にマリア崇敬が広まり、8世紀にはMaria Oditrigiaがコスタンティノープルからやって来る。こうしてculto dell'Itria(イトリア崇拝)も起こる。(違いがいまいちよく分からんが)
この信仰は宗教儀式を地下道で行っていたが、1207年には小さな礼拝堂が建てられた。
伝説によると、聖母が3つの宗教に現れ、その場所からイコンも発見されたとか。
実際には記録によるとロンゴバルド人によって破壊された聖人Giuliana(ジュリアーナ) とMassimo da Cuma(クマのマッシモ)の聖遺物の遷移された場所で、そこも1343年の津波で破壊され移動された。
このような事情で1353年ピエディグロッタ至聖所(santuario de pedi grotta)が建てられ、ここが海の街の信仰の中心地となり聖母の誕生日、9月8日の祭りが行われるようになった。
祭には市民だけでなく、王族なども参加した。
1744年CarloIII(ナポリ王カルロス3世)は、ドイツ軍とのVelletri(ヴェッレトリ)の戦いでの勝利を祝い、軍事パレードを行った。
特に面白いのがこのカルロス3世、本来2月16日にCarmine (p.zza Mercato)で行われていたカーニバルをこのピエディグロッタのお祭りに移した。その方が安全で場所も広いからという理由らしいのだが…
祭の始まる頃には住民がバルコニーに公然とイルミネーションをともしたり、山車が出たりと大掛かりなお祭りとなった。
先日”ドーナツ”の記事にも書いたが、カーニバルは“abbuffata(大食い)”のイベントで、伝統的な料理のparmigiana di melanzane(なすのパルミジャーナ)、“ruoti di petticciulli” al forno, “ruoti di capezzelle”(ナポリの伝統料理らしく、正体不明), polli arrostiti (鶏のロースト)などのカロリー爆弾の料理から少々控え目な “l'appesa” di frutta con uva, mele cotogne(マルメロ), granate(ザクロ)、 fichi d'India(サボテンの実)などのフルーツも祭で饗されるようになった。
こんなお祭りがイタリア有数の音楽祭となったのは1839年。
これはネロ皇帝などローマ皇帝たちがピエディグロッタに滞在した際、市民の前で歌を披露したことに由来している。
音楽祭ではナポリ方言で書かれた自作の歌が審査され、それを聞くだけではなくtarantelle(タランテッラ)が躍られ、 putipù(プティプ。太鼓に似たナポリの民俗楽器)、 triccheballacche(小づちのような楽器)nacchere(カスタネット)などの 伝統的な楽器を持ったmacchiette(皮肉やふざけた歌に特化した歌い手)などにもスペースが与えられていた。
初年に優勝したのは”Te voglio bene assaje”
Sergio Bruni "Te voglio bene assaje"
この曲は1800年代既に主婦たちの間で歌われていた歌がベースとなっている。
そんなだから色々なバージョンがあるのだが、中でも本業は眼鏡屋だがナポリのサロンに出入りしていた詩人Raffaele Sacco(ラファエレ・サッコ)が関係があったのではと思われる魅惑的な女性のことを思って作詞されたようだ。(フランスで歌われていたものをナポリ方言に書き直したという説もある)
曲の方はGaetano Donizetti(ガエターノ・ドニゼッティ)が関与していると言われている。(確かにドニゼッティは1838年ナポリにいた。39年はパリ)
最盛期には日本からもこのフェスティバルに参加した人がいたようだが、ここから偉大な歌手が多数輩出され、今でも歌い継がれているTorna a Surriento (帰れソレントへ)やO sole mio(オー・ソーレ・ミオ)などナポリ”民謡”が多数誕生した。
「オ・ソレ・ミオ」は1898年にナポリが生んだオペラ史上最も有名なテノール歌手の一人エンリコ・カルーソ(Enrico Caruso)が歌い、音楽祭で第2位になった。
Enrico Caruso - O Sole Mio
閑話休題
完璧なナポリ方言で歌われたこの歌の内容は、登山鉄道とヴェスヴィオを題材としつつ男性が意中の女性への熱い愛と結婚への思いを歌い上げているのだが、ナポリ以外の人には難解なのだ。(意味は分からずとも歌は流行るから面白い)
ということで、1900年代初頭、ダンツァは”標準イタリア語”で歌詞を書き直している。
こちらがイタリア語バージョン。
Funiculì, Funiculà Italia Cantamondo Rizzoli
R・シュトラウスは可哀想だったが、他にもたニコライ・リムスキー=コルサコフも「ナポリの歌」という曲名で管弦楽曲に編曲しているし、アルフレード・カゼッラが「イタリア」作品11(1909年)で原曲の和声も改変し、編曲した箇所があるし、アルノルト・シェーンベルクは1921年に室内楽用に編曲したりしている。(クラリネット、ギター、マンドリン、弦楽三重奏)。
日本でも「鬼のパンツ」を筆頭に様々な替え歌として歌われ続けている。
最近ではここにも。
伊藤ハム ポークビッツでみな笑顔篇 ①
いやはや、140年前のCMソングが今でも歌い継がれているとは恐れいりました。
参考:https://it.wikipedia.org/
https://ja.wikipedia.org/
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