イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

小原古邨ー太田記念美術館

2019年02月17日 15時55分47秒 | 展覧会 日本

せっかく展覧会初日に行ったのに、もう2週間が過ぎてしまいました。

現在太田記念美術館で開催中の「小原古邨」展です。
私が初めて古邨の名前を知ったのは昨年茅ヶ崎で開催されていた「原安三郎コレクション 小原古邨展」だったのですが、結局その展覧会には行けず仕舞い。
その展覧会ですが、「日本では無名な画家」で、開催も都内ではなく「茅ヶ崎」という場所だったにもかかわらず、NHK日曜美術館で特集されてしまったもので、入場制限が出るほどの混雑だったとか。
これを聞いたら「行かなくて良かった」と思う反面「行けば良かった」となんともあまのじゃくな気持ちがふつふつと沸いてきました。まぁ何を言っても後悔先に立たずです。
ということで今回は絶対見逃すか!と気合たっぷり。更に前後期で総入れ替えということで、両方見に行こうと思っての初日来館でした。

小原古邨(1877~1945)は、既に浮世絵が下火になり、衰退の一途をたどっていた明治時代に、その技法を継承しつつ、水彩画のような色鮮やかな柔和な色合いを用いた木版画を多く残しています。
日本人の私たちにとって「無名」なのは、その多くの作品が海外に流出してしまっているから。
「グランドツアー」でヨーロッパ大陸を訪れた英国人によって、イタリアやフランスの作品がイギリスに渡ったように、開国後日本を訪れた欧米人は日本美術をお土産に本国へ持って帰り、多くの日本美術が海外に流出しました。
ただ、以前も言いましたが、そのことを日本人として憂う反面、外国に流出していなかったら、現在私たちは浮世絵などの美術品をこれほど多く目にすることはできなかったのも確かです。
例え国内で作品を見ることが出来なくても、外国人が評価してくれ、大切に保存してくれたからこそ、日本美術はこうして祖国を離れて生き残ることが出来たのです。

古邨の場合。
古邨の腕が海外でも通用することをいち早く見抜いたのは、フェノロサでした。
アーネスト・フェノロサはお雇い外国人として明治時代に来日。
この人がいなければ、日本美術はどうなっていたことでしょう?
東京美術学校、現在の東京芸術大学の設立に尽力したのもこの人です。
そしてこのフェノロサこそが、古邨に海外向けの日本画の製作を勧めたのです。

当時、パリ万博以降日本画や浮世絵は世界中で大流行しており、古邨の作品もあっという間に引っ張りだこになりましたが、肉筆画の制作は追いつきません。そこで、明治末期ごろから浮世絵の版元と自作を原画にした木版画を制作します。木版画なら一度に多数の作品ができるからです。
浮世絵は一般的に絵師が墨で輪郭線だけを描いた「版下絵」を制作し、彫師に渡し、彫師が版下絵を木の板に貼り付け、版下絵ごと木の板に彫って版木を制作しました。だから基本的に版下絵は存在しないことが多いそうです。
それに対して古邨落款の版画の場合、古邨が絹本(けんほん)に肉筆で画稿を描き、それを湿板写真で撮影したものを版下絵にしたとされているそうです。(湿板写真:ガラス板に塗った薬品が乾くまでの間に撮影する)だから元の作品も残っていて、更にその画稿は一枚の絵として鑑賞にたえるものとなっています。
花鳥画を得意とした古邨の作品を、オリジナルよりリアルに表現した画稿と遜色ない作品に仕上げることが出来たのは、高度な刷りと彫りの技術があったからと言えるでしょう。

今回の展覧会で、とても興味深かったのはその現存する試摺が展示されていたことでした。

写真:太田記念美術館公式Twitterより
このように古邨自身、もしくは摺師か、はたまた版元か、誰が書き入れたのかは不明ですが、1枚の作品に対して細かい指示が書かれています。これが本物よりリアルに見える古邨の版画のハイレベルな出来につながっています。
凹凸を出したり、陰影を表現したり、是非本物を見て欲しい作品ばかりです。

アメリカでは非常に人気が出て、作品は全土を巡り、10数回の展覧会が過去に開催され、展覧会を開催するたびに大量の注文が殺到したそうです。
日本では昨年の茅ヶ崎美術館での展覧会が初の回顧展となりました。

今回の展覧会は明治期の古邨と大正・昭和の古邨に分かれています。
どの作品も素晴らしかったのですが、既に記憶が薄れてしまって…
ということで中でも印象的だった2点に注目しておきましょう。

「みみずくと雀」
昼間のみみずくなので、目を細めています。そのみみずくに向かってか、かまって欲しいのか、ぴーちくぱーちく鳴く雀たち。
なんかとってもほのぼのして、ちょっと笑みがこぼれます。
古邨は鳥を題材にした作品を多数残しています。今回もみみずくやフクロウの作品はポーズを変え、時間を変え多数登場していました。

そしてがらっと変わってこちらは昭和6年の作品。
大正元(1912)年、35歳の時画号を祥邨に改め、肉筆画に専念するようになっていた古邨は、昭和元(1926)年、49歳の頃伝統木版画の復興を目指して「新版画」として再び木版画の花鳥画を制作するようになります。
この「金魚鉢と猫」もその時代の木版画で、決して派手ではないのですが、モダンな雰囲気を漂わせる作品に仕上がっています。
金魚を狙う鋭い目つきの猫の表情やまるで逆立っているような毛並みが、場面の緊張感を醸し出しています。

今回は珍しく(?)図録に当たる画集がこの展覧会と合わせて発行されていました。


読む部分は少ないですが、美しい古邨の作品を眺めるには最適な図録です。
小原古邨はようやく最近日本で知名度が上がって来たということで、これから更に研究が進んでいくことでしょう。
3月1日から始まる後期の展示も楽しみです。



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