ここのところPerugino(ペルジーノ)のことについて色々調べていたのだが、ふと「Vasari(ヴァザーリ)はなぜLe Vite delle più eccellenti pittori, scultori, e architettori (画家・彫刻家・建築家列伝)を書いたのか?」が気になって、ちょっと脱線。
イタリア語では通常Le Viteと呼ばれるこの本について調べてみた…んだけど、そこでまず気になる名前に出くわした。
古来ギリシャ語の"Mousêion"(伊語ならMuseo、英語ならMuseumの元)とは、Muse、ミューズ、つまり、ギリシア神話で芸術や文芸を司る女神たちのために捧げられた聖なる場所のことを指していた。
ヘレニズム時代、女神を象徴する文芸・学問を研究するための学堂となり、図書や絵画を収める収蔵施設が”美術館”だった。
エジプトのアレクサンドリアにおいて、プトレマイオス2世が建てさせた素晴らしい図書館含む建物もMousêionと呼ばれていた。そんなMousêionもローマ帝国衰退とともに廃れていった。
「Le Viteがなぜ書かれたかではなかったのか?」と思われたかもしれないが、Vasariの話をする前に、まずこの辺を知る必要がある。
現在私たちが考える、保存と展示の機能を備えたMuseo(英:Museum)、美術館の原型が誕生するのはルネサンス期のこと。
最初の”近代”美術館の概念を作ったのは、Paolo Giovio(パオロ・ジョヴィオ)という人だった。
フィレンツェのSan Lorenzo(サン・ロレンツォ教会)にあるGiovioの像。
フィレンツェ出身ではないが、没したがフィレンツェだったので。
この人、一言では言い表せない経歴の持ち主。
Paolo Giovioは1483年、北イタリアのComo(コモ)で生まれ、1552年フィレンツェで亡くなっている。
司教(vescovo)を努めただけでなく、歴史家、医者、伝記作者、博物学者など多彩な顔を持っていた。
1505年頃Pavia(パヴィア)大学で哲学、薬学を学んだあと、当時最高の教授陣を揃え、ヨーロッパで一番と言われていたPadova(パドヴァ)大学へで同じ科目を深めた。
1507年には故郷のComoに戻っていたことが記録に残っている。というのもこの年Noctes(夜)という詩集を出版している。
1511年にはPaviaに戻り、最初はartibus(芸術)、後に医学の学位を取得した。
この辺りでどれだけ博識だったかは想像ができる。
その後故郷に戻り医師をしていたが、ペストが発生。ペストの収束に合わせ、転居を決めた。
1512年、行く先はRoma(ローマ)。
当時はGiulio II della Rovere(教皇ユリウス2世)の晩年の治世で、Giovioは医師としてではなく、学者としてcardinale Bandinello Sauli(バンディネッロ・サウリ枢機卿)の取り巻きに取り立てられ、枢機卿のそばで働くことになり、その後1513年、Lorenzo il Magnifico(ロレンツォ・デ・メディチ)の息子、Giovanni(ジョバンニ)がLeone X(レオ10世)として教皇の座に就くと、1514年には哲学の教授として揺るぎなき地位に着く。
その後1517年には、レオ10世のいとこでもあるGiulio de' Medici(ジュリオ・デ・メディチ)がClemente VII(クレメント7世)の主治医を務める。
こうしてローマの教皇を取り巻く世界だけでなく、フィレンツェのメディチ家との関係も深めていく。
彼のキャリアを順を追って説明していくと、それだけで日が暮れるので、これ以上詳しいことは省くことにするが、Giovioは1520年代、フィレンツェにいた頃から有名な文学者、詩人、哲学者などの肖像画を集め始めていた。後にはこれらの人々に加え、武人、君主、教皇、アレクサンドロス大王やロムルス(ローマの初代王Romolo)などの古代の権力者から神聖ローマ皇帝カール5世やフランス王フランソワ1世など同時代の権力者だけでなく、オスマン帝国のスルタンや東洋の皇子たちまで及んだ。
そしてこれらのコレクションの為にもGiovioは、故郷の湖のそばに自分の宮殿を建てたいと考えた。
1538年から1543年、Giovioは希望通り、コモ湖の湖畔に”Museo”と名付けた邸宅を建てた。つまりこれが近代美術館の始まり、ジョヴィオ美術館だ。
1551年に出版されたElogia(賛辞)の第7巻は、Cosimo I d'Medici(コジモ1世)に捧げられているのだが、そこには「このコレクションには30年の月日がかかったが、自分の興味もお金も尽きることはなかった」、と書かれている。
”美術館”と言えども、現在私たちが考える”美術館”とはちょっと違っていた。
この建物には、所有者のGiovioが実際住んでいた邸宅で、コレクションの肖像画を見られるのは、彼に招待された友人、知人たち。と言っても時には枢機卿などもいた。
現在のように一般に公開されていたわけではない。
Giovioは、有名な画家の肖像画であるとか、絵画の質には拘らず、より本人に近いということに拘り、同時代の人はその家族に頼んで肖像画を譲ってもらい、過去の人々は、硬貨や彫像から肖像画を描かせたそうだ。
そのような理由で、”美術館”を形成していた多くの作品がコピーであったり、クオリティーがあまり高くない作品も数多くあったと言われる。
ただ例えば、Tiziano(ティツィアーノ)が手がけたIppolito de' Medici(イッポーリト・デ・メディチ),
Francesco Maria della Rovere duca di Urbino(ウルビーノ公フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ), Daniele Barbaro(ダニエレ・バルバロ), il doge Andrea Gritti(ヴェネツィア総督アンドレア・グリッティ), Vincenzo Cappello(ヴェンチェンツォ・カペッロ)、Pietro Aretino(ピエトロ・アレティーノ)
Bronzino(ブロンズィーノ)が手がけたCosimo I de'Madici(コジモ1世)、
Ritratto di Andrea Doria nelle vesti di Nettuno(ネプチューンに扮したアンドレア・ドリアの肖像画)を描いた。
他にもRaffaello(ラファロ)が弟子のBramantino(ブラマンティーノ)たちに描かせたフレスコ画(現存せず)のコピーとか、、オスマン帝国の提督で「バルバロス」(赤髯、またはバルバリアの王の意)と呼ばれ、バルバリア(北アフリカ)の海賊たち(バルバリア海賊)の中でもヨーロッパ人から特に恐れられた、大海賊バルバロス・ハイレッディンにマルセイユで買われた、オスマントルコの11人のスルタンの肖像の複製品など価値の高いものも一部有った。
こうして集められた肖像画は、400枚を超えていたと考えられているが、1552年Giovioの死後、多くの遺産相続人たちの手によって行方不明になってしまった。
唯一残ったものは、最近リノベーションを済ませたMuseo Civico Archeologico(市民考古学博物館)やPinacoteca Civica di palazzo Volpiで現在も保管されている。
Giovioが集めた肖像画が離散したことを、残念に思ったコジモ1世は、コジモ1世はCristofano dell'Altissmo(クリストファーノ・デル・アルティッシモ)をコモに派遣し、中でも重要な作品240枚以上の複製画を作らせた。
例えばこのLeonardo da Vinci(レオナルド・ダ・ヴィンチ)もその1枚。
複製された肖像画は、Serie gioviana(ジョビアーナ・シリーズ)と呼ばれ、現在ではCorridoio vasariano(ヴァザーリの回廊)に飾られている。
ちなみに「ヴァザーリの回廊」は近年防火対策を施され、一般公開に向けて準備が進んでいた。
他にも肖像画を版画にした人もいる。
Ippolita Gonzaga(イッポ―リタ・ゴンザ―ガ)が画家、Bernardino Campi(ベルナルディーノ・カンピ)に依頼した。
また1619年cardinale Federico Borromeo(フェデリコ・ボッロメーオ枢機卿)は版画を作らせ、それをBiblioteca ambrosiana(アンブロ―ジョ図書館)に所蔵した。
Giovioが造ったこのVilla-museo(邸宅美術館)は、残念ながら建物も残っていない。
湖から近かったことにより、建物の一部が水のせいで崩落していたことなどにより、1615年、この宮殿の所有者がabate Marco Gallio(マルコ・ガッリオ修道院長)に移ると邸宅は壊され、その場所には現存するVilla Galliaに建て替えられ。
”ジョヴィオ美術館”の形跡は、唯一残された壁の碑板のみである。
この”美術館”の姿は、同じくコモ出身のPlinio il Giovane(ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス)のローマの宮殿の影響を受けていたようで、今ではMusei Civisi di Como(コモ市民美術館)に保存されているフレスコ画でのみその様子を知ることができる。
ってVasari(ヴァザーリ)の話じゃないじゃん⁉
ちょっとPolo Giovioの美術館の話が長くなってしまったので、その辺はまた明日~!!
写真:Wikipediaより
参考:https://it.wikipedia.org/wiki/Paolo_Giovio
URLというネタも思い出しました。
イタリア語版wikiも
https://it.wikipedia.org/wiki/Giovanni_Battista_Della_Palla
本当にいつも興味深い情報ありがとうございます。
名前を聞いたことが有るようなないような…ということで早速教えていただいたtreccaniとwikipediaのページをプリントアウトしました。(長い文章を読むときは紙じゃないと頭に入らないもので…)
ヴァザーリの 著作のなかでは、悪役になってるようです。
フィレンチェ略奪があったとき、
現在、ロンドン ナショナルギャラリーにある ポントルモのヨゼフの生涯の絵などを家具からとろうとして、犯罪を犯した、、とか書いてあるようです。
細かいことは、イタリア語文献が自由に使えるそちらのほうがご存じかとは思います。