イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

アーヘンーGermania その3

2015年12月28日 22時51分07秒 | 他の国

ここ数日ホントに真っ白です。
フィレンツェだけでなくピサ空港も閉鎖に近い状態だそうです。
年末年始、こちらにいらっしゃる人は大変ですねぇ…
この湿気で寒くなってきました。
年始にかけてかなり気温が下がるようです。

さて、記憶の方が暖かいうちに少しずつアップしていかないといけないですね。
ドイツ2日目
朝早く出るだろうという予想もあって、ホテルでの朝食のオプションは付けず、駅へ向かいました。
朝起きた時、結構強い雨が降っていてへこんだのですが、出る時は止んでいました。 

白い建物が駅です。

朝食は駅の構内で。

よくわからないのですが、表面がちょっと硬くて中にカステラが入っているパンを買いました。
これが結構おいしい。
ここ駅構内のフードコートだったのですが

Wifiも無料、電源も取れてトイレもある。
至れり尽くせりな感じです。

これ、私が食べたパン屋さん。
この先もあちこちで店を見かけました。

8時10分のデュッセルドルフ行きでケルンに向かいます。

さらばフランクフルト~時間足りなかったな。
電車はケチって安いので行こうかとも思ったのですが、この日は予定がてんこ盛りだったので、お金より時間を取って早いので行きました。

文字までは解読できませんが、座席の上に「予約なし」と書かれている席に座ります。
この電車はほとんど予約なしでしたが、結構混んでいました。
9時半にはケルンに到着…の予定が、これケルン中央駅まで行かないので、中央駅の1つ手前で乗り換え~などとやってたので、ケルンに着いたのは10時近かったかな?
ホテルに荷物を置かせてもらって、10時47分の電車でアーヘンへ

アーヘン…ってどうなんですかね?日本人にはあまり馴染みがない気がしますが、ここ温泉地としても有名なんですって。
地名のAahenはAhha、水という意味から来ているそうです。
イタリア語ではAquisgrana…ってどんだけ離れてんだよっていう気もしないでもないですが、まぁどちらも”水”なんですね。
こちらドイツでも一番西に位置し、ベルギー、オランダと隣接しています。
実は今回ベルギーまで行ってしまうつもりだったんですよ。
ただ今ベルギーはちょっと危険かなぁ、というのと日程的にベルギーまで入れると恐ろしいことになる、ということでベルギーは切りました。
でもオランダには行ったんですよね。
そちらの話は次の回で。

ここは古代ローマ帝国の時代から知られており、ローマ人たちは、この地を温泉保養地として発展させてきたそうで、アクアエ・グラニと呼ばれていたそうです。
アクアエ・グラニがイタリア語のアクイスガラナになるのね。
今でこそ地方都市的な感じですが、中世に入ると、8世紀末にフランク王国のカール大帝が王宮をおき事実上の首都となった。
その時に作られた大聖堂がすごいんです。
こちらの美術史の教科書に出ているのを見た時、一瞬トルコのアヤソフィアかと思ったくらい。
”カール大抵が礼拝堂として、9世紀の初頭に建てさせたもので、8角形の丸屋根をもつ大聖堂で、ロマネスク様式とゴシック様式が混在している。
9世紀後半にノルマン人の襲撃を受けて荒廃するが再建し、歴代のドイツ王、神聖ローマ皇帝がアーヘン大聖堂で戴冠式を行った。
皇帝フリードリヒ1世に都市特権を認められた。”
とまぁ歴史的に見たら非常に重要な都市なんですよ。
”でも第2次世界大戦中の1944年10月、アメリカ陸軍によって包囲・攻撃され、街は大きな被害を受けた。
アーヘンは大戦中ドイツ本土で初めて連合軍によって占領された都市となった。”
まぁドイツはどこの都市も似たり寄ったりですよね。

この大聖堂は世界遺産に登録されているんですが、それがなんと世界遺産第1号!?

1978年に登録された12の遺跡のうちの1つです。 

これが入り口…と中に入る前に隣接する宝物館へ向かいます。
あっ、入り口の横にこんな子がいました。

誰だろう???
あるサイトに「小便小僧」と書いている人もいましたが、
私が見た時は水は出ていませんでした。

入場料、チケット購入はこの入り口を背にした聖堂インフォーメーションセンターで。
入り口に入ってすぐ右側にロッカーがあるので、そこで荷物を預けちゃいました。
館内はフラッシュなしなら撮影OKです。
見ものはこれ

カール大帝の金の胸像。
このアーヘン大聖堂の宝物館は後期古典主義、カロリング朝時代、オットー朝とシュタウヘン朝の時代の傑作を展示しています。

アーヘンの大聖堂宝物館は北部ヨーロッパにおける最も重要な教会の宝物館とのことです。
ほんと、とにかく金きらきんで、当時の権力が慮れます。

2階に上がると窓の外から子供の笑い声が聞こえるので覗いてみたら

教会内の中庭で子供たちが鬼ごっこ~
かわいらしい光景です。
地下には

こんな立派なPresepioが有りました。

一通り眺めていざ大聖堂へ。

わぁお~
ちなみにこちら撮影はOkなのですが、有料です。
1ユーロなので寄付と思えば安いものです。
入場料を取るより、いいアイデアだと思います。 
入る前にその説明を読んだのですが、どこで払ったらいいのか分からなくて、撮り始めたんです。
そうしたらどこからともなく係の人がやってきて『金払え~」と言われますのでご安心を。
カメラに(私は思わず手を出してしまったのですが)お金払いましたという印の紙テープを巻いてくれます。
カメラとタブレットで撮影していましたが、その辺は何も言われませんでしたね。 

”アーヘン大聖堂はしばしば「皇帝の大聖堂」(ドイツ語:Kaiserdom)として言及され、この大聖堂は北部ヨーロッパでは最古のものである。
786年にカール大帝がアーヘンの宮殿教会の建設を始めた。
814年にカール大帝が死ぬと彼は自身の大聖堂に埋葬され、彼の骨はいまも特別の神殿に保存されている。
大聖堂は、一千年以上の時を経て、現在の装いを調えた。 
アーヘン大聖堂の中心は宮殿教会である。
それは後世の増築部分と比較すると驚くほど小さいが、建設当時は、それはアルプス以北では最大のドーム建築であった。
古典主義様式、ビザンティン様式そしてゲルマン様式-フランク王国様式の要素を備えた心を奪う建築は、きわめて重要な記念碑的建造物の真髄である。
アーヘン大聖堂は、936年から1531年にかけての約600年間に神聖ローマ帝国の30人の皇帝たちの戴冠式が執り行われた場所でもある。
巡礼者の莫大な流入に対処するために、ゴシック建築の時代に聖歌隊のためのホールが造営された。
それは2つの部分からなるガラスの礼拝堂でカール大帝没後600年を記念して奉献された。
爾来、アーヘンの「ガラスの家」の壮麗な建築への賞賛は決して止むことはなかった。”(Wikipediaより)


八角形の丸天井はモザイクで。

とにかく金きらきん
そして

このステンドグラス。
いやはやとにかくドイツの教会はステンドグラスが立派。 
”破片の形で残る最も古いステンドグラスは、フランク王国のカール大帝の支配下にあったロルシュ修道院(ドイツヘッセン州)で見つかっている。
修道院は764年創建だが、ステンドグラス自体は9世紀のものだと推定されている。
ステンドグラスにはキリスト像が描かれていた。原型を留める最古のステンドグラスは、ドイツ南部バイエルン州に位置するアウクスブルク大聖堂に残る。
ダニエルをはじめとする5人の預言者を描いたステンドグラスは12世紀初頭の作品だと考えられている。”(Wikipediaより)

ステンドグラスはイタリアでも見られますが、例えばAssisiのサンフランチェスコ教会のものなどもドイツやフランスの職人の手によると考えられています。
イタリアはこの2国に比べると、ステンドグラス後進国でした。
それは思うにイタリアは窓を大きくして光をいっぱい取り込まなくても、十分明るかったのでは?と個人的には思います。
ただステンドグラスというのは、以前も書いたと思うんですけど、教会内を明るくするためだけが目的で作られたわけではありません。
もちろんフレスコなどと同じように、字の読めない人の方が圧倒的に多かった時代、キリスト教の教えを彼らにビジュアルで教えるのに一役買っていたことは言うまでもありませんが、
ステンドガラスを通した光が時に奇跡の映像を映しだしたりするからです。

たぶん以前にもお話したと思いますが、昔恩師がよく言っていたのがAngela da Foligno
彼女がミサの最中にキリストを見たと言うんですけど、科学的に考えると、それはステンドグラスが見せた幻だったのでは、と言われています。 
勿論信仰の深さがなした業、でしょうけど。

3回ぐらいぐるぐる回って出てきたらもうお昼でした。
この後街中を少々ぶらぶら

クリスマスマーケットも結構でかいのが出ています。

ここはどうやら老舗のお菓子屋さんみたい。

不思議なオブジェ
今写真を見ながら横浜、関内の伊勢佐木モールにあるブロンズ(?)のオルゴールを思い出しました。
そして、それを調べて驚いた!
よこはまそごうの地下2階入り口の鳩時計…じゃなくてからくり時計が老朽化のため無くなった~1?
ってなんですか?
あっ、えっ2008年?知らなかった…もう7年も前じゃないですか。
時計は有るけど、人形は出ない???
なんで、なんで、直せないの?
もうホント、日本のこういうところ信じられないです。

伊勢佐木モールの方は1978年から有るらしいですが(私が小学生の時から有りましたからね)30分毎に反時計回りに回転しながら音楽と共に動くモニュメントで、名前は「タウンピープル」(知らんかった)
ヨーロッパの街の人々をモチーフに作られたんだそうです。
あ~懐かしい。

ブレーメンの音楽隊みたい。
子供が触って回したりしていました。
ここから

市役所らしいです。

市役所前にもマーケット
ここで

またソーセージ
この日もこれでお昼は終わり。

この両端に立っているクッキー(?)がこの町の特産(?)みたいです。
味見が出ていたので、ちょっとつまんでみたんですが…
”プリンテン”って言うらしいですこのクッキー
”スパイスと蜂蜜がたっぷり…私はこれちょっとダメでした。シナモンが強すぎる。
ドイツのお菓子にありがちなどっしりとした重みと甘さのあるお菓子ではなく、濃い紅茶によく合う素朴な焼き菓子なので、日本の方へのお土産にもおすすめです。
ナッツやドライフルーツが入ったものなど、バリエーションもいろいろあります。”
と書かれていましたが、そうかなぁ???

ドイツの焼き菓子としての知名度が高いのがLebkuchen(レープクヘン)。
そのLebkuchen(レープクヘン)と似ているのがアーヘンの名物焼き菓子Printen(プリンテン)と紹介されることが多いが、この言い回しには問題あり。
Lebkuchen(レープクヘン)の大元がPrinten(プリンテン)だと言われているのだからだ。
そもそも、Printen(プリンテン)は、ベルギーのディナンという街のCouque de Dinant(クック・ド・ディナン)という焼き菓子がオリジナルで、
15世紀に、ディナンからアーヘンにやってきた銅職人が、持ち込んだということらしい。
そして当時は、この焼き菓子はApotheke(アポテーケ=薬局)で販売されていたらしい。
スパイスを扱うためでしょうねぇ。
ベルギーからアーヘンでPrinten(プリンテン)に形を変えた焼き菓子は、更に変化し、フランク地方の修道院で修道女たちによりデザートのクッキーとして作らるようになる。
そして、14世紀には、ニュルンベルク周辺の男子修道院でLebkuchen(レープクヘン)として焼かれるようになったのだ。
ヘンゼルとグレーテルのメルヘンに由来する有名なお菓子の家、プフェッファークーヘンホイスヒェン(一般にはクヌスパーホイスヒェンとも呼ばれる)もレープクーヘンで作られるんですって。
クリスマスの伝統的なお菓子らしいですね。
いやはやドイツのクリスマスのお菓子って、ドライフルーツがいっぱい入ってて、なぜかちょっと固くて…とイタリアとは全然違うなぁと 

焼き型。
脇にお菓子の名前、書いて有ったね。 

個人的には本当に「外国のお菓子」感120%のお菓子なので、好き嫌いが強く出ると思いますし、
あるサイトに書かれていましたが「名物にうまいものなし」というのはあながち外れてはいないな、と。
必ず師匠区してみた方がいいですね。 

 
そして私はこの後国境越え、オランダへ向かいます。
でもその話はまた次回ということで・・



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