イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

オランダ遠征、マーストリヒトーGermania その4の1

2015年12月30日 19時22分02秒 | 他の国

年の瀬も押し迫っています。
こちらもいよいよ寒くなってきましたよ…

さて、このまま年を越すわけにはいかないですよね。
今年の事は今年のうちに…
ということでドイツの旅第4弾

と言ってもこれ2日目でアーヘンの昼食後のお話しです。
先日旅行の話を友人にしたら「旅行運有るよね」と言われたんです。
ふむ?そうかな?
まぁ旅慣れているので、多少のアクシデントは解決できちゃうし、今はネット環境が進んでいるので、ね。
まぁ運が良いと考えるなら、5年前、大雪で3日間足止めされたフランクフルトで厄を落としたのでは?と思いますね。
勿論ぎっしり予定を詰め込むためには普段から情報収集は欠かせません。
それでも帰ってから、「あ~そうだったのか」「あそこも行っておけばよかった」などなど後悔することは多々あるんですけどね。

さて、今回どうしても行きたかったのがマーストリヒト(Maastricht)
と言ってもそこどこよ?と私も思うんですよね。
大体、呼び方も分からなかったし…
なんでここに行ったのかと言いますと、イギリスのガーディアン紙が選んだ”世界で一番美しい本屋(The world’s 10 best bookshops)” が有るから。
本屋好きの私としてはこれは行かなきゃダメでしょう~
ちなみに日本の本屋さんも1軒入っているんですよ。(京都の恵文社) 
他も行ってみたいですねぇ~
マーストリヒトについては全然調べてなくて、それだけの予定だったので、わざわざ往復2時間かけて行くべきか、特にアーヘンが結構気に入ってしまったので、ギリギリまで悩んだのですが、結局行きました。
そして行って良かった~

アーヘンからバスで約1時間。
切符はバスの中で買えて、読み方も分からなかったので、紙を見せました。
すると運転手が「今日中に戻って来るの?」と聞くので、そうだというと往復券をくれました。
往復8.5€。
まさか使えると思わなかったので持ってこなかったのですが、オランダの…名前忘れたけど、あのオランダ版Suicaが使えました。
アーヘンのツーリストインフォメーションでバス停の場所を聞きました。

地図にチェックしてくれたんだけど、それが分かりにくくてねぇ…
劇場の裏(劇場に向かって右側)の銀行(?)の前でした。
30分おきにバス有るって言ってたけど、20分おきでしたよ。
更にこのインフォ、親切だと思ったので、「ケルン行きの最終の電車は何時ですか?」と改めて聞きに行ったら
「知らないわよ」と冷たく言われました。 

途中国境を越えます。
と言ってもユーロ圏にはパスポートコントロールもなければ”国境”なるものも有りません。

ここが国境…なんですけどね。
かろうじて表示が出ていたけど、バスの速さにシャッターが付いて行きませんでした。

イタリアと違って、こちらは大抵バスも電車も停留所の表示がでるので、いちいち聞かなくていいのが助かります。
更にオランダに入ったら、微妙ですがWifiも入るように。
ちっ、ホントイタリアは…

日本人にはあまり馴染みのない(私だけ?)マーストリヒトとは
EU(ヨーロッパ連合)に関する条約であるマーストリヒト条約が締結されている。この条約では通過や政治の統合に関することが定められているようです。
名前の由来は、ラテン語の「マース川の渡河地点」(Trajectum ad Mosam)であるとか。

”マーストリヒトはオランダで最も古い町であるといわれているが、オランダで最初にローマ帝国から都市権を得たのはナイメーヘンである(西暦98年)。
マーストリヒトはその500年前よりケルト人が造った町が存在していたが、ローマ帝国から都市権を得たことは無かった。”(Wikipediaより)
Wikipediaを見ていたら、結構歴史が面白かったので、ここに載せておきましょう。

”8000年から25000年前の旧石器時代の遺構が、市内の西部で発見されている。ローマ人が住みつく少なくとも500年前には、マース川が浅瀬になり対岸に容易に渡ることができる地点にケルト人が住んでいた。
その後、ローマ帝国が現在のシント・セルファース橋の少し上流側に橋を架け、帝国内各地より低地ゲルマニアの州都ケルンに繋がる道を造った(この橋は13世紀に、シント・セルファース橋の位置に架け替えられている)。
8世紀には近隣のリエージュ司教区の地位を奪われ881年にはノルマン人に占領されたが、1204年にブラバント公国が領有権を奪還すると、この町に都市権を与えた。
その後のブラバント公国とリエージュ司教領の二重支配は、1794年のバタヴィア革命によるフランスの傀儡政府による支配を受けるようになるまで続いた。
1204年に都市権を得た後、城壁の建造に取りかかった。1229年には最初の城壁が完成し、14世紀には二重の城壁を持つ強固な要塞都市となった。
1579年にはスペイン王の命を受けたアレッサンドロ・ファルネーゼによる攻略により、マーストリヒトを含む南部10州はヘント講和条約に基づきスペインの統治を受けることになる。
その後、フランスと結んだオラニエ公フレデリック・ヘンドリックが1632年に街を奪還したが、マーストリヒトはネーデルラント連邦共和国の一部となることはなかった。
1794年のバタヴィア革命の後、フランスの傀儡政権下でマーストリヒトは新たに作られたネーデルマース州の州都となった。
この状態は1814年まで続いた。フランスによる支配が去り、1815年にはネーデルラント連合王国が建国されるとその一部となり、新たに作られたリンブルフ州の州都となった。
1830年にベルギー独立革命が起こり、周辺の都市がベルギー側に帰属するようになっても、マーストリヒトはオランダ側に残ることを選択した。
1831年に列強の合意により、リンブルフ州の東部がオランダに、残り全てがベルギーに帰属することが決定されたが一部でこの分割に反対する者が居たため、最終的に1839年のロンドン条約にて帰属が確定した。”

ふむふむ、だからフランス&ベルギー色が濃い感じになってるのね。
そして気になるのはやはりAlessandro Farnese (アレッサンドロ・ファルネーゼ)パルマ公ね。
あっ、やばい、かなり脱線する。
”父は第2代パルマ公オッターヴィオ、母は神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世の庶子マルゲリータ。
名は父方の曾祖父であるローマ教皇パウルス3世の本名に由来する。”

”母がネーデルラント17州の総督に選ばれるとブリュッセルへ移住、1565年に結婚してアルカラ大学で従弟のスペイン王太子カルロスと叔父ドン・フアン・デ・アウストリアと共に勉強した後、母がスペイン・ハプスブルク家の出身であることから、スペイン軍に就いて軍事的才能を発揮した。また、妻マリアがポルトガル王マヌエル1世の孫娘(ギマランイス公ドゥアルテの娘)であったため、マドリードの宮廷でも重きをなした。”
ってこれを読んだらこの”母”が気になるじゃないですか。
で、調べてまたびっくり、この人フィレンツェにいたことがある!?
Alessandro de' Mediciと結婚していたんだって。
このAlessandroが何者かというと(みんなAlessandroじゃん)

”通称イル・モーロ(il Moro)。コジモ・デ・メディチ以来、事実上フィレンツェを支配していたメディチ家(兄脈)の最後の当主、そして世襲となった最初のフィレンツェ公(1532年から)である。
公式にはロレンツォ1世・デ・メディチ(イル・マニフィコ)の孫ロレンツォ2世・デ・メディチの庶子とされているが、本当の父親は枢機卿ジュリオ・デ・メディチ(のちに教皇クレメンス7世となった)である。彼が黒人との混血なのかははっきりしていない。
ジュリオがメディチ家の黒人奴隷シモネッタ・ダ・コッレヴェッキオ(サビーナにあるコッレヴェッキオにちなむ名である)に生ませたとも、ローマ郊外の農民の娘に生ませたとも言う。
いずれにしろ、その肌の色からあだ名の「イル・モーロ」(ムーア人)がつけられた。”

フィレンツェ市民の反乱により追放されたが、1530年、神聖ローマ皇帝カール5世がフィレンツェを制圧したことによりフィレンツェに復帰。
1536年1月18日、カール5世の庶出の娘であるマルゲリータ・ダズブルゴと結婚したが、子供はなかった。
1537年1月5日夜、アレッサンドロはメディチ家の同族ロレンツィーノ・デ・メディチ(ロレンザッチョ)によって暗殺された。
死後、フィレンツェ公には黒隊長ことジョヴァンニ・デ・メディチの子コジモが後継者として選ばれる。
そして夫を殺されたマルゲリータはもうその翌年1538年にはオッターヴィオ・ファルネーゼと再婚、双子の男児を生むが、育ったのはアレッサンドロのみだった。
いやいや、本当に女性が政治の道具でしかなかった時代ですね。
更に1559年、”異母弟のスペイン王フェリペ2世の要請によりネーデルラント17州の総督となり、反動的属領政策に協力した。
しかし、カルヴァン派を信仰する現地のブルジョアジーであるゴイセン同盟の進出、大衆蜂起など反抗が激化、これらを抑えられずにアルバ公と交代させられた。”
って本当に男は勝手ですね。 

とまぁなんとも身近(?)なお話ではないですか。 
歴史的な説明が長くなってしまい申し訳ないです。

バスはマーストリヒトの駅行きですが、グーグルさんが教えてくれた駅の前の停留所で降ります。
降りたところに


ちょっとかわいい信号機発見。
ポニーテールの女の子が歩いている…みたい。
そして赤は

ちょっとぽっちゃりしているところが更に良いですね。
この後この信号を見かけることはなかったし、この道路を渡るのに歩行者用の信号が3段階有ったけど、このタイプはここだけでした。
貴重なものだったのかな?
ミッフィー信号といい、やっぱりオランダいいねぇ~

そうなんですよ、ドイツから1時間しか離れていないのに、雰囲気が違う。

不思議です。

Theオランダの景色。
目的地はてっきりここだと思ったんです。
時間も有るし、こっちの方へ行ってみました。

平日だというのにものすごい人。
実は先ほどの建物はツーリストインフォメーションの入った建物でした。
せっかくなので地図でももらおうかと思ったら、有料だったのでやめました。
でもこれが失敗だったのよね。
この後頼りのグーグルさんの機嫌が悪くなり、私はさまよい人へ~

とにかく目的地を探しながらぶらぶら

これが町の中心の広場でしょうね。

誰だろ?
なんか煙突に関係がある人?
トーチを持っていたと書いている人もいたけど、誰だろ?
実は目的の本屋はこの広場のそばだったのですが、とりあえずクリスマスマーケットの方へ吸い込まれて行ってしまいます。

とにかくにぎやかですこの町。

このクリスマスマーケットには観覧車が有りました。
そうそう、こっちの方の観覧車、メリーゴーランドのスピードがすごく早いのには驚きでした。
そしてこの広場から


この教会が見えたので、てっきりこれだろうと思って近づいて行きました。
あれれ?本当の教会だ。
右が聖ヤン教会で、この赤い塔が目印。
何でもこの赤、牛の血で染めたらしいです…
最初、隣のカトリック教会である聖セルファース教会の洗礼堂として建設されたそうですが、17世紀にプロテスタント教会となり、現在の内部はステンドグラスもない質素な内装だそうです。
70メートルほどのこの塔には有料ですが登れるらしいですが、私が行った時は鍵がかかっていました。 

ということでお隣へ。
フランスゴシックを彷彿とさせる立派なもんですね。
せっかくなので中へ入りましょう。(有料だったよ…)

この門Porta santa(聖なる門)と書いて(彫って)ありました。
ジュビレオマークもぶら下がっているし。
ということはRomaへ巡礼しなくても、罪は許されるということかしらん?

ここはBasilica di San Servazio(聖セルファース教会)
オリジナルの建物は384年頃に建てられていたようです。
というのもマーストリヒトの最初の司教セルファースが死んだのがその年で、死後埋葬された場所に教会が建てられたのが始まりのようです。
この聖人はカロリング朝の守護聖人のようです。
今でも聖人の遺物が保管されています。
聖人の墓に巡礼する人が多く訪れるに伴い、教会は増改築を繰りかえしています。
現在残されている一番古い建物は11世紀のもので、その他の場所はロマネスク、ゴシックの様式を今に伝えています。

この門をくぐって、左に曲がるとチケット売り場があります。
お金を払ってまで入るべきかなぁ…というのはまぁ人それぞれ。
ここも学割効きました。3ユーロ。
まぁ宝物殿の”お宝”は見ごたえありますよ。 
その最たるものがこれでしょう

アーヘンにはカール大帝の胸像がありましたが、こちらは聖人の黄金の胸像です。
なんでも復活祭の時にこの胸像を、行列と街(?)を練り歩くとか…驚きです。

お墓はこれかしら?
どうやらそのようです。
この中に遺骸が納められているようです。
とにかく当時の権力をうかがわせるこのきんきらきんモードにちょっとげんなりしますが…

ではでは教会に入りましょう… 
とその前に夕食のお時間です。
続きはその後で…まずいな、結構長くなっているな。
ということで一度ここで切りますかね。



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