寒い・・・ダウンに逆戻りです。
ホント油断できない天気です。
さて、昨日言ったPalazzo Venturi-Ginoriですが、いちいち最初から調べるのは時間が掛かるなぁと思っていたところ、なんと昨日渡されたFAIの入会の案内だと思っていたプリントが、実はこのお屋敷の説明だってこと、今朝これを捨てようと思って気が付きました。
ということで、自分のために少しかいておくことにします。
ここは元々Orti Oricellari(オルチェラーリ菜園)として有名で、現在はEcole Franco-Italianne Victor Hugo di Firenzeというフランス系の学校になっています。
このお屋敷が建てられたのは1500年代。
Bernaldo Rucellaiが妻、Nannina de'Madiciの持っていた土地にお屋敷を建てました。
Rucellai(ルチェライ)家と言えば一番有名なのはGiovanniでしょう。
彼はLeon Battista Albertiのパトロンとして有名で、
Palazzo Rucellai
とTempietto di San Seporclo
をSan Pancrazio教会に作らせています。
ちなみにこれはGiovanniのお墓です。
現在はRucellaiが収集した古美術もなければ、菜園も当時の姿を全くとどめていません。
この菜園ですが、現在は細分化されてしまっていて、隣のGiardino Corsiniも元々この菜園の一部だったそうです。
実はこのRucellaiという苗字は菜園ととても関係が深いんです。
商人だった彼はバレアレス諸島(スペイン)である植物を見つけます。
それを持ち帰ってこの菜園で育てます。
というのも、彼はその植物によってoricello rossoという赤い色に繊維を染められることを発見したからです。
この染料でフィレンツェの羊毛を染めて大もう。
当時この赤はヨーロッパで大流行していたそうです。
ということで、初代は"Oricellario"と呼ばれていたことからそれが苗字となりました。
お屋敷を建てたGiovanniの息子、Bernardoは政治家でもあり、作家、歴史家でもあった知識人。
妻はLorenzo il Magnificoの一番上の姉Nannina de'Madici
当然の政略結婚ですわなぁ・・・
このBernardoですが姻戚関係にあったMediciがCareggiで開いていたAccademia Platoniica(プラトン・アカデミー)に参加していました。
ところが1494年、メディチ家はフィレンツェから追放されてしまい、Careggiの代わりに、1498年からこのお屋敷がプラトンアカデミーの開催場所になりました。
マキャベリなんかもそのメンバーに入っていたようですが、中でも1516年教皇レオ10世(メディチ家出身)が、Bernardoの息子Giovanniが書いた悲劇”Rosmunda"を聞きに訪れたそうです。
大変名誉なことだったんでしょうね。
後にRucellai家のメンバーがメディチ家に対して反乱を起こしたり。
結局1523年、菜園は閉鎖されてしまいます。
その後メディチ家がフィレンツェに戻り、1534年には皇帝カルロス5世をこの宮殿に宿泊させたりしています。
1573年、お屋敷はBianca Capelloの手に渡ります。
Biancaと言えば、フィレンツェ人にすごく評判が悪い、と言っていたのは、昨日説明をしてくれた人。
Bianca CapelloはFrancescoⅠde'Mediciの愛妾から妻になった人。
ヴェネツィア出身の彼女がなぜフィレンツェに来たのか、という話はWikipediaでも読んでいただければ分かります。
フィレンツェに来たBiancaは当時San Marco地区に住んでいたそうです。
そしてここにはFrancescoの錬金術の工房があったので、そんなご縁で二人は知り会ったとか。
当時二人とも結婚していましたよ。
ということで当然邪魔者は消されるわけですよ。
二人が何かたくらんだかはさておき、Biancaの夫は1572年に殺されます。
そしてFrancescoの妻Giovanna d'Austriaは体が弱かったにも拘らず、6人の子供を毎年のように生みます。
ところが全て女の子。(男の子が1人いたけど、幼少時に死んでしまいます。)
メディチ家最後になったAnna Maria Luisa de'Mediciの例でもお分かりでしょうが、当時女性には家督継承権がありませんでした。日本の天皇制みたい。
ということで当然Biancaが「私が男の子を生んでやる」と思うわけです。
だって跡取りになればメディチ家の財産独り占めできるんですから。
そして思惑通りGiovannaは死んでしまいます。
Giovannaが死んだ翌日には妻として公の場へ、
と実はこの↑部分が間違っていたこと、シャワーを浴びながら思い出しました。
正確には死んだ翌日にFrancescoの住んでいたPitti宮殿に移るんです。
まぁどちらにせよ死んだ妻は浮かばれませんよねぇ・・・
そして2ヵ月後には正式に結婚していたというから、フィレンツェ人がBiancaを「娼婦」と言ってののしるのも無理はない。
そしてご存知の方も多いと思いますが、FrancescoとBiancaの最期もまたドラマチック・・・自業自得?
1587年Poggio a Caianoの別荘にて急死。
Francescoの死因はマラリアと言われています。
そういえば昨日ラファエロもマラリアが原因で死んだと言っていたなぁ。
その翌日Biancaも死んだことから、毒殺という説も有ったのですが、Francescoに関しては2010年の調査で、マラリアと確証が取れています。
あっ、これが先日の本屋のお父さんがメディチの墓を全部開けた、という話に繋がるかな?
Biancaの遺体は彼女のことを忌み嫌っていたFrancescoの弟で、その後を継いだFerdinandoの意向でFrancescoとは別の場所に葬られ、現在では行方不明になっているそうです。
いやいや、なんともドラマチックなお話です。
さてとここら辺で、今日はもう一仕事しないといけないので終わりにします。
p.s.今日の日が無事に迎えられたことをこっそり両親に感謝。
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