イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

「Orti Oricellariの反メディチの陰謀」再考の巻

2020年05月24日 17時14分16秒 | イタリア・歴史

前回、Orti Oricellariについて書いたので、すぐにGiovanni Battista Della Palla(ジョバンニ・バッティスタ・デッラ・パッラ)の話に行けるかと思ったのだが、Della Pallaが活躍(?)するのは、このOrti Oricellariのアカデミーが閉まった後だった。そして、この辺りの政治事情がいまいちはっきりせず、もう一度調べてみた。
ネットの情報しか入手できないので、あっちこっち引っ張って来て、翻訳して、理解して…ととにかく時間がかかる。いくらまだ緊急事態宣言が解除されてないとは言え、いつまでここで立ち止まっているんじゃ?

これまでイタリアのことは、美術が中心だったので、その他のことはなんとなくしか理解していなかったのだが、ルネサンス芸術華やかなりし頃、実はイタリアは周りの各国から狙われ、戦に明け暮れていた。
日本の戦国時代より面倒なのは、カタカナの名前が似たり寄ったりな上、あっちとくっついたりこっちとくっついたり、昨日の敵が今日の味方、昨日の味方が今日の敵だったりで、この辺りを整理しないとダメだなぁ…ということで今日はその辺を。
少々前回と重複してしまうかもしれないが、ちゃんと理解しるために再記したので、その辺はお許しあれ。

え~とどこから始めたらいいのかな?
1519年、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世が死去すると、教皇レオ10世らの支持を得てフランソワ1世もローマ皇帝位の後継者候補になるも、スペイン王カルロス1世(マクシミリアン1世の孫)が選出され、カール5世として即位する。
結果フランソワ1世はヴァロア家なので、フランスはハプスブルク家によって周囲(ドイツ・スペイン)を囲まれてしまう。
最初フランスと手を組んでいた教皇レオ10世も、宗教改革を叫ぶマルティン・ルターに対抗する目的もあるし、カール5世の力を恐れてもいたので、戴冠式を餌にカール5世と同盟を組み、フランスを捨てる。
しかしこの教皇レオ10世の裏切りが、俗にいう”イタリア戦争”の第3次(1521-1526)の発端に。
フランス王フランソワ1世とその同盟国ヴェネツィア共和国対、神聖ローマ帝国、イングランド王ヘンリー8世、教皇という構図。
結果フランス、ヴェネツィア軍は敗北。
この時点ではフランソワ1世は、イタリア、フランドル、ブルゴーニュ公国の領地を全て放棄した。
しかし懲りないんだよなこの人。

この頃フィレンツェはどうなっていたのかというと、共和制という名の元のメディチ家の傀儡政権が続いていた。
1513年当時フィレンツェを実質的に統治していたのは、Giovanni de 'Medici(ジョバンニ・デ・メディチ)
彼がレオ10世として教皇に選出されると、フィレンツェは甥のLorenzo(ロレンツォ。兄Pieroの子。)に任された。
そのロレンツォも1519年梅毒で急死、後任はレオ10世の甥のGiulio de'Medici(ジュリオ・デ・メディチ)に任される。
ジュリオは教皇レオ10世の治世、枢機卿としてローマの教皇庁で優れた手腕を発揮していたが、フィレンツェに戻ることに。
しかし1521年12月1日教皇レオ10世は死去。時期教皇を決めるコンクラーベに参加するため、ジュリオ枢機卿もローマに戻らなければならなくなった。
新たに選出されたのはオランダ出身のAdriano VI(ハドリアヌス6世)。
ハドリアヌス教皇は唯一のオランダ人教皇で、実に450年間、1978年Giovanni Paolo II(ヨハネ・パウロ2世) が教皇に選出されるまで彼の後、イタリア人以外の教皇が選出されることはなかった。
彼は神聖ローマ帝国皇帝カール5世と同盟を組むことに決めた。
新しい枢機卿の元には、ジュリオも当然枢機卿として、手腕をふるっていた。当然時期教皇座を見据えての行動だろう。
そしてこの頃神聖ローマ帝国と協調する教皇庁、フィレンツェを陰で牛耳るメディチ家に反発を起こしたのが、Orti Oricellariに集っていたものたちとcardinale Saderini(ソデリーニ枢機卿)だった。

陰謀の首謀者はJacopo da Diacono(ヤコポ・ダ・ディアーコノ), Zanobi Buondelmonti(ザノービ・ボンデルモンティ), Luigi di Tommaso Alamanni(ルイジ・ディ・トンマーゾ・アラマンニ), Luigi di Piero Alamanni(ルイジ・ディ・ピエロ・アラマンニ)などOrti Oricellariのメンバーとcardinale Soderini(ソデリーニ枢機卿)だった。
カリスマ的な指導者ヤコポ・ダ・ディアーコノとはみな兄弟のような友情で結ばれていた。
目的はジュリオ・デ・メディチを暗殺し、メディチ家を追放、フィレンツェの政治体制を変えること。
しかし、計画は失敗。何でも枢機卿とその他の謀反人との手紙のやり取りをしていたフランス人の使者が捕らえられ、死刑を宣告され、司祭を頼んで告解したいと頼んだところ、やって来たのは司祭の服を来たスパイだった。こうして謀反の首謀者が発覚し、ヤコポ・ダ・ディアーコノとルイジ・ディ・トンマーゾ・アラマンニは1522年6月7日現バルジェッロ美術館で絞首刑に、ザノービ・ボンデルモンティ、ルイジ・ディ・ピエロ・アラマンニは絞首刑を宣告されるも危うくフランスに逃げおおせ、フランソワ1世の庇護に入る。
ソデリーニ枢機卿は、資産、使用人を没収され、サンタンジェロ城に幽閉された。(クレメンス7世のコンクラーベ時に自由になる)
フィレンツェの共犯者たちの家では全財産が没収されていた。

その共犯者の中にいたのがGiovanni Battista della Palla(ジョバンニ・バッティスタ・デッラ・パッラ)
デッラ・パッラ反逆罪で財産を没収されることになっていた…

あらら、ほとんど前回と同じ話になってしまったみたい。
実は今回整理したかったのは、イタリア語のテキストを読んでいたら、絞首刑された人と逃亡した人の区別がつかなかったから。
Luigi di Tommaso Alamanni(ルイジ・ディ・トンマーゾ・アラマンニ),とLuigi di Piero Alamanni(ルイジ・ディ・ピエロ・アラマンニ)この二人、親戚なのだが、私が読んでイタリアの百科事典と言えるtreccaniではこの辺の区別がしっかりして。
全く、分かりにくい名前なんだから、フルネームで書いてよ!!

というところでようやく背景がはっきりしたので次回こそは、デッラ・パッラのお話。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿