前回、最初の美術商ということでGiovanni Battista della Palla(ジョバンニ・バッティスタ・デッラ・パッラ)について調べていたのだが、この人の悪事(?)を語る上で外せないのが当時のフィレンツェの政治事情、つまりメディチ家のお家事情ということが分かった。
フィレンツェに10年強住んでいたのだし、テレビドラマなどでメディチ家のこと多少は知っていたけど、ここまで詳しく調べたのは初めて。
ということで、今回は自分の備忘録としてここに書いておきます。
「偉大なるロレンツォ」と呼ばれていたLorenzo il Magnifico(ロレンツォ・イル・マニーフィコ)が1492年この世を去った。
1492年は西洋世界にとっては非常に大事な年号。なぜなら、この年の10月コロンブスがアメリカ大陸を発見したのだ。
新世界の幕開けと同時にイタリアは歴史の中心から少しずづはずれて行くのだが、その話は今はおいておく。
フィレンツェでは、ロレンツォの死後、長男のPiero(ピエロ)が後を継ぐのだが、どこの国もなぜか偉大な父の後には凡庸な息子、というパターンがついて回る。
いや、もしかしたら息子は、凡庸なのではなく、ごく普通の能力を持っているのかもしれないが、如何せん親が優秀過ぎるということか?
1494年、シャルル8世率いるフランス軍がイタリアを南下、フィレンツェを目指して侵攻していた。
ピエロは自分を支えている政権の家門たちと相談せず、勝手に交渉、ピサやリヴォルノをはじめとする従属都市や要塞の権利放棄などを放棄することで、進軍を譲歩させようといた。
11月8日、ピサにいたフランス王のところから戻ったピエロは、「家に着くと、砂糖菓子を外に投げてぶどう酒を沢山民衆にふるまった。民衆に気に入られようとしてだった。王ととてもうまくいっている自分を見せつけていた。そして上機嫌な顔をしていた。」(『ランドゥッチの日記』より)。しかし上機嫌はたちまち冷めた。というのも、フィレンツェが苦労の末手に入れた征服地を手放したせいで反対派が勢いづき、メディチ家はフィレンツェを追放され、メディチ銀行も破綻した。
(参考:フィレンツェ、池上俊一、岩波新書)
ちなみにこのピエロ、後に Cesare Borgia(チェーザレ・ボルジア)の軍と行動を共にしていたが、1503年に溺死している。そんなこんなでPiero lo sfortunato(不幸なピエロ)なんて呼ばれた。とほほ。
メディチ家がフィレンツェに戻って来るのは1512年。
ピエロの死後、メディチ家を継いだのは枢機卿だったピエロの弟Giovanni(ジョバンニ)
惣領冬美の漫画「チェーザレ 破壊の創造者」ではこのジョバンニ、非常に頼りないキャラに描かれているのだが、個人的にはもっと強く、悪い人だったと思う。
この時代(今は???)教皇になる人はみんな相当強く悪どい人間だったに違いないと私は思っている。
なぜなら、この人がメディチをフィレンツェに戻した立役者。
1512年、ジョヴァンニを筆頭にしたメディチ家は、ハプスブルク家の援助を得てスペイン軍と共にフィレンツェに復帰した。
メディチはとりあえずスペインと結んだ、というのは覚えておいた方がいいだろう。(ひとり言)
1513年、ジョヴァンニは教皇レオ10世として即位(在位:1513年 - 1521年)。
こうしてメディチ家はフィレンツェとローマ教皇領を支配する門閥となった。
ラファエロが描いたレオ10世の肖像画。
レオ10世と言えば、芸術を愛好し、ローマを中心にルネサンスの文化の最盛期をもたらした。
しかし一方で多額の浪費を続けて教皇庁の財政逼迫を招き、サン・ピエトロ大聖堂建設のためとして大がかりな贖宥状(いわゆる免罪符)の販売を認めたことで、1517年のマルティン・ルターによる宗教改革運動のきっかけを作った。
レオ10世は1521年に死去するが、2年後、従弟のジュリオ枢機卿が教皇クレメンス7世(在位:1523年 - 1534年)として即位する。
(参考:Wikipedia)
とこれくらいのことは知っていたのだが、実は1521年、クレメンス7世が教皇になるまでに2度のCongiura(陰謀)がフィレンツェで起こっていた。
その首謀者がOrti Oricellariに参加していた人たちだった。
Orti OrcellariはBernardo Ruccellai(ベルナルド・ルチェライ)が創設したということは既に言ったが、この人は偉大なるロレンツォの姉を妻にもらっていたこともあり、完全な親メディチ派だった。
Orti Oricellari(現Palazzo Venturi Ginori)にあるベルナルド・ルチェライのメダル。
しかし、Orti Oricellariで開催されていたアカデミーも、ベルナルドの息子(Palla,Giovanni)の代になると、少しずつ思想に変化が出て来た。
Zanodi Buondelmonti, Luigi Alamanni, Anton Francesco degli Albizi, Giovanni Battista della Palla, Alessandro de'Pazziといった若者たちは自由を求め、反メディチの思いを深めていく。
1513年、1度目の謀反を決行。
首謀者と思われたPietro Paolo BoscoliとAgostino Capponiは死罪となった。
この謀反は首謀者の名前を取ってボスコリ事件と呼ばれている。
他にも数人が逮捕され、その中にはNiccolò Machiavelli(ニッコロ・マキャヴェリ)もいた。マキャヴェリは後にジョヴァンニ・デ・メディチが教皇に選出され大赦で釈放された。
しかし、これで懲りないのがすごい。謀反は再び起こったのである。
1521年、新たなOrti Orcellariの反メディチのメンバー数人が、今度は当時枢機卿で、フィレンツェを治めていたGiulio de'Medici(ジュリオ・デ・メディチ)暗殺を計画する。
ちなみにこのジュリオは、かの有名なCongiura dei Pazzi(パッツィ家の陰謀)で暗殺された、偉大なるロレンツォの弟、Giuliano de'Medici(ジュリア―ノ・デ・メディチ)の庶子。
GiulianoだのGiulioだの…この辺りが今回整理しようと思った原因でもあったのです。
首謀者はZanobi Buondelmonti, Jacopo da Diacceto, Luigi di Tommaso Almanni。
Buondelmontiのみフランスに逃亡することが出来、他の2人は処刑された。(1522年)
フランスに逃亡した、というところは覚えておこう。(ひとり言)
1523年11月ジュリア―ノはClemente VII(クレメンス7世)として教皇に選出され、Orti Orcellariのアカデミーは完全に閉鎖された。
この邸宅は、50年後の1573年Francesco I de'Medici(フランチェスコ1世・デ・メディチ)の愛人Bianca Cappello(ビアンカ・カッペロ)がこの屋敷を買取り、再び歴史の表舞台へ登場することになる。
次回こそ、美術商としてのDella Pallaについて、に進みたいと思います。
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