今回京都に行ったのは、単にこれが見たかったから。
最近でこそ、日本美術の方にもかなりアンテナ張るようになったので、2017年東京国立博物館で開催された特別展「仁和寺と御室派のみほとけ」にこちらを再現したコーナーが有ったこと、知りませんでした。
(こちらの東京国立博物館のブログに非常に詳しく説明がありました。)
もしや、この特別展見たのに忘れてる?と思ったらこの時期は日本にいませんでした。
私がこの壁画のことを知ったのは8月17日の「新 美の巨人たち」を見たから。
これは実際見てみたい!!
そして是非これも見たかった。
電車の天井からぶら下がる無数の手。
千手観音の手なのです。立体的に見えますが、実際は特殊な印刷のようです。
北野白梅町から嵐山を結ぶ通称「嵐電」で走っている「観音電車」(写真は嵐電「観音電車」のサイトより拝借)
11月24日まで普通に走っているんですって。
これに遭遇したかった…でも私が行った日は、恥ずかしながら駅員さんに確認までしたら、なんと車両点検で走ってなかったんです。残念!
仁和寺到着。
散策するだけなら無料で入れますが、今回は観音堂に加えて御殿、名宝展も含むフルコースの拝観、〆て1,800円でした。
寺院巡りって結構お金かかるよねぇ…と思うのですが、イタリア辺りも昨今同じ傾向ですから仕方がない。
これも文化財を守るため!と割り切るしかありませぬ。
さて、お目当ての観音堂は、御室桜が植わっているエリアを越えたところに有りました。
これは2018年に桜を見るために行った時の写真。
普段はソメイヨシノが終わってから開花する御室桜がほぼ同時期で、すごく綺麗でした。
中の観音様と繋がっている縄が棒にくくりつけられて…
この棒は「角塔婆」というんですね。
昔長野の「善光寺」の7年に一度の御開帳の時にも見ました。あれは「回向柱」というそうですが、こちらとは違うのでしょうか?
なんでも、一般的には「角塔婆」と言い、「回向柱」は善光寺特有らしいですね。
この角塔婆は、お墓の後ろに故人や先祖を供養するために立てらる長く平たい板、あれと同じ塔婆の一種で、五重塔の簡略形なのだとか。
この角塔婆には、秘仏として扉を閉めて祀られている仏様の指に結ばれた紐がつながれています。
そして角塔婆から紐が垂れ下がっている場合、この紐に触れることで、仏様の手と直接縁が結ばれるという意味があります。
ここでは更に唱えるべき真言も記されていました。
そばにいたおじさんが「3回唱えた方がいい」と言っていましたが、どうなんでしょう?
仁和寺は仁和2年(886年)第58代光孝天皇によって「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願されたことに始まります。
しかし翌年、光孝天皇は崩御され、第59代宇多天皇が引き継がれ、仁和4年(888年)に完成。
寺号は元号から取られ、仁和寺となりました。
宇多天皇は寛平9年(897年)に譲位、後に出家し仁和寺第1世 宇多(寛平)法皇となります。
以降、皇室出身者が仁和寺の代々住職(門跡)を務め、平安〜鎌倉期には門跡寺院として最高の格式を保ちました。
「御室」という地名は、「室」というのは「僧の住居」を意味していますが、住居は住居でも偉い方が住まう場所なので「御」を付けたから、なのだそうです。
「観音堂」は仁和寺創建の約40年後、928年に建立されたと伝えられています。その後何度も火災などで焼失し、現在の建物は1640年頃に再建されたもので、(重要文化財)劣化の激しかった建物に2012年より半解体工事(平成大修理)を施しいました。普段は僧侶の修行の場で、一般に公開されるのはなんと初めて!!そして最後かも。
370年に渡って閉ざされていた扉が、今年だけ開かれているのであります。
いよいよ中に
堂内は撮影禁止のため写真は各所より拝借しています。
写真:産経新聞
内陣須弥壇は、ご本尊の千手観音を中心に不動明王、降三世明王、二十八部衆、風神雷神像がすらっと。
そして背後には補陀洛浄土図、三十三応現身像が描かれています。
実際はもう少し暗いです。
ご本尊の千手観音像は、「千手」といっても、手が1000本あるわけではありません。
1本の手で25人を救うことができるので、40本しかありません。
どんな人でも観音様は救ってくれるそうです。
初めて知ったのは、この千手観音を二十八部衆と共にお守りしている風神雷神なのですが、彼らの手足の指の数、何本だか知ってます?
実は風神の手の指は4本、雷神は3本しかありません。
足の指はお二方とも2本。
風神の4本の指は東西南北を守り、雷神の3本の指は過去・現在・未来を守ると言われ2本の足の指は天地を意味するそうです。彼らはもともと鬼だったので、指の数がこうなっていますが、一番有名な俵屋宗達は、彼らを人間として描いたため、宗達の風神雷神は私たちと同じく、手足5本指なんだそうです。
写真:Wikipedia
浅草の雷門の風神雷神も4本、3本スタイルだそうですよ。三十三間堂の彼らも4本3本でした。
仏像も気になりますが、やはり壁画ですね。
写真:新美の巨人たち
今までヨーロッパ各地で様々な壁画を見て来ましたが、それらに引けを取らない素晴らしい作品です。
勉強不足で知りませんが、こういう壁画が堂内に残っているお寺は他にもあるのでしょうか?
環境を考えれば、保存状態は非常に良いと言えるでしょう。
それは限られた人しか入堂せず、扉が閉められていたからでしょうか?
須弥壇を取り囲むように、コの字型に全壁面に描かれてます。
須弥壇背面壁には六観音像(上段)、三十三応現身像(下段)
写真:産経新聞
須弥壇柱には四摂菩薩及び八供養菩薩(金剛界)
上段には三十三観音像が描かれています。
写真:産経新聞
「法華経」の第25「観世音菩薩普門品」(『観音経』)の内容に従って、33通りに変身した観音様があらゆる災難から人を救済するシーンが描かれています。
そして下段には、六道という、人が死後、おのおのの生前の行いにより落とされる6つの世界が描かれており(地獄道・餓鬼道・畜生道・阿修羅道・人間道・天上道)、その上には、それぞれの道に堕ちた人の救済を担当する観音菩薩が描かれています。
仏教に疎い普通の私たちには少々難しいのですが、千手観音を中心として、このお堂自体が「観音曼荼羅」というべく、観音の世界を全て表現しているわけです。
この辺りは西洋とまるきり同じなんだなぁと思う反面、西洋の教会に描かれた聖書は一般信者の布教の目的を持つものであり、ここは寺に務める専門家だけが見られる場所という違いはどう解釈するべきなのか迷うところです。
ただ、日本にもこういうものが存在してたんだ、と知れただけでも良かったです。
現場で売られていた500円のガイドブックを購入しましたが、写真は非常にきれいだったのですが、内容には全然専門的なことがなくちょっと残念でした。まぁ500円ですからね。
描いたのは無名の絵師、木村徳応です。
東京国立博物館のブログによると
”生年は文禄2年(1593)と考えられており、少なくとも75歳ごろまで活動していたことが知られています。当時の記録にも「仏画をよくし、諸宗の祖師像をよく写す。諸山に多く蔵せり。仏画師中の健筆たり」と評されており、江戸時代前期、京都を中心に、宗派を問わずさまざまな寺院で活躍していました。
徳応は、京都の黄檗宗万福寺に所蔵される涅槃図や寺を開いた隠元禅師の肖像画、万福寺にほど近い浄土宗平等院の十一面観音厨子扉絵など、仏画や肖像画を多く描いていたことが知られています。仁和寺の観音堂の大画面壁画は、徳応50代前半ごろの大作です。現在知られるなかでは徳応の画業のなかでも特筆すべき大作ですが、観音堂が非公開ということもあり、これまであまり知られていませんでした。”(引用)
とにかく実物を見て下さい。何を言っても、何を見ても実物を見ることに勝ることはありません!!
ちなみにお寺の方の簡単な説明が有ったんです。
非常にお話がうまく感心。しかし既に結構忘れてしまったことが多い気が。
お堂の話ではなく、ちょっと面白かった話を紹介しておきます。
今はカメラで世界的に有名な「キャノン」の社名が、「観音」から来ているというお話。
創業者が観音様を非常に信仰していたそうです。1934年カメラの試作品が出来た時に付けられたロゴがこれ。
写真:https://global.canon/ja/corporate/logo/
「カンノン」では恐れ多いし、外国人には発音しずらいなどの理由で今のキャノンになったそうです。
このキャノンの話、私が行ったその週末に放映予定だった「世界遺産」が仁和寺の特集で、その宣伝だったというオチがついえていました。もちろん見ましたけど。
おまけにもう1社仁和寺の有る御室に関係の深い企業があるのですが、お坊さんが今朝修学旅行生に案内をしたときはみんなきょとんとしていて全然知っている人がいなかったとがっかりしていたのですが、体温計で有名な「オムロン」が御室が生んだ世界的な企業なのだそうです。(参考:オムロン)
仁和寺
観音堂修復落慶 秋季特別内拝 9月7日〜11月24日
良い話ありがとうございました。
マツダ自動車ですが、ペルシャの アフラ・マヅダからきてるんだそうです。
そういや、綴りが、MAZDAですね。
コメントありがとうございます。
マツダ自動車の件、知りませんでした。名前の由来は奥深いですね。