先日Pasqua(復活祭)の時、ブラジルのサンパウロ美術館蔵のラファエロの「Resurrezione(キリスト復活)」を載せたところ、むろさんから非常に参考になるコメントを頂いた。
なんとこれ、1982年に来日していたそうだ。
う~ん残念ながら当時はまだRaffaello(ラファエロ)の存在すら認識していなかった…
今年の没後500年のタイミングならどこかで見られてかもしれないが、ブラジルに行くことは多分ないだろうし…ということで、一生実物をこの目で見ることはないと思う。
個人的にも「これがラファエロ?」と思っていたのだが、むろさんのコメントにはPerugino(ペルジーノ)との関連について言及されていた。
うちにはラファエロ関係の資料がないし、図書館は休館中なので実際資料に当たることは出来ないのだが、この作品については後日改めて触れたい。
で、今日はというと、ラファエロとペルジーノ…
はて?この二人の”共作”という作品が有ったな、と。頭の中にぼんやり浮かんで来たので、これを機に調べてみたのがPerugia(ペルージャ)のCappella di San Severo(サン・セヴェーロ礼拝堂)
一度行ったけど、写真有るかなぁ…と思っていたら、なんとかこれ1枚発見。
2005年12月の様子。さすがにこの工事は終わっているだろう。
11世紀の初めにbeato Manno da Perugia(福者のマンノ・ダ・ペルージャ、camaldorese(カマルドリ修道会)を創設したsan Romualdo(聖ロムアルドゥス)の弟子、がSan Severo(サン・セヴェロ)、Ravenna(ラヴェンナ)の初代司教に捧げ、創建したのが始まり。
15世紀、カマルドリ会の修道士たちによって教会は拡張され、いくつかの主祭壇や礼拝堂がDionisio Vanucci da Cortona司教によって奉納され、18世紀中頃にはバロックスタイルになった。
サン・セヴェロ礼拝堂は現在フレスコが残る1つの部屋、という状態だが、元は14世紀の教会の左身廊の礼拝堂の1つだった。
教会は元の姿をとどめず、辛うじてこのフレスコ画が残ったことは非常にラッキーだった。
そのフレスコ画というのがこちら。
実は今回きちんと調べるまでこれをラファエロとペルジーノの共作だと思い込んでいたのだが、実は正確には共作ではなかった。
ラファエロが描いたのはこちら。
上部リュネットの部分で、下部がペルジーノ。
2人で一枚の絵と考えれば共作になるが、あくまでも別々だった。まぁ、それはそれで珍しいけど。
更に勘違い。
これ、上部のラファエロの方が描いたのは先だった。
ラファエロとペルジーノと言えば、「師弟関係にあった」、というのが一般的な見解。
でもこれってVasari(ヴァザーリ)の刷り込みで、実際現在の私たちが思うような、先生と生徒というような、教え、教えられの関係ではなく、「盗んで覚えろ」みたいな師弟関係だったようだ。
ここで、改めてそのヴァザーリの「Le Vite delle più eccellenti pittori, scultori, e architettori (画家・彫刻家・建築家列伝)」を見てみた。
幸い、ラファエロに関しては日本語訳がある。
それを読んで、再び衝撃!
私、今までラファエロって父のGiovanni Santi(ジョバンニ・サンティ)が亡くなってから、ペルジーノの工房に入ったんだと思い込んでいたのだが、実はそうではなかったのだ。
父ジョバンニは、自分が教えることがなくなったと分かると、Urbino(ウルビーノ)から一番近いペルージャで既に名声を馳せていたペルジーノの工房へ、息子を預けることにした、とあるではないか。
ラファエロは、ペルジーノの工房に行った時には既にそのたぐいまれなる才能の片りんを見せていた、ということだ。
いやいや、思い込みって恐ろしい。
ただ天才ラファエロは、新しい師からもあっと言う間に技術を吸収してしまう。
ルネサンスの三代巨匠を比べると、ラファエロは他の二人とは全くことなっていた。
孤高の天才で人づきあいが下手だった(ダ・ヴィンチはそれほどでもないかな?)2人とは違って、ラファエロは愛されキャラ。
ヴァザーリ曰く「いかなる場合でも、いかなる人に対しても、気持ちがよく、好意を与えるものであった。」というし。(引用:ルネサンス画人伝、平川祐弘・田中英道ほか訳注、白水社)
更に他の二人と異なるのは、「ラファエロは日本人」のようだった。
と言ったのは私は親愛なる恩師だが、生粋のイタリア人のラファエロがなぜ日本人?その心は?
ラファエロは、あまたのマエストロの特徴を盗み(悪い意味ではなく)、それを我が物とし、更に改良しより良いものとし自分のものとしていた。それはかつての私たち日本人のようだった。
かつて日本人は西洋の様々なものをコピーし、それを研究し、最良のものを作り出し自分のものとしてきた。
まさにラファエロは日本人で、日本人はラファエロのようだった。
さて、話は礼拝堂に戻るが、このフレスコ画に関する記録はちゃんとヴァザーリも残している。
「サン・セヴェーロ寺というカマルドリ派の小さな僧院の聖母礼拝堂では、フレスコで栄光のキリストと数人の天使に囲まれた父なる神と、6人の聖人の座像を描いた。すなわち左右に3人ずつ聖ヴェネディクトゥス、聖ロムアルド、聖ラウレンティウス、聖ヒエロニムス、聖マウロ、聖プラーチドを配した。この作品はフレスコ画で描かれたものとしては当時たいへん美しいとみなされたものだが、この作品にラファエロは自分の名前をたいへんはっきりとした文字で書きこんだ。」(引用:ルネサンス画人伝)
1505年、既にペルージャとフィレンツェを行き来していたラファエロにペルージャの有力な家からの依頼が来る。ラファエロは22歳だった。
1508年、ラファエロは更に重要な人物からの依頼を受ける、教皇Giulio II(ユリウス2世)だ。
ローマに呼ばれたラファエロはペルージャだけでなく、フィレンツェも捨て、いよいよ頂点に登りつめたのである。
カマルドリ会の修道士たちは、ラファエロが戻って来るのをいつまでも待っていた。
しかしほどなく届いたのは、ラファエロ客死の知らせ、1520年、丁度500年前のことだ。
こうしてラファエロがペルージャに戻らないことを知った修道士たちは、空白だった下の部分を、彼の昔の師匠で、既にフィレンツェを去り、ペルージャに戻っていたペルジーノに頼むことにした。
1521年、ペルジーノは既に70歳を過ぎていた。
描いたのは、6聖人。Girolamo(ヒエロニムス), Giovanni Evangelista(福音史家のヨハネ), Gregorio Magno(グレゴリウス1世), Bonifacio(ボニファティウス), Marta(マルタ)。真ん中のくぼみには、テラコッタで作られた聖母子像が安置された。
これらの記録もヴァザーリのペルジーノのところに記憶が残っていることから、両作品の作者は100%間違いない。
老いてなお、スタイルを変えなかったペルジーノは、才能あふれた弟子の作品を見ながら、どんな思いで自分の絵を描いたのだろうか?
天才の早すぎる死を悲しんだだろうか?
それともその才能に嫉妬しただろうか?
ある意味、非常に残酷な依頼ではなかったのだろうか…
こんな色々なエピソードを知った後、改めて本物を見てみたい。
実際現地に行けるのは、一体いつのことになるのか。
みなさん、家にいましょうね。
Piazza Raffaello 06122 Perugia
火曜日ー日曜日、10.00-18.00
入場料:€ 3,00
参考・写真:Wikipedia
https://www.finestresullarte.info/
Perugino Itinerari in Umbria, Elvio Lunghi, Silvana Editoriale
実は私にはこの絵に関しては苦い思い出があります。ペルージアへ行ったのは1990年頃で、アッシジ、シエナ、オルヴィエート、スポレートなどと合わせて見て回りました。ペルージアではカンビオとウンブリア国立美術館その他を見てからサン・セヴェロへ行ったのですが、既に閉まっていました。午後1時か2時だったと思います。当時は教会も美術館もイタリアでは1時頃に閉まるのが常識だったようで、うっかりしていました。この旅行ではスポレートのフィリッポ・リッピのフレスコ画その他(オルヴィエートのルカ・シニョレリ、シエナのマエスタ2枚など)も修復中で見られず、スポレートだけは諦めきれず数年後に修復が終わってから再度訪問しましたが、それ以降ペルージア他の町の再訪問はまだ実現していなくて、サン・セヴェロの絵はずっと気になっています。いつか必ず行くという気持ちは持ち続けるつもりです。
そのラファエロとペルジーノの関係ですが、今回のサンパウロの絵のことで私も改めていろいろ調べてみました。詳しくは書きませんが、ピントリッキオも含めた3人の関係はなかなか複雑で興味深いものがあるようです。(特に参考になったのは2007年新宿ペルジーノ展図録に収録されている東大小佐野先生の「ラファエッロの修行時代―ペルジーノとの出会いとその残響」です。コロナ騒動が落ち着いて図書館が再開されたらご覧になることをお勧めします。)なお、父のジョヴァンニ・サンティが亡くなった時にラファエロは11歳、このような子供に父はどれだけの教育ができたのか、そしてチッタ・ディ・カステッロの絵(ブレシャの天使断片他)の契約書記載文には17歳のラファエロに「親方」の肩書きということで、この間にペルジーノの下に行ったということ(ヴァザーリの記述の「父の生前にペルジーノ工房へ入った」というのは事実とは違うらしい。生前なら11歳よりも前になる!)ですが、上記の小佐野論文などから見えてくるのは、「『盗んで覚えろ』みたいな師弟関係」というよりも、「素描に特に優れた若い画家を雇った」ということのように思えます。(シエナ・ピッコロミーニ図書館のピントリッキオのフレスコ画に若きラファエロが素描を提供したこともこの「素描家ラファエロ」の才能を示す一つの事例と言えるようです。)
なお、上記本文中の(サン・セヴェロの絵について)「ペルジーノは、才能あふれた弟子の作品を見ながら、どんな思いで自分の絵を描いたのだろうか?」について、私の最近の考えを述べます。これとほぼ同じご意見を昔誰かの本で読んだことがあります(弟子の絵の下部に師匠が絵を追加する時の気持ちはどんなものか?)。その時は深くは考えませんでしたが、何故かその文章は強く印象に残っていました。そして今思っているのは、「現代人が思うほど気にしていなかったのではないか」ということです。石鍋先生がカラヴァッジョについて書いた本の中に「ローマの聖マタイの連作、聖パウロの回心、ルーブルの聖母の死など、注文者から受け取りを拒否された作品の再制作をすることになった時のカラヴァッジョの気持ちを考えると、現代の芸術家のようなプライドを傷つけられた、ということではなく、最初の絵は誰かが買ってくれて、再制作した方は注文者が引き取ってくれるので、収入が2倍になって嬉しいと思ったかもしれない」「ルネサンスやバロックの芸術家のことを考える時には、現代の常識で考えていたのでは真実を理解できないことがある。カラヴァッジョについての謎はその時代そのものについての謎でもある」ということが書かれていました。これを読んでから私はこのことを肝に銘じています。ペルジーノも案外仕事が増えて喜んでいたかもしれないし、本人というよりも工房が制作したのならば、私たちが思っていることなど全く意識していなかったかもしれません。なにしろペルジーノは「芸術家」である3巨匠とは違い、15世紀に生きた「職人画家・工房経営者」ですから。(工房とお金の話しには面白い話題がいろいろあります。ルーベンスは絵の画面全体のうち、ルーベンス本人の筆と工房の筆の比率で絵の値段が変わったということを手紙に書いているし、日本でも運慶・快慶などの工房で仏像の体の中に仏師が何か祈願する文章を記入すると、その分の祈願のための代金―あの世の仏様と交信するための権利料―が制作代金から差し引かれるといった話しなど。これらを知ることは美術作品制作の本質、実情を理解するために必要な情報と思っています。)
早速お読み頂き、また今回も非常に為になる情報を丁寧にご指南頂きありがとうございます。
2007年(もうそんなに経つんですね)のペルジーノ展のカタログは、確か手許に有るので、来週末に探してみます。
私がペルージャに滞在していた約1年間でも、なかなか開いている時がなかったです。こういう場所は、大抵ボランティアが管理していて、観光客が多い時しか定期的に開けない事が多いです。ここ数年は、管理者不足からなかなか見られない美術品が増えています。例えばフィレンツェに有るペルジーノの最後の晩餐が良い例で、ここ数年入口は閉ざされたままです。
フィレンツェSant' Onofrio(Cenacolo di Foligno)の最後の晩餐、1995年頃に見に行ったのですが、今は見られなくなっているのですか。人手不足による問題には私も悩まされてきました。ナポリのカポディモンテでは初期ルネサンスの部屋が開くのを待っていたら、上の方の階にあるカラヴァッジョのある部屋が閉まってしまい、キリストの笞打ちを見逃してしまいました。また、フィレンツェのバルジェロではベルニーニの愛人コスタンツァの肖像が見当たらないので、監視員に場所を聞いたら、上の階の鍵をわざわざ開けて見せてくれました(これはラッキーな出来事)。Sマリア・デル・フィオーレの裏の方のヴィズドミニ教会はいつ行っても閉まっていて、未だにポントルモの絵が見られません。chiuso per restauroの貼り紙に出会うことも多いし、イタリアで見たい作品を見るには、気長に何度も行かないとダメだと思っています。なお、Sant' Onofrioの最後の晩餐ですが、リッツォーリ集英社版ラファエロとRizzoli伊語版ペルジーノの両方のカタログ頁に掲載されていますが、ラファエロの方の記載では「近代の批評家は大体一致してペルジーノ作とする」としています。
そのリッツォーリの件、復活祭の記事のコメントで <やはりRizzoliなんですね とありますが、これについて一言。
私は西洋美術研究にはまずカタログレゾネを見ることが大切だと思っています。対象の画家にはどんな作品があるのか、調べようとしている作品は画家の作品中でどんな位置づけになるのかを知るということです。でも本格的なカタログレゾネは手に入りにくい場合が多いし、あっても高価なので、その場合は簡易版としてRizzoliのClassici Dell'Arteのシリーズ(L'Opera Completa~)を活用するようにしています。日本語の集英社版があればそれを使いますが、有名画家しか扱っていないので、英語版(PenguinかAbrams)が手に入ればそれを、なければ伊語版または仏語版(Flammarion)を買います。ただし、出版が少し古いのでカラヴァッジョのように研究の進歩が早い場合は現在ではほとんど役に立ちません。また、カラヴァッジョでは英語版と伊・仏語版は著者も内容も違う別の本(図版は同じ)なのでこれも注意が必要です。でも、15~16世紀のイタリア画家についてはこのシリーズで十分なことも多いので、イタリアに行った時にはなるべく探すようにしています。
今回も色々情報をありがとうございます。(お返事が遅くなり申し訳ありません。)
昨日、今日と「ペルジーノ展」のカタログを探したのですが、見つかりませんでした。同時期に開催していたダ・ヴィンチの受胎告知のカタログは有ったので、どうやら買わなかったみたいなので、早速ネットで購入してしまいました。
イタリア関係の本はかなり読んでいるつもりでしたが、小宮豊隆著「イタリー日記」は知りませんでした。こちらは是非図書館が再開したら読みたいと思います。
ヴィズドミニ教会は、ほぼ毎日大学に通うので通っていましたが、ほとんど開いていませんでした。数回開いていて中に入りましたが、薄暗かったせいか、あそこにはなかったのか、PontormoのPala Pucciは見つけられず、結局2014年のPontormo e Rosso Fiorentinoという特別展で見ました。
カポディモンテは私も同様の体験をしていて、2回行ってようやく両方見ることが出来たという感じで、イタリアでは良くあることですね。ただイタリア人は普段見せてくれないものなども、簡単に見せてくれたりするところは良いですよね。
イタリア滞在時は、気になる画家がいると、図書館に行けば大抵1冊くらいのモノグラフがあるので、Rizzoliは二の次になっていました。今までは、「気になれば行った時に買って来ればいいや」、と軽く考えていたのですが、まさかイタリアに行くことが出来なくなる日が来るとは思ってもみなかったもので…
前回もCarlo Crivelliが欲しくて探したのですが、中々見つからず、こんなことなら買っておけば良かったです。骨董市で1冊3€くらいのこともあったので。
とりあえず落ち着いたら図書館で翻訳されているものは見てみようと思いますが、今は家に眠っている様々な本を少しずつ開いていこうと思います。
なお、見られなかった作品や一生その場所へ行かないだろうと思っていた作品が思わぬ時に来日することもあります。上記のユディト以外でも、先日書いたサンパウロのラファエロ作キリスト復活、フィレンツェのサン・ジョルジョ・アラ・コスタのジオット作聖母子(ペルジーノ展の翌年に同じ新宿損保ジャパン)、コルシカ島にあるボッティチェリ初期の聖母子(福島県いわき市でのナポレオン展)などが近年経験した例です。
ペルジーノ展カタログをダブってお買いになった件、私が小佐野先生の論文を勧めたためにそんなことになってしまったようで申し訳けありません。持っていることを忘れて、その本をまた買ってしまったということは私にもよくあります。そういう時は誰か興味のありそうな知り合いに差し上げるようにしています。
そのペルジーノ展のカタログ、今回のサンパウロやサンセヴェロの絵のこともあり、残り2つの掲載論文も読み直してみました。ペルジーノやその他の画家がヴェロッキョ工房のキリスト洗礼に関与していた可能性があるというウフィッツィ館長の論文は大変興味深く読みました。この絵については芸術新潮2019年12月号に最近の科学的調査(特にフォールスカラー=偽赤外線画像解析)による知見が掲載されていたので、余計にそう感じました。またこの2つの論文では、引用する作品の図版が掲載されていないものも多いのですが、その場合に参照するカタログレゾネとして1冊では不足ということを今回は実感しました。上で書いたRizzoliのPeruginoの他にVittoria Garibaldi著Perugino Catalogo completoという本も持っているのですが、この2冊を使って、やっと上記2つの論文引用作品が全て確認できました。このことから得られたのはカタログレゾネによって採用される作品にはかなり違いがある、そして真贋判定などの評価も本によってかなり違うので、できるだけ多くのカタログレゾネを参照した方がいいということです。
RizzoliのCarlo Crivelliは1~2年前に手に入れました。インターネットで奈良の古書店から1000円か2000円だったと思います。クリヴェッリ関係の本についてもいろいろと(ライトボーンの本や上原真依の雑誌論文など)話題がありますが、長くなるので省略します。ご興味があるなら後日また。
今はあまり外出できないので、私も家の片づけと資料整理をしていますが、つい先日出てきたコピーの中に芸術新潮2004年6月号の記事でペルジーノの大回顧展の紹介がありました。2007年新宿ペルジーノ展の基になったウンブリア国立美術館の展覧会です。この記事タイトルに「強欲画家ペルジーノの優美」とあり、また本文には「商魂たくましいペルジーノは云々」という記載もあり、こんなものを読むとますますサンセヴェロの絵でラファエロの下に聖人を追加したことなんて何とも思わなかっただろうと思ってしまいました。(この芸術新潮の表現をどこまで信じていいかという気もしますが)
お返事遅くなって申し訳ありません。ここ数日古い写真の整理に追われていました。
Rizzoliが日本で手に入るとは思いませんでした。これからは私も注意しておきたいと思います。
本の件は、気になさらないで下さい。よくあることですので。またこういう機会でもないと、買ったままで放置してしまうし、一通り持っているカタログのリストができたので良かったです。
今はたっぷり時間が有りますので、この写真の整理が終わったら、じっくり読もうと思っています。
うちにもVittoria Garibaldiの本は2冊あります。一冊はGiunti社の月刊誌Art Dossierの付録です。この雑誌はイタリア人専門家も勧める、薄いながらも非常に良く出来たもので、私も気になる画家の物はまずこれを買っていました。もう一冊はSilvanaという出版社のもので、かなり厚い本です。これも本棚の肥やしになっているので、見てみないとと思っています。
2004年のペルジーノ展は、私がイタリアで初めて見た特別展でした。
アムステルダムのマグダラのマリアは、私の一番好きな作品です。美術館を訪れた時は、この作品の前で足を止めている人は全くいなかったので、心行くまで作品を眺めることができました。魂が奪われるくらいの禍々しい美しさでした。
私も帰って来てから「あれも有ったのか。」とか「あれがなかった」と思うことは多いです。見逃したものが有るということは、またその地を訪れるチャンスかな、とポジティブの考えています。
イタリアでの修復の長さも問題ですが、「修復中」でそのまま二度と見ることが出来なくなる作品も多いです。修復がうまく行かず、というパターンも無きにしもあらずですが、多くが費用の関係だと聞いています。修復家の知り合いは、仕事は山のように有るのに、費用がないと嘆いていました。
ただ、現地で見られずとも、来日する可能性が高いのも、日本に住むメリットかと思います。
上原真依氏は昨年の「松方コレクション展」のカタログで知り、国立国会図書館より論文を取り寄せました。ただそれも取り寄せただけで、さらっと読んで放置しています。
緊急事態制限の解除が延長されそうですが、幸か不幸か外出自粛中にやることが山ほどあります。
Vittoria Garibaldi著Giunti社Art DossierシリーズのPeruginoは私も持っています。薄い本ですが、なかなか役に立つものですね。特にCerquetoの聖セバスティアヌス壁画断片やAsissiのSMデリ・アンジェリの磔刑図(修復後)のカラー図版は他の本には出ていなかったので、貴重なものだと思っています。(新宿ペルジーノ展図録掲載の論文の一つがこのガリバルディ氏執筆であり、この2つの絵についても高く評価しているので、このシリーズにカラー図版を載せるのは当然ですね。)このシリーズでは他にギルランダイオ、フィリッポ・リッピ、フィリッピーノ・リッピの3冊しか持っていませんが、これらには(自分にとって)目新しい図版は載っていませんでした。なお、裏表紙のリストを見たらNo.107がZampetti著!!のCrivelliとあったので、これは俄然欲しくなりました。
そのクリヴェッリですが、私が把握している上原真依論文は次の4件です。
インターネットで読めるもの
① 大阪大学待兼山論叢47号
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/54415/
上の方にあるファイルと書かれたところの「mra_047_001A」をクリックすると論文が読めます。但し著作権の関係か図版1~10は掲載されていないので、これについては大学図書館などで紙媒体を見る必要があります。
② 愛媛大学教育学部紀要vol.60
https://opac.lib.ehime-u.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=v3search_view_main_init&block_id=6311&direct_target=catdbl&direct_key=%2554%2544%2530%2530%2530%2530%2533%2530%2539%2535&lang=japanese#catdbl-TD00003095
内容を見る/Download/Viewと書かれたところをクリックすると論文が読めます。
インターネットで公開されていないもの
③ 鹿島美術研究年報29号別冊2012.11(カメリーノ由来の祭壇画)
④ 美術史168号2010.3(カステル・トロジーノの祭壇画)
①③④は流通、売却、再構成といった内容のもの。②は今上野西美に来ているLNGの受胎告知、④は西美で所蔵する司教聖人アウグスティヌスに関連するものです。なお、この④の発表直後のシカゴ磔刑図調査(④の続編)とファブリアーノ祭壇画の論文が「民族藝術」27号2011.と30号2013.に掲載されているとのことですが、まだ確認できていません(下記URL)。
http://www.let.osaka-u.ac.jp/ovc/reports/personal_22_uehara_repo.pdf
http://www.let.osaka-u.ac.jp/ovc/reports/personal_24_uehara_repo.pdf
日本でそんなにRizzoliを扱っていたとは驚きでした。これから注意してみてみようと思っています。
上原真依論文、ネットで読めるものも有ったんですね。全て国会図書館から取り寄せて、結構払ってしまいました。
こんな風に色々とお話が聞けること、大変光栄に思います。これからも色々ご教示いただければ幸いです。
そして、先ほどCerquetoの聖セバスティアヌスの絵に関する記事を読み、嬉しくなってしまいました。実はこの2、3日、このペルジーノの絵の銘文のことが気になっていて質問しようかと思っていたのですが、あまりに細かいことなのでためらっていました。連続投稿になりますが、そちらの記事の方に書かせていただきます。このサン・セヴェロの記事に対するコメントは長くなり過ぎたのでこれで終わりにします。