イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

Incoronazione della Vergine e Santi(聖母戴冠と聖人たち)Botticelli(ボッティチェッリ)-Firenze

2020年10月28日 16時58分41秒 | イタリア・美術

Incoronazione della Vergine e Santi(聖母戴冠と聖人たち)

1500年から15008年頃に描かれたBotticelli(ボッティチェッリ)とその工房の作品。
2016年の特別展が開かれたVilla La Quieteに展示された7点のうち、これ以外は全て廃止になった修道院からヴィラ・ラ・クイエーテに集められた作品だったのに対して、これだけは違う。
実はこの作品はこの場所と全くゆかりがない。

Vasari(ヴァザーリ)曰く、この作品はMontevarchi(モンテヴァルキ)のSan Francesco教会の主祭壇の為に描かれた板絵であった。
その後1992年にconvento di San Ludovico(サン・ルドヴィコ修道院)から発見された記録のおかげで、1596年同修道院の教会の中の主祭壇としてfamiglia Mini(ミニ家)が80ducati(ドゥカーティ)で購入し、移されたことがわかっている。(現 Sant’Andrea a Cennano).
ヴィラがある場所からモンテヴァルキまではおよそ70キロの距離。

なぜヴィラに移されたのか?
それは謎。
現在に至るまで、全く資料が見つかっていないので、なぜこの場所にこの作品が戻されたのか分からないし、ボッティチェリの真作である証拠もない。

1810年まで、この祭壇画はサン・ルドヴィコ修道院にあった。
しかしナポレオンによってフィレンツェのSan Marco(サン・マルコ)広場に移された作品は、San Jacopo di Ripoli(サン・ヤコポ・ディ・リーポリ)教会から接収された作品と一緒に皇帝のコレクションに加えられるため、パリに送られた。
その後、なぜか1823年Montalve di San Jacopo di Ripoli a La Quieteつまりヴィラ・ラ・クイエーテに返還(?)された。
素人意見だが、元の場所がMontevarchiでヴィラの有る場所はMontalveで、名前間違えた?
何てことはないだろうなぁ…
その後この作品が記録に登場するのは1842年。
あるフィレンツェのガイドブックに、この祭壇画がchiesa di San Jacopo di Ripoli(サン・ヤコポ・ディ・リーポリ教会)の左の祭壇に収まっているとの記述が有る。
1991年、修復中、この作品が新しい祭壇画に合わせて脇が切断されていたことが判明した。
これは新しい祭壇に合わせて切断したのだろう。

実は昨年、オリジナルの場所に作品が一時的に返却され、特別展が行われた。
というのも1996年から、この作品を元の場所へ返して欲しいという動きがある。
まぁ、当然と言えば当然だ。
穿った見方だが、小さな街であればあるほど、”人寄せパンダ”が必要だから、ということだろう。
参考:https://www.lanazione.it/arezzo/cultura/torna-il-botticelli-perduto-emozione-a-montevarchi-l-opera-trafugata-quasi-due-secoli-fa-1.4387007

この祭壇画が初めて一般公開されたのは1992年、Palazzo Strozzi(ストロッツィ宮)で行われた1400年代末期のフィレンツェの画家にスポットを当てた展覧会だった。

現在、美術史家たちは満場一致でこの作品はボッティチェッリと工房の作品と考えている。
更に手の加え方としてはボッティチェッリ<工房と考えている研究者が多い。
350センチ×159センチと巨大な油絵は、雲を境として上下2シーンに分かれている。
下の場面は花々が咲き乱れた大地の上に、所狭しと多くの聖人たちが集まっている。
左からAntonio da Padova(聖パドヴァのアントニオ)Barnaba(聖バルナバ) Filippo Apostolo(聖フィリポ)Ludovico di Tolosa( トゥールーズのルドビーコ)Maria Maddalena(マグダラのマリア) Giovanni Battista(洗礼者ヨハネ)Caterina d'Alessandria(アレクサンドリアのカタリナ)Pietro(聖ぺトロ) Bernardino (聖ベルナルディーノ)Francesco(聖フランチェスコ) Giacomo Maggiore(大ヤコブ) Sebastiano(聖セバスティアヌス)
皆父なる神が聖母に戴冠する空の上を仰ぎ見ている。
その二人の周りには、祝福の音楽を奏でる天使たち。
天使たちが奏でる楽器は持ち運び可能のオルガンやリュート、プサルテリウム(古代から中世末ころまで用いられた弦楽器)、リラ、フルート、チェンバロ、ハープや太鼓などの古楽器。

この上の部分(聖母戴冠のシーン)は多くの研究者が言うようにボッティチェリの手によるPala di Sa Marco(サン・マルコの祭壇画)

やドイツのゲッティンゲン(Göttingen)大学のアートコレクションに収蔵されているボッティチェリの「聖母戴冠」(写真見つけられず)にも見られる、聖母と天使たちの構図や神が被っているtiaraという教皇の三重冠の短縮法使い方や横向きのポーズなのにボリュームがある描き方などの類似性が指摘されている。
しかし表現欲豊かでドラマチックで壮大で激しさの有る「サン・マルコの祭壇画」の4人の聖人に比べると、クイエーテの聖人はそういった表現は乏しい。

類似性はこの2点に関するものだけではない。

写真:http://catalogo.fondazionezeri.unibo.it/scheda/opera/
同じ「聖母戴冠と聖人たち(Incoronazione di Maria Vergine con san Giusto, beato Jacopo Guidi, san Romualdo, san Clemente e monaco camaldolese)」(1490-1495)が描かれた現在マイアミにあるBass Museum of Art所蔵の作品。(こちらはRoberto LonghiがBigordi Domenico (Ghirlandaio) の作と鑑定したこともある)や

写真:https://www.metmuseum.org/art/collection/
同じく「聖母戴冠と聖人たち(Antonio Abate, Giovanni Battista, Miniato e Francesco)」(1495-1500)などにも見られる。

制作時期に関しては、研究者たちは、ボッティチェリが特に工房に作品を任せた時期を1500年から08年の間と考えていて、それがクイエーテの「聖母戴冠」の制作年の推定根拠になっている。
イタリア人研究者の1人Alessandro Cecchiは1491-94年に制作されたボッティチェリの「Pala delle Convertite(コンヴェルティーテの祭壇画)

写真:Wikipedia
を引き合いにだして、マエストロと弟子の役割に言及している。(どう言及しているのかは、Cecchiの資料を見てみないと分からないのだが)

作品ではなく、この時代の記録やボッティチェッリが確実に制作したという作品を調べてみると、この時期ボッティチェッリは様々な重要な作品を請け負っている。
1496年:dormitoio del convento di Santa Maria di Monticelli(サンタ・マリア・ディ・モンティチェッリ修道院の寄宿舎)に数枚のフレスコ画を弟子(Jacopo di Francesco)と一緒に制作。
1497年:ボッティチェリは数名の信用のおける共作者と壁画を描いたと考えられる制作者の証明書が残っている。また同じ年Pala di Trebbio(トレッビオ祭壇画、アカデミア美術館所蔵。2016年東京都美術館の「ボッティチェリ展」で来日)を描いた。
1499年:Giorgio Antonio Vespucciの記録によると、Chiesa di Ognissanti(オンニサンティ教会)にStorie di san Dionigi Aeropagita(アレオパゴスのディオニシオの物語)のフレスコ画をFamiglia Vespucci(ヴェスプッチ家)に依頼された。(現在このフレスコ画は残っていない)
ちなみに同教会に現存している、Domenico Ghirlandaio(ドメニコ・ギルランダイオ)の San Girolamo(聖ヒエロニムス)と対で描かれたSant'Agostino nello studio(書斎の聖アウグスティヌス)

こちらはそのフレスコ画よりずっと前の1480年頃の作品。

この年は他にもタブローの木の添え木からボッティチェッリの工房作と考えられているSan Lorenzo(サン・ロレンツォ)教会のために描かれた「聖母子と聖人たち(Madonna con il Bambino tra i santi Sebastiano, Lorenzo, Giovanni Evangelista e Rocco)」

写真:http://catalogo.fondazionezeri.unibo.it/scheda/opera/
(これもDomenico del Ghirlandaio作という意見があった)
現在この作品はPieve di San Giovanni Evangelista a Montelupoにある。
興味深いのはこの祭壇画の聖セバスティアヌスとクイエーテの「聖母戴冠」の聖セバスティアヌスがよく似ていることだ。
勿論類似性はそこだけではない。
人物、ポーズなどボッティチェッリ工房によって繰り返し描かれたものである。

1505年、ボッティチェッリは同じ場所、Montelupo(モンテルーポ)のConfraternita dello Spirito Santo(サン・スピリト兄弟会)から巨大な祭壇画の依頼を受けている。
この祭壇画の一部は現在バーミンガム美術館(Birmingham Museum of Art)にある

写真:Wikipedia
Discesa dello Spirito Santo(三位一体の降下)
契約者はマエストロの名前で、作品がはっきりしていて、記録も残っていたとしても、実際制作したのは工房というパターンはボッティチェリだけではなく、この時代は良くあることだった。

まだまだ謎の多い作品だが、クイエーテの「聖母戴冠」はサン・マルコの祭壇画の後に制作され、Montelupo(モンテルーポ)の1499年、1505年の2作品とも関係が深いということと、以上のような作品からフィレンツェやその周辺でのボッティチェッリの工房による広範囲に渡る制作活動の様子を知ることができる。


と、以上の文章は、2019年Montevarchiで行われた”Botticelli, Della Robbia, Cigoli. Montevarchi alla riscoperta del suo patrimonio artistico”のカタログ(イタリア語)を日本語訳にしたものがベースとなっている。(ほぼ全訳)
https://www.ilogo.it/wp-content/uploads/2010/04/catalogomostrabotticelli.pdf
なぜこれを引用したかというと、うちにボッティチェッリの資料が全くない。
これが今ネット上で無料で読める最新のクイエーテの「聖母戴冠」に関する資料だと思われるからである。
また2016年の「聖母戴冠」を含むクイエーテの展覧会のために書かれたCapolavori a Villa La Quiete. Botticelli e Ridolfo del Ghirlandaioという本が非常に役立つと思う。(無料では読めないので…)
作者のCristiano GIOMETTIはフィレンツェ大学の教授。
私が大学に通っている時は、まだいらっしゃらなかったけど、友達のマスターの担当教授で、若いけど非常に優秀だと太鼓判を押していた。

かなり長文になりました。
お疲れさまでした!!



最新の画像もっと見る

12 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
イタリア (カンサン)
2020-10-28 20:15:52
fontanaさんへ、ボッティチェリの絵画について興味深いブログを読みました。
日本の美術館には印象派の絵画を所蔵しているのは多いですが、イタリアのルネサンスの絵画はごくわずかしかないような気がします。明治、大正、昭和期に絵画の収集にフランスに行った人はいましたが、イタリアに行った人がほとんどいなかったからでしょうか。
今のイタリアは新型コロナ感染拡大で飲食店の営業は午後6時までになりましたね。7時、8時からが本格的営業の時間でしょうけれども、苦渋の決断ですね。感染が拡大したら、規制強化し、減ってきたら規制をゆるめてを繰り返しているような感じですね。フランスはイタリア以上に感染拡大していますね。
返信する
大変です。 (fontana)
2020-10-29 15:12:08
カンサンさん
コメントありがとうございます。
印象派の絵画が当時は安かったせいもあるでしょうね。

「マスクを着けていなかった人のせいだ」とテレビのニュースでインタビューされていた人も言っていました。
在伊の友人も病気になった人は死ななくても、店を閉めなくてはならない人などは死ぬと言っています。政府に反対するデモのせいで更にピリピリしているようです。日本もGo toなんてやってていいのでしょうか?
返信する
ボッティチェリの聖母戴冠 (むろさん)
2020-11-05 00:24:07
先週は日本美術の展覧会その他、いろいろと用事が重なってボッティチェリに関するコメント投稿が遅くなりました。

このクイエテの聖母戴冠に関する問題が複雑なのは、
①ヴァザーリが列伝で書いている「リドルフォ・ギルランダイオがリーポリの女子修道院のために描いた2枚の板絵のうち1枚は聖母戴冠、1枚は聖人たちの中央に聖母がいる絵」という記述の聖母戴冠は現在アヴィニョンのプチ・パレ、もう1枚の聖カタリナの神秘の結婚を含む聖母の祭壇画は現在ヴィラ・ラ・クイエテにある。
②ボッティチェリ(工房)の聖母戴冠も現在ヴィラ・ラ・クイエテにある。
③ヴァザーリが列伝で書いている「ドメニコ・ギルランダイオがヴォルテッラのはずれのカマルドリ会のサン・ジュスト僧院でも2枚の板絵を制作した」という絵の1枚が現在フロリダのバス美術館にあるボッティチェリ(工房)の聖母戴冠とみなされている。

以上3つの聖母戴冠に関連する情報が錯綜しているからです。なお、ボッティチェリ(工房)の聖母戴冠2枚(クイエテとバス)の大元がサン・マルコの1490年の聖母戴冠であることは諸家が一致して認めているところです。

まず、①と②に関連し、ボッティチェリのカタログレゾネである1978年のライトボーンの2巻本と1989年のPonsの本に書かれている現在クイエテにある聖母戴冠の記載内容です。

Nicoletta Pons、CATALOGO COMPLETO BOTTICELLI、RIZZOLI 1989より
「この板絵は、1886年まで右側の2番目の祭壇にあったサン・ヤコポ・ア・リーポリ教会から来ている。ヴァザーリによるこの作品のリドルフォ・デル・ギルランダイオへの帰属は、ミラネージ(Milanesi-Vasari、1878)によってボッティチェリに変更され、その後批評家によって彼の工房作に変更されたが、その判断は全員一致ではない。サン・マルコの祭壇画への明確な参照により、制作時期の設定として1490年が位置づけられている。また、様式的な要素から、16世紀にまでさかのぼるという提案が導びかれる。」

Ronald Lightbown、Botticelli VOLUMEⅡ Complete Catalogue 1978より(要約)
「1292年にドミニコ会の修道院として設立されたサン・ヤコポ・ア・リーポリ教会の右側の2番目の祭壇として、最初にファントッツィによって確かに言及され、1787年にシニョーレ・モンタルヴェの管理によって再建されている。1504年にリドルフォ・デル・ギルランダイオによって教会のために描かれ、1813年以来ルーヴル美術館にある聖母戴冠の祭壇画と、パーツによって混同させられた。ヴァザーリはこのギルランダイオの絵を「我々の聖母の戴冠」と表現し、リチャは「ひざまずく聖人」が含まれていると正しく付け加えている。 1832-8年のヴァザーリのフィレンツェ版では、ギルランダイオの絵が1813年にパリに移されたと述べており、これはM.-L.ブルーマーによって確認されている。 1823年までに、教会の他の絵は以前の位置から移動された。大祭壇では、右側の2番目の祭壇に移動されていたジョッキの聖ヤコブに代わって受胎告知が置かれたと記録されている。ギルランダイオの聖母戴冠は、それに面した祭壇に置かれていた。おそらく、1823年のこの聖母戴冠は現在の絵であり、リドルフォ・ギルランダイオの代わりに、シニョーレ・モンタルヴェ、または教会の常連であるアンティノリ家の1人によって入手された。 1886年、サンヤコポが兵舎になったとき、この絵は他の芸術作品と一緒に現在の家に移された。」
「(この絵は)ミラネージによって最初にボッティチェリ作という帰属が与えられた(ヴァザーリ、1849)。この帰属は、クロウとカヴァルカゼレ(1864年、デル・ラーマの三賢王礼拝と同時代の作品)によって受け入れられ、最初はボーデによって受け入れられた。ボーデは後に、それが工房作であるというモレリの意見を受け入れた。モレリの判断は、サン・マルコの聖母戴冠との関係を指摘するウルマンと、ボーデ(1921,1926)、ヴァンマール(1931、ヤコポ・デル・セライオによる)、ベレンソン、ガンバ(1936 、1500-10年にさかのぼり、上部をボッティチェッリ自身がデザインした後、ウフィツィ美術館で彼に帰属する素描に関連しているが、粗く描かれている)。メニールはそれをボッティチェッリの模倣者に帰し、ネリ・ディ・ビッチとコジモ・ロッセッリの弟子によるものであるというホーンの意見を記載している。」

Pons、Lightbownともリーポリ教会にあったとしていますが、Lightbownは「『ひざまずく聖人』が含まれている」、「ギルランダイオの絵が1813年にパリに移された」としているので、この部分の記述は現在アヴィニョンのプチ・パレ美術館にあるリドルフォ・ギルランダイオの聖母戴冠のことだと思われます。なお、プチ・パレ美術館にあるボッティチェリ初期作品の聖母子像は、近年のフランス国家所蔵美術品の見直し、展示美術館の移動でルーブルからプチ・パレに移っています。(Rizzoli集英社版ボッティチェリ1968 Mandelではルーブルとあるが、Lightbown 1978ではプチ・パレとなっている。)このリドルフォ・ギルランダイオの聖母戴冠も同じ頃にルーブルからプチ・パレに移ったものと思われます。

そして、貴ブログ本文の「1992年に発見された記録のおかげで」、1978年のLightbownと1989年のPonsの記載の誤っていた部分が分かり、クイエテにあるボッティチェリの聖母戴冠がこの場所とは無関係だったということになったようです。

③のヴァザーリが列伝で書いている「ドメニコ・ギルランダイオがヴォルテッラのはずれのカマルドリ会のサン・ジュスト僧院で制作した」絵について、白水社版続画人伝ではこの絵が何であるかの注釈はありませんが、Lightbown 1978のカタログレゾネでは、フロリダのバス美術館にあるボッティチェリ(工房)の聖母戴冠としていて、ドメニコ・ギルランダイオとする作者の帰属は誤りとしています。Rizzoli集英社版1968 Mandelではこのバス美術館の聖母戴冠には作品項目を上げていませんが、サン・マルコの聖母戴冠の項目中に言及があり、「寄進者を描き加えた変形模写で工房作」としています。私がこの作品に注目するのは、上部の父なる神がサン・マルコの聖母戴冠の父なる神とそっくりであることです。その点だけ見るとクイエテの聖母戴冠よりもボッティチェリの絵に近い気がします。なお、このバス美術館の聖母戴冠については、下記HPが修復の動画など、興味深い映像があるのでご覧ください。
https://thebass.org/art/the-coronation-of-the-virgin/

チェッキ氏の著書ボッティチェリについては、2016年の都美ボッティチェリ展の記念講演会でチェッキ氏とヴィラ・イ・タッティのネルソン氏の講演を聞いて、下記の話が興味を引いたので、以前からその本に関心を持っていました。それは、ヴァザーリ芸術家列伝のボッティチェリ伝に書かれている「晩年の困窮」が事実だったかどうかに関し、ボッティチェリ没後すぐに兄のシモーネと甥のベニンカーザが多額の負債に憤慨し、相続放棄したという記録を発見し、晩年の困窮が事実と判明したということです。この件が書かれた2005年のチェッキ氏の著書ボッティチェリは都美の資料室で以前見たことがあります。今後時期を見て、この本の必要部分をコピーする予定なので、その時に今回の件(コンヴェルティーテの祭壇画との関連で師匠と弟子の役割)も確認しようと思います。

なお、このコートールドにあるコンヴェルティーテの祭壇画(三位一体)ですが、ボッティチェリの自筆と考えられているのは、下部左寄りの小さなトビアスと天使の部分だけです。この絵は矢代幸雄が初めてボッティチェリの作品と判定したということで知られていますが、欧米の研究者の間では、矢代幸雄の評価はこの絵を発見した人ということで、大判のボッティチェリの著書は「一風変わった評論」(Lightbown 1989の文献解題、邦訳森田義之 ボッティチェリ 西村書店1996)といった評価しか受けていないようです。(美術の国の自由市民 矢代幸雄とバーナード・ベレンソンの往復書簡 玉川大学出版部2019 所収 JKネルソン著 日本人批評家、ボッティチェリを語る)

ボッティチェリの工房作であるトレッビオ祭壇画(アカデミア美術館)とモンテルーポの祭壇画の2枚はともに2016年東京都美術館の「ボッティチェリ展」で来日したので、その時に見ました。モンテルーポの祭壇画の聖セバスティアヌスとクイエテの「聖母戴冠」の聖セバスティアヌスがよく似ているとのことですが、クイエテの「聖母戴冠」の右端が切断されていて聖セバスティアヌスはよく見えないし、今見えている部分もモンテルーポの祭壇画の聖セバスティアヌスとあまり似ているようには思えません。拡大してモンテルーポの絵と表情を見比べたいのですが、どこかに鮮明な画像はないでしょうか。

返信する
ボッティチェリの聖母戴冠(続き) (むろさん)
2020-11-05 13:59:13
上記コメントでクイエテの「聖母戴冠」の鮮明な画像を見たいと書きましたが、ご紹介の2019年Montevarchのカタログに載っていました。失礼しました。これに出ている写真で聖セバスティアヌスの表情を見ると、モンテルーポの祭壇画の左端の聖セバスティアヌスと似ているというよりも、クイエテの絵の方がボッティチェリの描く顔に近いという気がします。下に並んでいる大勢の聖人や天上世界の天使と父なる神・聖母マリアなど人物全体の中でも最もボッティチェリ的な顔の一つだと思います。逆にモンテルーポの聖セバスティアヌスはあまりボッティチェリらしくないと感じます。モンテルーポの絵の右端にいる聖ロクスとたして2で割るとクイエテの聖セバスティアヌスの顔に近くなるかという程度です。クイエテの聖セバスティアヌスの表情に似ている雰囲気を持った絵を他のボッティチェリ作品からさがすと、ベルリンの聖セバスティアヌス、ウフィッツイの老コジモのメダルを持つ青年の肖像、サンマルティーノの受胎告知フレスコ画の天使ガブリエル、プリマヴェーラのメルクリウス、あとはベルリンのラクツィンスキー聖母子トンドの天使(向かって左の聖母の隣)やウフィッツイ・サンバルナバの聖母の天使(向かって右で3本の受難の釘を持つ天使)といったところでしょうか。ただ、クイエテの聖セバスティアヌスの顔にそっくりの作品はないようです。

私は日本美術(主に平安・鎌倉彫刻史)とイタリアルネサンス・バロック美術の両方を並行してやっていますが、どちらも工房作の問題が最も関心があるテーマの一つです。今回のブログで取り上げられたボッティチェリ工房の作品も、この部分はボッティチェリに近いが他の部分はちょっと違うのではないか、というものがほとんどです(ボッティチェリの真筆とされるサン・マルコの聖母戴冠もしかり)。こういった作品の判定をしていくのもボッティチェリ作品を見る時の楽しみの一つです。

ヴェロッキョ工房のキリスト洗礼でレオナルド・ダ・ヴィンチがどこまで描いているかの問題が、最近の科学的研究でいろいろ進んでいるようですが、工房作で弟子や親方の個人の手をどこまで判別できるか、親方が工房として受けた注文に対して、親方の名前で納品するのだから実際には弟子が描いていても親方の作品とするのか、といったことについてはなかなか正解が出ない問題だと思います。以前このブログで話題になったかと思いますが、中国で作ったブランド品をフランスの本社がそのブランド製として販売している場合の考え方とか、この前話題になったアントニオとピエロ・ポライウォーロ兄弟のどちらが描いたかなどです。ルーベンスは自分が描いた部分と弟子が描いた部分の割合の数字で絵の値段を変えると手紙に書いています(この前の上野ルーベンス展に出ていた工房作のセネカの絵の前で、顔の部分はルーベンス本人と書いてあったので、この絵の値段の比率はどのぐらいだろうと考えてしまいました)。また、最近読んだ日本美術(運慶)の本で、若い頃の作品(奈良円成寺の大日如来)は師匠康慶の元で作っているのに「運慶作品」と評価しながら、晩年の作品(奈良興福寺北円堂の無著・世親)は運慶が親方で監督する形で、息子(五男と六男)が彫っているのに「運慶作品」と評価されています。これは運慶の作品を増やしたいためのダブルスタンダードではないかと書かれていました。なかなか鋭い指摘であり、西洋美術でもこういう視点は必要だと感じました。(ご興味があればご一読ください。塩澤寛樹著 大仏師運慶 工房と発願主そして「写実」とは 講談社選書メチエ732 2020.9.10)

フィレンツェのバルジェロにあるヴェロッキョ工房の聖母子大理石浮彫りで、現地の解説キャプションにはヴェロッキョの弟子の名前が書かれているそうです(ヴァザーリの芸術家列伝ヴェロッキョ伝にも名前が出ている弟子のフランチェスコ・ディ・シモーネ・フェルッチ)。私が持っているヴェロッキョの本(SADEA/SANSONIのDIAMANTI DELL’ARTEシリーズ8)には「工房作だが、同じバルジェロのテラコッタの聖母子よりもヴェロッキョの関与の程度は低い」とあります。この作品では何かの根拠があって弟子個人の名前で展示しているのだと思いますが、師匠の工房作品とするのか弟子個人の作品とするのかはなかなか難しい問題だと思います。その弟子がレオナルドだったら、ヴェロッキョ工房作とするよりもはるかに高額の評価となりますので。

返信する
ありがとうございます。 (fontana)
2020-11-05 14:13:54
むろさん
日本美術の展覧会とは、何をご覧になったのでしょうか?
東京ステーションギャラリーの「もうひとつの江戸絵画 大津絵」やサントリー美術館の「日本美術の裏の裏」など興味はあるのですが、なかなか都内に出る気になれず、「ロンドン・ナショナルギャラリー展」以降、どこにも行かずにいます。

さて、長文のコメントありがとうございます。非常に勉強になりました。
またこの先Cecchiの文章を読んだらご教示ください。
私の方は2011年から12年にかけてRomaで行われた"Filippino Lippi e Sandro Botticelli"のキュレーターがCecchiだったので、カタログを引っ張り出してきて眺めています。(ビニールがかかったまま手つかずの状態でした。)
https://www.treccani.it/magazine/webtv/videos/Itin_Filippino_Lippi.html
この動画でも晩年の困窮については触れていました。

写真ですが、
http://valdarnopost.it/news/la-pala-del-botticelli-e-a-montevarchi-inaugurata-la-mostra-al-podesta-emozione-per-dieci-opere-che-tornano-a-casa
これくらいしかなさそうですね。
あとは白黒の
http://catalogo.fondazionezeri.unibo.it/scheda/opera/15552/Filipepi%20Alessandro%2C%20Incoronazione%20di%20Maria%20Vergine%20tra%20angeli%20e%20santi
くらいでしょうか?
返信する
再び感謝。 (fontana)
2020-11-05 17:23:44
むろさん
コメントを書いているうちに新しいコメントを頂いたようで、話がずれてしまってもすみません。

確かに面白いテーマだと思います。
また問題提起できるような作品が有りましたら、話題にしたいと思います。
返信する
クイエテの聖母戴冠 ヴァザーリ列伝1550年版 (むろさん)
2020-11-05 23:00:47
クイエテの「聖母戴冠」の写真、ありがとうございます。特にモノクロの方が細部がよく分るので役に立ちます。

先週行った日本美術の展覧会は横浜での仏像の展覧会です。神奈川県立歴史博物館「相模川流域のみほとけ」下記URL (お近くではありませんか?)
http://ch.kanagawa-museum.jp/exhibition/5337
関東地方でも最古級かと思われる木彫仏とか、運慶に関連する仏像、鎌倉瑞泉寺にある肖像彫刻と比較される山梨県の像など私にとっては興味深い作品がたくさんありました。来年1月には都筑区の横浜市歴史博物館で「横浜の仏像」というまた同じような展覧会があるので、こちらも行くつもりです。
https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/koudou/see/kikakuten/2020/20210123_yokohamanobutsuzou/

2011年ローマScuderie del Quirinaleで開催されたLippi e Botticelli展の図録、私も持っているので早速確認しましたが、チェッキ氏の文章はフィリッピーノのことばかりで、ボッティチェリの晩年の困窮には触れていませんね。この図録はLippi e Botticelliと言ってもボッティチェリのことは少ししか出ていないので、専らフィリッピーノの資料として使っています。イタリア語の動画は見ても理解できません。

10/25の貴ブログ「Capolavori a Villa La Quiete 2016-Firenze」のコメント(「更新しました。」10/28)で「芸術家列伝を原書で読める」とのことなので、一つ確認したいこと(お願い)があります。それは1550年の初版をインターネットなどで読めるかということです。

まず、ボッティチェリ伝について、1550年初版に書かれていて1568年の第2版で削除された部分があれば読みたいと思っています。ヴァザーリ芸術家列伝の邦訳は白水社版(抄訳)、現在刊行中の中央公論美術出版社の完全版美術家伝、ボッティチェリをテーマにしたいくつかの美術書に掲載されているボッティチェリ伝(訳者は別々)等いろいろありますが、全て1568年第2版の翻訳ばかりです。

次に、1550年初版の序文に書かれ、1568年の再版では削除されたという以下の文章の全文を読みたいと思っています。それは
I GENI DELLA PITURA BOTTICELLI, Arnoldo Mondadori Editore 1976
邦訳 カラー版 世界の巨匠 ボッティチェリ 評論社1980 に掲載されていて、
「Tradotto in italiano moderno, il predicozzo dice cosi: La natura dona a molti la creativita arstica,~ Morale: artisti delle nuove leve, non imitate il povero Botticelli」
(自然は多くの人たちに芸術的創造力と同時に~(ボッティチェリの浪費癖を取り上げて)教訓:新しい世代の美術家は哀れなボッティチェリを真似してはいけない)
この本には上記の30行程度の文章が掲載されているのですが、これが序文の全てなのか分からないので、掲載されていない部分があれば全文を読みたいということです。1550年初版のことをご存じならよろしくお願いします。

返信する
少々お待ちください。 (fontana)
2020-11-07 09:49:30
むろさん
コメントありがとうございます。
申し訳ありませんが、来週ゆっくりお返事差し上げますので、少々お待ちください。
返信する
Scuderie del QuirinaleのFilippino Lippi展 (むろさん)
2020-11-09 01:20:16
2011年ローマScuderie del Quirinaleで開催されたLippi e Botticelli展に関し、この展覧会のことを詳細に評価・紹介した日本語の展覧会評があり、以前にコピーを取っていたのでこの機会に再度読み直してみました。掲載誌は西洋美術研究17号2013.11 三元社 荒木文香著です。数年前はさっと読んだ程度だったのですが、今回はこの展覧会図録やその他の資料とも照合しながらチェックしてみました。

前コメントで、この展覧会図録はほとんどフィリッピーノ・リッピのことばかりで、ボッティチェリのことは少ないと書きましたが、この展覧会評の著者も「実質的にはフィリッピーノ・リッピの全画業を提示した初の展覧会」「本稿ではフィリッピーノ・リッピ展と呼ぶ」としています。そして、この展覧会の構成として、父からの影響の時代、ボッティチェリ工房での時代(ベレンソンが提唱した、いわゆるAmico di Sandro)、ローマ・カラファ礼拝堂装飾の時代等に区分していて、展覧会評ではその中でボッティチェリとの類似点、相違点も述べられています。

私自身、ここ数年でフィリッピーノ・リッピについては以前より理解も深まったと思っていて、特に最近のコロナによる自粛で手持ち資料を見直す中で、手に入れたまま放置していた本やコピーの再確認も進んできました。次にイタリアへ行く機会があったら、トリノやボローニャを訪問し、まだ見たことがないフィリッピーノの作品を見るのが目標の一つです。

また、貴ブログ「Botticelli売却―NY」(2020年9月28日)の本文中の「ストロッツィ宮で開催されたボッティチェリとフィリッピーノ,15世紀フィレンツェ絵画の不安と優美展」に対するコメント「売買されたボッティチェリの絵 」(9/30)で私が書いた「2003年10月~翌年2月のパリMusee Luxembourgの展覧会図録で開催場所が2004年3月からフィレンツェ・パラッツォ・ストロッツィとなっているので、ご指摘の展覧会と同じ内容と思われますが、副題が「15世紀フィレンツェ絵画の不安と優美」ではなく、「ロレンツォ豪華王からサヴォナローラまで」とあるので開催場所で多少の違いがあるのかと思います。」と記載したことに関しても、注釈欄に以下のように書かれていました。
「フィリッピーノがボッティチェリの補助的な役割りを果たしていたことを端的に示すのが、リュクサンブール美術館での展覧会において用いられた展覧会名「ボッティチェリ展―ロレンツォ豪華王からサヴォナローラへ」である。ここではフィリッピーノの名が消え、イタリア語での展覧会名における「優美」と「動揺」という名詞を象徴的に示す2名の歴史的人物の名が登場し、展覧会のコンセプトをより具体的に示している」

この資料を読み直したことで、この20年ぐらいの間に日本で開催されたボッティチェリやフィリッピーノ周辺の展覧会(新宿でのプラート美術展、渋谷Money and Beauty展、都美ボッティチェリ展など)や上記の欧米での展覧会などの開催意図や最近のフィリッピーノ評価の動向が段々と見えてきました。また、このQuirinaleの展覧会のキュレーターがチェッキ氏、2016年の都美ボッティチェリ展もイタリア側監修者がチェッキ氏であり、展示作品を比べるとフィリッピーノ・リッピに関しては共通の作品がかなりあります。(サン・ジミニャーノの受胎告知、フィレンツェ貯蓄銀行のコルシーニのトンド、プラート絵画館の聖母子と聖ヨハネ・聖ステファヌスなど)

なお、この展覧会評によると、Quirinaleの丘はカラファ枢機卿の別荘があった場所だそうで、そのカラファ枢機卿の注文によるサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会カラファ礼拝堂の壁画装飾を行ったフィリッピーノ・リッピと注文者カラファ枢機卿はこの2つの場所を何度も往復したと考えられ、このゆかりの場所でフィリッピーノの展覧会が開かれたとのことです。

返信する
aria virileとaria dolceの問題 (むろさん)
2020-11-11 23:36:19
近代におけるボッティチェリの研究が始まってから100年以上経過し、この間ずっと議論されてきたボッティチェリに関する問題としては、
・ベレンソンが言うボッティチェリと似た一連の作品、いわゆるamico di Sandroの帰属
・同時代の批評として記録されているaria virile(雄勁な作風)の真意は何か
・ボッティチェリはサヴォナローラの信奉者(泣き虫党)だったのか
などいくつかあり、これらはだいたい決着したものですが、今回2011年ローマScuderie del Quirinaleで開催されたLippi e Botticelli展図録を話題にされたことで、その展覧会評のコピーを再読し、そこから上記のaria virile問題に関連したボッティチェリとフィリッピーノ・リッピの作風に関する当時の評価、及び2人の影響関係について少し考えてみました。

aria virileという言葉は、1493年頃に(絵の発注者に対する)ミラノの代理人が残した文章中で、当時フィレンツェで有名だった4人の画家、ボッティチェリ、フィリッピーノ・リッピ、ペルジーノ、ギルランダイオを比べ、ボッティチェリはaria virile、フィリッピーノはaria piu dolce、ペルジーノはaria angelica, et molto dolce、ギルランダイオはbona ariaと評価しています。ペルジーノの「天使のようでとても甘い雰囲気」、ギルランダイオの「良い雰囲気」は現代の我々も作品の印象から納得できますが、ボッティチェリの「雄勁な作風、男らしい雰囲気」は通常考えられているボッティチェリの評価とは正反対なので、長年議論されてきました。これに関して矢代幸雄をはじめ過去の多くの研究者は、オニサンティにある書斎の聖アウグスティヌスのような、ボッティチェリにしては珍しく男らしさ、強さが表現された作品についての評価をした言葉と考えてきました。これに対し最近出された論考(ヴィラ・イ・タッティのJKネルソン著「フィリッピーノ・リッピ、ボッティチェリの弟子にしてライバル」2016年都美ボッティチェリ展図録所収)によれば、virile男らしい作品とは、表面的な男らしさというよりも、極めて理知的で合理的なものの意味であるとして、ボッティチェリとフィリッピーノのウフィッツイにある2つの祭壇画(制作時期も近いサンバルナバの祭壇画とシニョリーアの祭壇画)の遠近法や人物表現で、ボッティチェリの方が優れていることを例に論じています。フィリッピーノ・リッピが「piu dolce:より甘い」、ペルジーノが「molto dolce:とても甘い」と評価されたのは、この二人よりもボッティチェリの絵の方が理知的、合理的と考えられていたということです。
日本語でも「詰めが甘い」とか「お前は甘ちゃんだ」といった否定的な意味を含んで甘いという言葉を使うことがありますが、イタリア語のdolceにもそのようなニュアンスはあるのでしょうか?

ボッティチェリとフィリッピーノの作品における表現の違いとして、前コメントで書いたLippi e Botticelli展の展覧会評で例示されていたことの一つに、オタワNG所蔵の「モルデカイの勝利」と「王宮の前のエステル」の建築部分の描き方があります。(Lippi e Botticelli展図録p95とp99をご覧ください。)ボッティチェリが描いたp99のモルデカイの絵の建築は全て定規で引いた下描きの線が見えるのに対して、フィリッピーノが描いたp95のエステルの絵の建築は右端の建物だけが定規で線を引かれ、その左の建物は全てフリーハンドで描かれています。これもaria virileとaria dolceの違いではないかと思います。さらに、これは私が思っていることですが、ペルジーノとボッティチェリが描く「空を飛ぶ天使の足の表現」の差があります。ペルジーノの天使は空中の雲がまるで固い地面であるかのように、足の裏をべったりと雲につけて、少し膝を曲げ雲の上を走っているように描かれています。一方、ボッティチェリの天使は足が自然に空中に浮いています。例えば、ウフィッツイの聖母戴冠やロンドンNGの神秘の降誕の上空にいる天使、ウフィッツイのサン・マルティーノの受胎告知フレスコ画の天使などです。人間をモデルにして天使を描く時に、普通に立たせて描いたのでは体重で足の裏が床面に密着しますが、例えばピーターパンの舞台や映画撮影で人が空を飛ぶ時はワイヤーで吊り下げるので、足は空中に浮いた形になり、足に力は入りません。この表現の差がペルジーノとボッティチェリにはあるのではないかということです。フィリッピーノが描く空中の天使を見ると、カラファ礼拝堂の聖母被昇天の天使は、これもペルジーノと同じように雲の上に足をつけて歩いているような表現です(フィリッピーノはペルジーノとボッティチェリの中間ぐらい)。私はこの3人が描く天使の足の表現にaria virile、aria piu dolce、aria molto dolceの差を感じます。

神戸大学の宮下規矩郎氏はカラヴァッジョに関する著書(「聖性とヴィジョン」「カラヴァッジョ鑑」)で「幻視のリアリズム」というテーマで論述していますが、実在しない神や天使をリアルに表現することができる画家は優れた画家ということだと思います。
上記のネルソン氏の都美ボッティチェリ展図録掲載論文では、フィリッピーノの遠近法がボッティチェリより劣るとしていますが、Lippi e Botticelli展の展覧会評で荒木文香氏はサン・ジミニャーノのフィリッピーノ作2枚組トンドの受胎告知を例に、この絵の遠近法がダニエル・アラスが言うところの「逆転した遠近法」であるとして好意的に評価しています。ダニエル・アラスの著書は邦訳のある「モナ・リザの秘密」と「なにも見ていない」しか読んだことがないので、この「逆転した遠近法」の詳細については今後確認してみようと思います(2人の遠近法のどちらが本当に優れているかはそれまでの宿題にしておきます)。なお、「モナ・リザの秘密」の第16章アナクロニズムの功罪で、著者はボッティチェリのaria virileについて触れ、400年前と現代では全く逆の評価であることや美術史研究では過去に書かれた「評言」に頼り過ぎているとか、時代ごとの「まなざしの歴史」により、その時々の趣味や都合によって作品が改変されてきたことなどを論じています。我々がヴァザーリの列伝を読む時の心構えや現代的な常識で判断してはいけないことなど、美術史研究者が注意すべき点に通じることなので有用な著書だと思います。

次に、フィリッピーノが1488年にローマへ行きカラファ礼拝堂の装飾に従事する前に描かれた2つの作品、サン・ジミニャーノの受胎告知とウフィッツイにあるシニョリーアの祭壇画を例にボッティチェリとの影響関係を考えてみます。
サン・ジミニャーノの受胎告知は、2019年11月4日にミラノでのクリスマスの特別展示として、貴ブログでご紹介され、これに対する私の初めてのコメントで、「2016年に都美ボッティチェリ展で来日した時に見た」と書いたものです(あれから1年たったのですね)。この作品をともにウフィッツイにあるボッティチェリの2つの受胎告知と比べてみると、1481年のボッティチェリ作サン・マルティーノの受胎告知フレスコ画と比べ、フィリッピーノの1483~84年作サン・ジミニャーノの受胎告知では、天使は飛行状態から着地状態に、マリアは両手を交差させて謙譲の姿勢を明確にしています。そして、天使の右手とマリアの左手の微妙な意志交換は、1489年のボッティチェリ作のチェステッロ聖堂(現マッダレーナ・デイ・パッツィ聖堂)の受胎告知板絵を予感させるものです。サン・ジミニャーノの受胎告知では、多分フィリッピーノはサン・ジミニャーノへ行って描いたのではなく、(容易に運搬可能な板絵なので)フィレンツェにある自分の工房で制作したものと思います。そして完成後はすぐにサン・ジミニャーノへ発送したはずですから、ボッティチェリがこの2枚組トンドを見ているとしたら、フィリッピーノの工房で見たと思われます。かつての師匠であるボッティチェリが自分の工房を訪問してきた時に、フィリッピーノは敬意を払って迎えたはずです。ヴァザーリは芸術家列伝でフィリッピーノのことを誰からも愛される性格だったと好意的に書いています。一方、ボッティチェリのことは浪費癖を非難するとともに、機智に富み、いたずら好きで陽気な性格と描写しています。ボッティチェリはフィリッピーノの工房でサン・ジミニャーノの受胎告知を見て、その表現に影響を受け、1489年にチェステッロ聖堂の受胎告知を描いたのではないでしょうか。チェステッロの受胎告知では、天使とマリアのアクションはフィリッピーノの絵よりもますます激しくなり、マニエリスム的性格を強めています(ボッティチェリはポントルモの作品の源泉の一つであると若桑みどり氏も指摘しています:小学館世界美術大全集15マニエリスム1996年)。なお、フィリッピーノもボッティチェリと同様、マニエリスム的性格(ローマで目にしたドムス・アウレアのグロテスク装飾の多用等)を指摘されていて、これがベレンソンやロンギによりバロック的としてフィリッピーノが嫌悪された原因の一つです。ボッティチェリとフィリッピーノの受胎告知3点を時系列に沿って並べることにより、今まで見えなかったものが見えてきたように感じます。

2つ目のシニョリーアの祭壇画(八人委員会祭壇画)は1486年にフィリッピーノがフィレンツェ市当局から注文を受けて描いたもので、ボッティチェリはこの注文を取れなかったようです。そして、ボッティチェリは1488年にフィリッピーノがローマへ行った後で、同じ1488年頃にサンバルナバの祭壇画を医師薬剤師組合からの注文で描いています。この2点の大型祭壇画の遠近法その他の表現の差(ボッティチェリの方が優れている)は上記ネルソン氏の論考により述べた通りです。この絵を描いた時のボッティチェリの思いを推測すると、かつては弟子だった12歳年下のフィリッピーノに負けて注文を取れなかったボッティチェリは、公的な場所に置かれたフィリッピーノ作のシニョリーアの祭壇画を当然見ていたはずですから、その遠近法の不備や登場人物の配置や表現の単調さ(横一列の配置等)をしのぐ作品を描くという意思(意地)でこのサンバルナバの祭壇画を描いたと思います。上記ネルソン氏の論考では、1493年頃にこの二人にaria virileとaria piu dolceという言葉を残したミラノの代理人は、おそらくこの2点の絵を見ているだろうとのことなので、この2点の祭壇画からaria virileとdolceの意味を考えることは適切だと思います。
(続く)

返信する

コメントを投稿