L’abito non fa il monaco
イタリア語の格言で「着るものは修道士をしない」つまり「人を外見で判断してはいけない」ということなのだが、この人の場合は?
写真:Wikipedia
非常に豪華な生地に、ベルベットを使って刺繍されたザクロがなんとも美しいEleonora di Toledo(エレオノーラ・ディ・トレド)の衣装は彼女の権力の象徴だ。
エレオノーラは美と優雅さだけでなく、ナポリ王Carlo V(カール5世)の娘で、Cosimo I de’ Medici(コジモ1世)の妻という権力も備えた女性だった。
彼女の偉大のイメージは、宮廷画家Agnolo Bronzino(アンニョロ・ブロンズィーノ)の手による。
あまりにも強烈な肖像画のイメージのせいで、長いこと多くの人がエレオノーラがこの衣装、スペイン王宮の最新ファッションでCappelle Medicee di San Lorenzo(サン・ロレンツォのメディチ家礼拝堂)の墓所に横たわっているだろう、と思い込んでいた。
だから1857年大公妃の遺体が掘り起こされた時には、ブロンズィーノが描いた肖像画のような衣装が、数世紀に数世紀の劣化してはいるが発見されるというのを想像していた。
しかし、実際は裾に小さな飾りがついたトレーンが少しだけついた、フェルトの縦じまが入ったサテンのどれすを着ていた。(写真は残っていない)
シルクじゃない、ベルベットでもない、サテンだよ。
また1949年、50年に再度墓を開けた時も、豪華な衣装は見つからなかった。(2度も墓を開けてるよ。死者もおちおち寝てられん!!)
写真:Wikipedia
現在、発掘された衣装はMuseo della Moda e del Costume di Palazzo Pitti(ピッティ宮の衣装博物館)に保管されている。
死者の衣装を剥がすってどうなの…と思うんだけど。
彼女とコジモ1世の息子Garzia de' Medici(ガルツィア・デ・メディチ)の衣装もピッティ宮に有る。
写真:Wikipedia
ブロンズィーノはこの子の肖像画も描いていて
写真:Wikipedia
この服っぽい。
エレオノーラとガルツィア、そしてエレオノーラと一緒に肖像画に描かれたGiovanni(ジョバンニ)は1562年マラリアでほぼ同時に死亡した。(肖像画の子はガルツィアという説も有るが、これが1545年に描かれたとするならジョバンニが妥当と言われている)
じゃあ、ブロンズィーノの描いたこの衣装は何処へ?最初からなかったの?
メディチ家の衣装目録にこの衣装はない。
有るのは布地のサンプルだけ。
画家はおそらく、華やかな市中で手に入る最高級織物を手に入れたのだろう。その生地を使って想像でこの肖像画を描いたのではないか?
1545年に描かれたこの絵は今の時代の広告のような役割を担ったことだろう。
こんな風にファッション誌の表紙のように。
こうしてフィレンツェの代表的な工芸である高品質のシルク職人の技術の高さや繊維の質の高さの宣伝を果たしていたのではないか。
またメディチ家の権力をアピールするにも役にたったことだろう。
昨日頭を使い過ぎてしまったので、今日は軽めにこんな記事にしてみました。
写真・参考:https://www.facebook.com/uffizigalleries/posts/181387370149024
↓ 参考
http://www.silk.or.jp/silk_gijyutu/pdf/1-4setsu.pdf
ボッティチェッリの裏庭 を読みました。
最後になって、ストーリーが飛躍してしまったのが ? でした。子供と四国に来たはずなのに、子供は実は来ていなかったというところです。ここは何回が前後を読み直しましたが、ここだけ無理がある展開のように思いました。
シルクに関する資料をありがとうございます。
イタリアで最もシルク生産が盛んなのは、コモ(湖とジョージ・クルーニーの別荘で有名です。)ですが、初めは南から伝わったとは知りませんでした。
「ボッティチェリの裏庭」、私も同感です。ファンタジーの要素がちょっと残念でした。
絹も中国から中東、ヨーロッパに伝わりましたが、製紙法も中国から中東、ヨーロッパに伝わりましたね。イタリアで製紙工場ができたのは13世紀だそうです。
↓ 参考
https://www.y-history.net/appendix/wh0504-010.html
コモ湖周辺は風光明媚で非常に良い場所ですよね。
紙の歴史についても情報をありがとうございます。ちょっと気になることがあるので、次回の記事にしたいと思います。
1980/7/1
によれば、養蚕の西欧へ伝わったのは ノルマンのシチリアへギョーム1世のころらしいですね。十字軍の副作用だということです。
情報ありがとうございます。
今紙の歴史を調べていた資料に、正教徒の修道士が中国に行った帰り、杖のくぼみに繭を隠して持って帰り、絹の作り方を知ったとありました。それを東ローマ帝国人が盗んで養蚕が広まり、そこからノルマンと有りましたが、どうなんでしょうか?