ここのところミケランジェロ(Michelangelo Buonarroti )が気になっていて、先日予約していた本を図書館に取りに行ったとき、ついでにこの本も借りてみた。
写真:Amazon
池上英洋教授は最近ヤマザキマリとよくテレビや雑誌で見かける、そのミーハーなところは個人的には好きではないが、ルネサンス美術研究者として日本人では第一人者と言ってもいいのでは?
過去に彼の本は数冊読んだことはあったのだが、正直それほど印象に残っていなかったのだが、この本は非常に面白い。
これ、是非美術についてあまり詳しくない人や「西洋美術って難しそう」と思っている人におすすめしたい。
というのも本文が小説と説明の2本立てになっていて、小説が非常に読みやすく、興味を掻き立てる。
そして私はふとあることに気がついた。
いや、すっかり忘れていたのだ。
ラファエロは師の横に並んで歩き始めた。
「それで、先生はもう見たんですか?」
「もちろん。その置き場所を決めるために呼ばれたのだから」
へえ、置き場所も決まっていないのにミケラーニョロは作ってたんですか、と彼は師に聞いてみた。
「いや、もともとほら、そこに置く予定だったから」
そういいながら、彼は大聖堂に正面扉を指さした。それからそのまま手を上方へとあげて、大聖堂の丸屋根(クーポラ)部分を指した。
「クーポラの下の腰階(ドラム)のところがあるだろう、あそこに置こうと考えた人も前にはいたようだ」
えっ、それはいくらなんでも無理でしょうー。そうラファエロが言おうとする前に、同じことを師が口にした。
「あの高さまで持ち上げるためには重すぎるね。また球(スフェラ)を載せた時のような騒ぎになっただろうね」
引用:ルネサンス三巨匠の物語、池上英洋、光文社新書
これはなんのことかというと、今はアカデミア美術館に納まっているミケランジェロのダヴィデ像の話。
この小説では、その後今コピーが置かれているヴェッキオ宮殿の正面への設置が決まり、少しずつ運び出しているところで終わる。
この話を読んで、あることを思い出した。
2010年11月、Florens 2010、 Settimana Internazionale dei Beni Culturali e Ambientali(フィレンツェ2010、国際文化財と環境週間)のイベントの一環で、大理石の粉とガラス繊維強化樹脂(vetroresina)を使ってダヴィデのコピーが作られ、なんと数日間そのコピーのダヴィデが”クーポラの下の腰階(ドラム)”の上に置かれていたのだった。
身長5,17 m、体重400キロ!
勿論現在は文明の利器があるのでいとも簡単に載せた感があったけど、今見ても結構危険。
全然記憶になかったけど、ちゃんとブログにも書いていた。
しかし、実は私この時、なんでこんなところにダヴィデが置かれているのか、ちゃんと調べなかったのよね。
1501年8月16日、若きミケランジェロは、大聖堂造営局の職員と羊毛業組合から大聖堂のための巨大な男性像の製作を依頼される。この巨大な大理石はアゴスティーノ・ディ・ドゥッチョ(Agostino di Duccio)が未完成で放り出し、大聖堂広場の作業場に置かれていたものだった。
通称”ジガンテ(巨人、gigante)”と呼ばれていたこの像は、それまでは誰とはっきりした人物ではなかった。
ミケランジェロへの依頼は、大聖堂のバットレス(控え壁)に旧約聖書を題材とした12体からなる巨大な彫像の連作を飾るという計画があり、この大理石でその1体を作ることだった。
2年半後、ミケランジェロは「ジガンテ」を彫り終えようとしていた。
フィレンツェ政府は大聖堂造営局にこの時代に活躍していた芸術家、知識人を集め、この像の新しい設置場所を考えるよう言った。
市は市庁舎(Palazzo della Signoria)内と、ドナテッロのブロンズのダヴィデが置いてあるミケロッツォの中庭(cortile di Michelozzo)の中央の2か所を提案した。
これ以外にドナテッロのユディト(Giuditta)が置いてある場所という提案があった。
ユディトと入れ替えるという理由は「第1に、ユディトは聖書のヒロインで死のシンボルである。第2に女が男を殺すシーンは美しくない。そして何よりもドナテッロのユディトは不幸を呼ぶ像だ。
この像を広場においてから、フィレンツェはいつも不幸に見舞われていて、最後はピサ(Pisa)に負けたではないか!」
会合に参加していた他のメンバーから他の案も出た。
ボッティチェッリ(Sandro Botticelli)とコジモ・ロセッリ ( Cosimo Rosselli)は大聖堂前の階段、ジュリアーノ・ダ・サンガッロ(Giuliano da Sangallo)は像を一周して眺めることが出来るようにシニョリーア広場にあるランツィの回廊(Loggia di Lanzi)の中央に置くことを提案した。またサンガッロは大理石はもろいので、雨ざらしは避けた方がいいと言った。
多くの人はこのサンガッロの意見に賛成、その中にはレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)もいたという。
余談だが、実はレオナルドの同意やこの会合にボッティチェッリ(Botticelli),ペルジーノ( Perugino), フィリッピーノ・リッピ(Filippino Lippi),アンドレア・デッラ・ロッビア( Andrea della Robbia),アントニオとジュリアーノ・ダ・サンガッロ( Antonio e Giuliano da Sangallo),ピエロ・ディ・コジモ( Piero di Cosimo), イル・クロナカ(Il Cronaca),ロレンツォ・ディ・クレーディ( Lorenzo di Credi) 、フランチェスコ・グラナッチ( Francesco Granacci)が参加していたという記録が2019年大聖堂付属博物館(Museo dell’Opera del Duomo)で公開されていたそうだ。
写真:http://www.artemagazine.it/
この記録は大聖堂古文書館(Archivio dell’Opera di Santa Maria del Fiore)が所蔵1939年に1度だけミラノでレオナルド関係の展覧会で公開されたことがあっただけだったそうだ。
会合の最後、フィレンツェ市は結局ダヴィデをヴェッキオ宮(Palazzo Vecchio)の正面に置くことに決定した。(現在コピーが置かれている場所)
ドナテッロのユディタは現在、ダヴィデの脇にレプリカが置かれているが、オリジナルはヴェッキオ宮内へ、またドナテッロのダヴィデはバルジェッロ美術館に保管されている。
ということで2010年には大聖堂の前に置かれたダヴィデ
写真:https://lisadelgreco.blogspot.com/2010/11/lgbt-arte-il-david-regna-su-firenze.html
そして当時のように木枠に入れられここからヴェッキオ宮の前に運ばれた。
これ見るのにすごく大変だったことはちゃんとこちらに書き残していた。
10年前の話だけど、ようやく何のためにダヴィデがやってきたのか、今頃理解してしまった。
この本を読んで、10年前の宿題を終えた感じ。
参考:https://www.artielettere.it/
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壺屋めり「ルネサンスの世渡り術」芸術新聞社2018
第7話 根回しは相手を考えて の項目にマンガイラスト入りで結構詳しく書かれています。
なお、この著者は本名 古川萌というルネサンス研究者で、ヴァザーリに関する研究論文など多数あり。
https://researchmap.jp/furukawa_moe/
但し、上記石鍋論文では設置場所検討委員会参加者数を30人としており、一方、壺屋氏の本では32人となっています(ともにフィレンツェ市からの伝令2名を含む)。この違いが何であるかは分りませんが、出典の原書が石鍋論文ではチャールズ・ジーモアのMichelangelo’s David, A Search for Identity 1967であるのに対し、壺屋氏の本では参考文献としてサウル・レヴィンのArt Bulletin論文1974とJ.T.PaolettiのMichelangelo’s David, Florentine History and Civic Identity 2015 を挙げているので、これが原因と思われます。詳しいことは今後調べるつもりです。
また、この委員会出席者の多くは画家、彫刻家、金工家など物作りをする人ですが、ファイフ(横笛)奏者のジョバンニという音楽家が一人いて、この人はベンヴェヌート・チェリーニの父親だそうです(その意見は「市庁舎の中庭」です)。チェリーニの自伝(岩波文庫1993年)によると、この父はフィレンツェの権力者が代わる度に、仕える主人に忠誠を誓うような、現代の我々から見ると節操のない人間に見えます(ダヴィデ設置場所検討委員会の1504年はソデリーニの時代ですから、まさに「市庁舎の中庭=メディチ家ゆかりのドナテッロのダヴィデをどかして設置」という反メディチの意見を述べている)。音楽家も楽士として雇われる身分なので、美術家同様権力者の意向に沿って生きるのは仕方がないということであり、当時の芸術家の実態がよく分かる出来事です。チェリーニは15歳頃までいやいやながら笛を吹いていて、それから彫金士に弟子入りしたそうです。チェリーニと言えばロッジア・デイ・ランツィのペルセウスや、ウィーンの塩入れ、そして有名な自伝を思い出しますが、そのチェリーニの原点になるような資料の一つとしても、このダヴィデ設置場所検討委員会は参考になると思っています。
<池上英洋教授は…ルネサンス美術研究者として日本人では第一人者と言ってもいいのでは
貴ブログ4/20の記事「レオナルド~知られざる天才の肖像~来月からWowowで」に対する4/23のコメント「トリノ素描のこと 論争中というよりも… 」で、池上英洋著「レオナルド・ダ・ヴィンチ 生涯と芸術のすべて」筑摩書房2019 について、ダヴィデ像設置場所検討委員会の項目には誤りもあると書きました(委員会にミケランジェロ本人が出席して意見を述べたように書かれていたり、フィリッピーノ・リッピやピエロ・ディ・コジモの案は不明としているが、実際には記録が残っている。氏はレオナルド専門家であってもミケランジェロの専門家ではないので、原典を確認しないで何かの本から孫引きしたのではないか)。この本はレオナルドに関してはとても良い資料だと思いますが、それ以外の部分では注意が必要です(レオナルド研究については現在の日本では第一人者と思います)。
コメントありがとうございます。
本は早速図書館で予約しました。
ファイフ(横笛)奏者のジョバンニについては勉強になりました。
池上氏の件ですが、最初は「レオナルド研究者」としたのですが、ミケランジェロの著作も多いので、書き換えてしまいました。山科様からも「池上さんは、絵画の物質的な面について粗忽なことが多いようです。」とご意見を頂きました。
あら探しをするわけでなく、原典を読みたいので、一般向けの書籍でも巻末にまとめて原典を紹介するのではなく、個々に記入して欲しいと思います。ミケランジェロ、レオナルドの2大巨匠に関しては今まで避けてきたのですが、結構面白いなぁと感じています。ただ、資料が多すぎて…
現代の我々は後の時代のミケランジェロを知っているので、「神の如き」と思ってしまいますが、1504年当時はフィレンツェ内でもまだそこまで高く評価されていないし、政情も不安定だった(逆に15世紀半ば過ぎのフィレンツェがイタリア内部の勢力状況から、例外的に安定した時代だったと言う人もいる)ので、この①②の視点に立てば、ダヴィデ像設置を巡る問題もよく見えてくると思います。ランドウッチの日記に書かれたダヴィデ像移動時の投石事件もよく理解できます。
前コメントで書いた石鍋論文と壺屋氏の本、そしてランドウッチの日記(日本語訳)の1504年5月14日の記事の3点を読めば、ダヴィデ像設置に関する(日本語で読める)情報は全て揃うはずです。是非石鍋論文はご覧いただきたいと思います。また、ランドウッチの日記の該当部分はそれほど長い文章ではないので、お近くの図書館にないようならば、次のコメント投稿で引用します(石鍋論文にも引用されていますが)。石鍋論文をお読みになるまでには時間がかかるかもしれませんので、委員会の内容をいくつかご紹介しておきます。
市の伝令メッセㇽ・フランチェスコの発言「ダヴィデ像を設置しうる場所は2つ。ユディトのある場所(理由はFontanaさんの上記本文の通り、不吉な像であるため)とパラッツォの中庭、ダヴィデのある場所(理由は中庭のダヴィデは不完全な像、後ろの足に欠陥があるため)。どちらかというとユディトのある場所の方がいいと思う。」
→私にはドナテッロのダヴィデの後ろの足に欠陥があるという理由は言いがかりとしか思えません。鋳造には何の問題もないと思います。裸体少年像の局部付近にゴリアテの兜の羽飾りの先端があることに対して、性的な意味合いがあることを何かの本で読んだことがありますが、下記Wikiwandの「ダヴィデ像をめぐる論争」の項には「16世紀初頭のフィレンツェ行政庁の役人が『中庭にあるダヴィデ像は完璧とはいえない。右脚が下品だ』と言及している」と書かれています。石鍋論文中の「後ろの足に欠陥がある」という訳と「右脚が下品だ」のどちらがより正しいかは原文に当たらないと分かりません(ここはFontanaさんに期待したいと思います)。
https://www.wikiwand.com/ja/%E3%83%80%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%87%E5%83%8F_(%E3%83%89%E3%83%8A%E3%83%86%E3%83%83%E3%83%AD)
また、ユディトが不吉な像であるということに関して、石鍋論文の考察ではシエナのフォンテ・ガイアの古代のヴィーナス像が、不幸が続くと打ち壊された例を挙げている(詳細は石鍋氏の著書「聖母の都市シエナ」吉川弘文館1988)ので、ユディトに関してこのような意見が出されたことは十分理由があると思います。
市の第2伝令アラルド(伝令メッセㇽ・フランチェスコの甥)の発言「ロッジアの中のパラッツォに近いアーチの中。中央アーチでは儀式の邪魔になるため。」
→私はソデリーニ政権の市当局としては最初から市庁舎前で決まっていて、この委員会開催は民主的に決めたというポーズ、アリバイ作りだと思っていますので、市の伝令2人の発言が異なることの理由がよく分りません。石鍋論文でもその事には触れていません。
ジュリアーノ・ダ・サンガッロのロッジア案に関して、壺屋氏の本ではいろいろな思惑があっただろうことを述べていて、一方、石鍋論文では「発言の真意は明らかではない」としつつも、「サンガッロとミケランジェロは友人だったので、ミケランジェロの意向を汲んでロッジアを提案したとする研究者(ジーモア)がいるが、別の研究者(ファレッティ)は、サンガッロは若造の作品が名誉ある場所に置かれるのをおもしろくないと思っていたグループの顔役だったので、ロッジアを提案して市庁舎前案を阻止しようとしたと考えている」と書いています。
その他の出席委員の意見として、コジモ・ロッセルリやボッティチェリなど60歳を超える老人は、ダヴィデ像の政治的意味を考慮しない保守的な意見(本来の計画を踏襲する大聖堂設置案)であり、また、ミケランジェロと反目していたレオナルド・ダ・ヴィンチが、市庁舎前という名誉ある場所ではないロッジア案というのも納得できます。フィリッピーノ・リッピが制作者本人の考えにまかせるべき、というのも温厚で皆に好かれたというフィリッピーノの性格を現わしているようです(ピエロ・ディ・コジモは変人で通っていますが、フィリッピーノと同じ意見)。ペルジーノの意見が残されていないのはちょっと残念です。
私は上記の日本語で読める3資料で、1504年当時はどのように考えられていたのかを知ることにより、ミケランジェロのダヴィデ像の持つ意味がよく理解できるようになり、以前は優れた彫刻作品としか思っていなかったものが、それに留まらない意味を持つ作品となりました。2010年の移動再現イベントも、もし今の自分がそれを見ることができるなら、単なる大掛かりな見世物ではない、深い意義のあるものとして眺めることができただろうと思います。
<ミケランジェロ、レオナルドの2大巨匠に関しては……資料が多すぎて
ミケランジェロやレオナルドに関しては資料が多いので、私も何でも読むというわけではありません。ルネサンス美術については、ボッティチェリを中心にして(師匠や弟子などの時間軸、同僚やライバルなどの空間軸も考えつつ)関係する資料としてミケランジェロの手紙、レオナルド・ダ・ヴィンチの手記などの関連部分やダヴィデ像設置委員会の論文、ランドウッチの日記などを(主に日本語訳で)読んでいます。
コメントありがとうございます。
いつも詳しい説明を読むたびに、思っていたのですが(いつも書くのを忘れてしまって。だから今回はまず書きます!)むろさんはこれらの資料についてどのように記憶されているのですか?
私は本を読んでもすぐ忘れてしまうし、どこに記録してかも忘れてしまって…もし何か良い方法が有るなら是非教えて下さい!
さて本題ですが、「ランドウッチの日記」は地元の図書館にありそうなので、近々読んでみます。
ドナテッロのダビデの問題ですが、原本読みました。これ、現代イタリア語ではなかったので、ラテン語かな?とも思ったのですが、そうでもなさそうで、イタリア語の解説をかなり探しました。
原文ではschiochaとなっていて、現代のscioccoだということは私にも分かりましたが、scioccoは「馬鹿な、愚かな、つまらない」という意味で、トスカーナに限っては料理などで「塩気がない、味がない」というときにも使いますが、ここにはちょっとふさわしくないなぁと感じていました。イタリア人も同感のようで、専門家の注では、ダンテやボッカッチョがこの言葉をimprudente、「無謀な、軽率な」という意味合いで用いていたとありました。その後stupido「馬鹿な」ottuso「鈍い」などという意味になるようです。ということで「欠陥がある」とも「下品だ」とも言ってないと思います。
2019年の展覧会の図録に設置についての論文が出ていましたので、それを読んでみます。
本当に今頃になってあのイベントはお祭りではなかったんだと実感しています。
昨日のコメントで書いた「兜の羽飾り~性的な意味合いがある」ということが書かれた本を探してみたのですが、見つかりませんでした。いくつかの本にはこの像の持つ同性愛的な意味が書かれているので、伝令が言いたいことの本質は「下品だ」がまあ近いかなと私は思いますが。
石鍋論文には、「ジーモアの著書には1504年の史料の原文と英訳が付されている」とあるので、英訳の方を使ってこの伝令フランチェスコの発言を記載したのかもしれません。
壺屋氏の本は一般向けの本ということから、会議の本質について大胆に推定を交えて記述していますが、全ての発言内容までは出ていません。石鍋論文は研究論文という性格上、断定的には書かず海外の研究者の論を併記していますが、各委員の発言などは全て書かれているので、史料としてはこちらの方が役に立ちます。私はこの両方を並べて読むことで委員会の実態をより良く理解できると思っています。
サンガッロがロッジア案の理由として上げている「大理石彫刻を屋外に設置することに保存上の心配」があるということに対し、壺屋氏の本では屋外の建築にいつも大理石を使っている建築家のサンガッロが大理石彫刻が風雨に弱いと主張しているのは裏があるとし、石鍋論文ではサンガッロの警告が300年後には現実のものとなり、ダヴィデ像は結局1873年にアカデミア美術館(ミケランジェロの神殿)に祭られることになった、としています。それでは同じく屋外にあるバッチョ・バンディネリのヘラクレスとカクス(1534年設置)はどうなのか、今も雨ざらしであるが問題はないのかと思ってしまいます。そして、前コメントでチェリーニの父がこの委員会に出席していることを書きましたが、面白いことにバンディネリの父(金工家のミケランジェロという偶然同じ名前!カラヴァッジョもそうですが、イタリアにはよくある名前?)もこの委員会に出席しています。その意見は「サンガッロのロッジア案に賛成」。ミケランジェロ崇拝者のヴァザーリは芸術家列伝でバンディネリのことを目茶苦茶に非難していますが、それはバンディネリの父の代からの因縁もあるのか、と思ってしまいます。こういうことも合わせ、今私はミケランジェロのダヴィデ像設置以降のマニエリスムの時代になってからの、シニョリーア広場への彫刻設置を巡るバンディネリ、チェリーニ、そしてヴァザーリも含めた争い(ミケランジェロのダヴィデやドナテッロのユディト、ダヴィデも含めた優劣比較も込みで)に興味が移ってきました。ヴァザーリの列伝中のバンディネリ伝やチェリーニの自伝も参考にしながら、今まであまり意識していなかったこれらのことを少し勉強してみようかと思っています。
<2019年の展覧会の図録に設置についての論文が出ていました
いつ、どこで開催された展覧会なのか、そしてその論文内容についても教えてください。
<あのイベントはお祭りではなかった
私はこういう実際に再現してみる実験や複製の制作は美術史分野に限らず、歴史研究全般にとってとても意義のあることと思っています。大掛かりな実験の例として、海洋学者ヘイエルダールのコンティキ号がインカ文明とポリネシア文明の関連を実証したのは有名な話だし、日本でも大阪で発掘された木製の修羅という道具を復元して、古墳の石棺に使われている巨大な石をどのように運んだのかが分かったとか。イタリア美術の例で、以前テレビ東京の美の巨人たちで、ベルニーニのアポロンとダフネ(ボルゲーゼ美術館)を現代の彫刻家が復元しようとしたが、葉っぱの薄い部分の大理石を糸鋸で切っていくと、何度やっても途中で折れてしまうので、どのように彫ったのか現代でも分からないと言ってました。日本の仏像の例で、芸大の保存科学研究室(奈良県のゆるキャラせんと君のデザインをした薮内左斗志教授の所)で、研究報告会を何度か聞きましたが、奈良唐招提寺講堂の木彫群のうち、最近国宝に指定された薬師如来立像の模刻を行ったら、普通木彫は立てたまま彫るのに、この像は石造の仏像と同様寝かせた方が彫りやすかった(中国から鑑真和上と同行した工人が作ったことの傍証)とか、先日別のコメントで(高山寺の子犬の関連で)書いた湛慶作高知県雪蹊寺毘沙門天の脚部の彫り方の問題で、模刻してみたら片足を膝の付近で割り離している彫り方(湛慶の父運慶などではあまり例のない方法)が脚部と後ろの衣のすき間を彫るために合理的な方法であることが判明した等々。このように実際に再現してみるというのは、表面的な観察や頭で考えているだけでは思いつかないことに気づかせてくれるという意味でとても重要な研究方法であると思います。ミケランジェロのダヴィデ像移動でもランドウッチの日記で木枠に吊ったまま移動したと書いてありますが、これは寝かせて運ぶのでは困難な狭い道路での曲がり角の取り回しなどでこのような方法を取ったのかと思っています(実際やってみたらどうだったのでしょうね?) この再現実験で判明したことをまとめた報告書があれば見てみたいと思います。
<これらの資料についてどのように記憶されているのですか?
私も必要な情報がどこに書かれていたかは思出せなくて困ることがよくあります(今日も上記のドナテッロのダヴィデに関する性的な意味が出ていた本を見つけられず)。これには特効薬はありませんが、本の一部をコピーしたものや論文のコピーなどはすぐ出てくるように大きく分類して箱に入れ、箱の横に本の書名を書くようにしています。論文については画家別、テーマ別に箱に入れるようにしています。仏像彫刻では運慶論文、快慶論文、運慶以降の鎌倉彫刻、といった感じです。本については大きさがまちまちなので、本棚に入れる時には分類しづらいのですが、なるべくひとまとめにするようにしています。Rizzoliは全てまとめて一か所ですね。
また、高価な専門書で必要と思われるものは、すぐには読む気がなくても、図書館で借りられるなら借りてコピーしておくということもあります。必要になったら取り寄せるというのでは時間がかかるし、専門の図書館へ行くのも大変だからです。中央公論美術出版の美術家列伝全6巻(今コピーを持っているのは4巻分。持っていない第2巻を今月中に借りる予定)とかロンギの芸術論叢ⅠⅡ、日本美術では日本彫刻史基礎資料集成などです。これらのコピーはシリーズ毎に箱に入れています。
分類方法や内容を思い出すために良い方法が何かあったら教えてください。
いつも長文のコメントありがとうございます。お返事が遅くなってすみません。
色々調べたので、書きたいことが有るのですが、急に仕事が入ってしまったので、今日書けなかったことは週末にまとめて書こうと思います。
まずschiocheの件ですが、コンディヴィの「ミケランジェロ伝」(高田博厚訳)が丁度今手元にあったので見てみたら、この部分の翻訳が出ていました。ここでは「右足が未完成であります。」と訳していますね。「下品」ほど強い、はっきりした含意はないと思います。他の部分に対して、右足は手を抜いている、というようなことが言いたいのだと思うので、私なら「いまいち」くらいでお茶を濁すかな、という感じです。ちなみにdrietoはdietro、「後ろ」です。
壺屋氏の本、読みました。最初の洗礼堂の扉の話から気になることが色々あって、暫く脱線していました。
彼女がなぜ32人としているのかは、まさにご推察通りサウル・レヴィンが言っています。「出席リストには30人の名前があるが、残っている21人分の意見にはこの出席者30人以外の名前が2名ある」と書かれています。そこを検証しているので、結果は週末にお伝えします。ちなみに私が調べられる限り調べた、他のイタリア語の資料は一貫して30人です。またチャールズ・ジーモアは探せませんでした。
石鍋論文も国立国会図書館で遠隔複写を頼めそうです。ただ、今この論文だけ利用できないので(来館複写予約済のため)、まだしばらくかかりそうですが。
サンガッロですが、イタリア語の関連資料を読むとダヴィデになった大理石はあまり質の良いものではなかった、もしくはノミをかなり入れたので状態が良くなかったようです。大理石は水に弱いので、これは彫刻家としては当然の意見だったと思います。
また今このロッジャに置かれた彫刻達については、痛みが深刻的で、数年前からコピーを制作してオリジナルは美術館に入れようという意見が出ています。
2019年の展覧会は、このページの記事にも書いた大聖堂古文書館が所蔵している、ミケランジェロのダヴィデの設置場所に関しての伝承を書き写した書物の展示でした。みつけた論文もダヴィデの設置場所を検証したものです。英語はなかったのでイタリア語ですがこちらご参照下さい。
https://duomo.firenze.jp/jp/opera-magazine/post/4832/leonardo-il-david-e-l-opera-del-duomo_-visita-la-nuova-mostra-al-museo-dell-opera-del-duomo
(やはりダメだったので、itをjpにしています)
この論文にむろさんが書いていた「私はソデリーニ政権の市当局としては最初から市庁舎前で決まっていて、この委員会開催は民主的に決めたというポーズ、アリバイ作りだと思っています」ということがはっきり書かれていました。
2人の意見が違う理由は今読み込んでいるので、お待ちください。
ちなみにこれ「甥」となっているのですが、実際はフランチェスコの義理の息子で、当時80代だったフランチェスコの後継者として一緒に行動していたそうです。フランチェスコはプラトンスクールに通っていたほどの知識人で建築家でもありました。訳は「伝令」ですが、私は彼は「官房長官」くらい重要な人物(現在の日本において、重要か否かはおいておいて)だったと思います。
「ランドウッチの日記」もようやく図書館で予約しました。
再現時は木枠の下にタイヤがついていましたし、車で引っ張っていたし、メイン通り(Via dei Calzaiuoli)を通っていたので全く問題はなかったと思いますが、このように道が広くなったのは19世紀以降(フィレンツェ首都の時?)のことだと思うので、当時4日かかったというのも理解できます。
やはり資料に関してはみなさん同じような悩みを抱えているのですね。自分だけではないことがわかってほっとしました。
最後にミケランジェロという名前のことですが、現在は殆ど聞きません。もちろん2大巨匠ミケランジェロ・ブオナローティとカラヴァッジョにあやかってつける人もいないことはないようですが、どうしてもルネサンス的な名前、つまり古臭い名前という感じが否めないようです。
ただ、基本的に名前は聖人にあやかってつけるのが一般的なので(今はちょっと変わってきていますが)、多分聖ミカエルの日などに生まれるとミケランジェロとなるかもしれません。たまたま、ということでしようか?
①コンディヴィの「ミケランジェロ伝」のことは思いつきませんでした。私はミケランジェロについては専門的・体系的に調べているわけではないので、このコンディヴィの本はあまり読む気にならないで今まで過ぎてきました。地元の区の図書館にはないのですが、隣接する区にはあるので、そのうち取り寄せてもらいます(今は他の区の図書館への取り寄せ依頼を何件も出しているので、これらが全て終了してからにします)。それで、読めるまでにはまだ時間がかかるので、一つ質問です。「この部分の翻訳が出ていて『右足が未完成』と訳している」の「右足が未完成」というのは誰が書いたのでしょうか? コンディヴィ自身?or日本語訳をした彫刻家高田博厚の注釈?(orこのミケランジェロ伝を出版した海外版があればその時の注釈?)石鍋論文によれば「史料は出席者たちの意見を速記メモのような形で書き留めている。そのため表現が断片的だったり、言葉が足りなかったりする」とあります。ミケランジェロと同時代人であるコンディヴィがこの「速記メモ」のような委員会記録を目にすることができたのか、ということが疑問点です。
②ミケランジェロ関係の海外図書・論文
チャールズ・ジーモアのMichelangelo's David : a search for identity、芸大図書館にあることを確認しました。
http://opac.lib.geidai.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BA51616530?hit=1&caller=xc-search
石鍋論文に「ジーモアの著書には1504年の史料の原文と英訳が付されている」とあるので、
schiochaを英語では何と訳しているのか、出席者数30人と32人の違いの件、そして後に書きますが、ダヴィデ像用の巨大な大理石の最初の制作にドナテッロが関与している可能性があることがジーモアのこの著書に書かれている、この3つの件についてジーモアの本を確認したいと思っています。しかし、芸大図書館は現在学外者利用不可なので、いつから使えるのか不明です。バーリントンマガジンなど新しい海外雑誌も確認できないので、はやくコロナ問題が終了し、芸大図書館が使えるようになる日を心待ちにしています。それまでの宿題です。
John T. Paoletti and Rolf Bagemihl のMichelangelo’s Davidは芸大図書館にはありませんでした。ネットでも公開されていません。Amazonなどでは買えますが、買ってまで確認する気はないので、今後の宿題です。
Saul LevineのArt Bulletin, Vol 56, Issue 1(1974)論文の方はネットにありました。
https://dokumen. jp /reader/f/the-location-of-michelangelos-david-the-meeting-of-january-25-1504
(tipsをjpに置き換えて送りましたので、tipsに戻してクリックしてください。)
雑誌のP36(ネット公開文書では20分の7)で、問題のschiochaを英語ではawkward(ぶざまな、へたな、具合の悪い)と訳しています。そちらでもサウル・レヴィンの論文を確認されたそうですが、この同じURLの文書ですか? なお、出席者数30人と32人の違いの件、この論文で何と書かれているか、まだよく読んでいないので分かりませんが(この件はそちらで確認されているとのことなので、その結果を待ちます)、この英訳の論文があれば、委員会のことに限れば、ジーモアの本もパオレッティの本も、急いで確認する必要はないかもしれません。
長くなったので、一旦区切ります。次回コメントでドナテッロのダヴィデとユディトの性的な意味合い、及びこれを受けてschiochaの意味(含意も)とダヴィデ用の巨大な大理石にドナテッロが関与している?件について書きます。その他の上記貴コメントに書かれたいくつかの件(フィレンツェの通りを広くした時期のことなど)についての感想もその時に。
まず、最近図書館で借りた本に、2010年にダヴィデ像の複製をフィレンツェ大聖堂の上部に設置した時の写真が出ていました。上記本文では下から見上げた写真ですが、この本ではダヴィデ像より少し高い位置から見下ろす写真です。また、1873年のシニョリーア広場からアカデミア美術館に運ばれた時の、木枠に入れてレールの上を動かす写真(作業員が休憩しているところ)も出ていました。
本の題名は「彫刻の歴史 先史時代から現代まで」、アントニー・ゴームリー、マーティン・ゲイフォード著、石崎尚、林卓行訳、東京書籍2021年10月20日発行。392ページの分厚い本で、彫刻の通史というよりも、著者が考える「彫刻とは何か」に対する対話といった感じの本です。ルネサンスの彫刻はあまり多く扱っていません。ミケランジェロのダヴィデ以外で注目した掲載写真は、オルサンミケーレのヴェロッキョ作聖トマスの不信。このキリスト、トマス2体の像の背面が出ていて、背中は作られていないことが分かります。このような写真を見たのは初めてです。
お近くの図書館にあるようなら、一度ご覧になってみてください。
次に、上記コメントのやり取りの中で話題に出たコンディヴィの「ミケランジェロ伝」(高田博厚訳)。地元の図書館にはなかったので、他区から取り寄せてもらいましたが、やっと手元に来ました。私が知りたかったのは、ドナテッロのダヴィデの「右足が未完成」という翻訳は誰が書いたのか(コンディヴィ自身が記録文書を読んでいた?高田博厚の注釈?ミケランジェロ伝海外版の注釈?)。
結論は、1977年の改訂版出版時に福田真一という人が書いた注釈の中にありました。
後書きその他から分かったこの本の出版の経緯は、大正11年(1922)に20歳ぐらいの彫刻家高田博厚が翻訳し、岩波から出版。その後1977年に改訂版を出すことになり、50年間の研究蓄積を反映した注釈を、森田義之の協力の下、福田真一が作成し岩崎美術社から出版したものです。
1977年の改訂作業なら、上記コメントで書いたSaul LevineのArt Bulletin論文(1974)は当然参考に使っているはずですから、schiochaの英訳awkward(ぶざまな、へたな、具合の悪い)を見て「未完成」としたのかと思います(あるいは原文に当たっているかもしれません)。
なお、この注釈を読んでいて気になったのは、ダヴィデを運搬する時の記事として、ランドウッチの日記の文章をほぼ全文引用(P130)しているのですが、「これを書いた人の名は判らない」としていることです。
辻邦生が小説春の戴冠を執筆し、単行本を出した直後の辻―高階対談(新潮社「波」1977年掲載)で辻は「(春の戴冠の元ネタの一つとしてのランドウッチの日記は)イタリア語版しかなかったが、後で英語版が出たので随分助かった」と書いていますので、1975年頃には英語版が読めたはずです。コンディヴィの「ミケランジェロ伝」注釈には森田義之が協力していて、ランドウッチの日記の文章を引用しているのに、著者不明としているのはどういうことなのか、と思ってしまいます。(専門家でも見落としていた?)今ではランドウッチの日記の日本語訳が読めるようになった(近藤出版社1988年)ので、こういうことはないと思いますが。
コンディヴィの「ミケランジェロ伝」ではもう一つ、付録として別冊になっている「ミケランジェロの詩と手紙」の収録文書数のことに注目しました。この本では1506年から1563年までの約130通を扱っていますが、以前コメント投稿にも書いた杉浦民平訳「ミケランジェロの手紙」(岩波1995)では1496年から1564年までの528通となっていて、70年間の研究、発見の成果というものを感じます。なお、1496年の最初の手紙はボッティチェリが取り次いだピエルフランチェスコ・メディチあてのキューピッドの贋作に関する内容ですが、これについては付録の方ではなく「ミケランジェロ伝」注釈(P124)に掲載されています。また、1564年の最後の手紙(亡くなる4日前)は付録の方にも「ミケランジェロ伝」注釈にも掲載されていませんが、注釈には同じ時期の周辺人物の手紙の内容が出ているので、両方読むことでより詳しい状況が分かります。
コンディヴィの「ミケランジェロ伝」と付録を手にして感じたのは、古い研究書を読む時にはその後の研究成果も踏まえていないと、誤った情報や不完全な情報を得ることもあるということです。古典的な名著とされているようなものでも、そういった意識は常に持っていたいと思います。
長くなったので、ドナテッロのダヴィデの右足に関するschiochaの意味のことは改めて投稿します。