イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

Benozzo Gozzoli(ベノッツォ・ゴッツォリ)の2枚のSan Sebastiano(聖セバスティアヌス)その5

2020年06月10日 17時44分50秒 | イタリア・美術

前回はPieveが何か、ということだったのだが、実は現在目的地はPieveではないのだよ。
Pieveとして建てられたのは1000年頃、そして1056年には教皇Vittore II(ウィクトル2世)の希望でProposituraに。
あ~、全く、Proposituraって何よ~辞書にないじゃん!!
と思ったら、これトスカーナ方言。標準語(トスカーナ語が標準語じゃないのかよ~⁉)ではPrepositura。「聖堂参事会長[司祭長]の職[官舎]」ですと。
き~じゃあ「聖堂参事会」って何よ~!!
う~ん、本当に宗教用語は分からん。

"中世都市の大聖堂が、司教によって管理・運営されていたのは知られています。しかし、全ての大聖堂に司教が座したわけでもなければ、ひとりの司教がひとつの大聖堂の全てを支配していたわけでもありません。となれば、司教を補佐する、あるいは司教なしで聖堂を管理する役職が必要となります。この役目を果たしたのが、聖堂参事会でした。聖堂参事会は、聖堂に属する聖職者の集団です。この聖堂参事会は大きく、司教座聖堂付きと参事会聖堂付きにわかれます。文字通り前者は、司教座のある聖堂で働く参事会であり、後者は司教のいない聖堂で職務をこなしました。"
と非常に簡潔で分かりやすい日本語の解説が見つかって良かった、良かった。
引用はこちら

1148年ローマへの帰り道に寄った教皇Eugenio III(エウゲニウス3世)が献堂した。
Wikipedia及びその出展元のなっているコトバンクの「ローマ教皇エウゲニウス3世により建設された」「建造された」は誤り)
今は公共手段では割と行き難い観光地の1つだが、12世紀頃のSan Giminanoはvia Francigena(フランチジェナ街道)が通っていたことで、経済的にも非常に発展した重要な都市だった。(昔こちらにちょっとだけ書いていた。)
詳細は省くが、この頃街だけでなく、この教会も教皇のおかげで、非常に力をつけていく。
そしてついに1471年にはCollegiataに昇進した。
collegiataとは「司教座聖堂ではないが、聖堂参事会に管理される教会」と伊和辞典には出ている。
つまり司教はいないが、司教座聖堂と同じくらいの力を持ったということになる。
その後1575年には、Basilica collegiata di Santa Maria Assuntaになり、2度目の献堂がされた。

建物はというと、何度も様々な改修、改築がおこなわれたが、これも詳細は省く。
今私にとって一番重要なのは、教会の方位を入れ替えたということ。
現在の教会はこんな感じ。

Piazza Duomo(ドゥオーモ)広場から階段を上ると2つの入り口を持つファサードへ。
ところが12世紀,元のアプシスが有った側がファサードになり、今のアプシスがファサードになった。
こちらをファサードにしたことで、広場からフランチジェナ街道や街の他の有力な教会などがDuomoに集中するようになった。

この新しいファサードの裏(中側)にBenozzo Gozzoli(ベノッツォ・ゴッツォリ)のSan Sebastiano(聖セバスティアヌス)が描かれることになったのだが、実はこの教会には既にSan Sebastianoに捧げられた礼拝堂が存在していた。
Cappella dei Santi Fabiano e Srbastiano(聖ファビアヌスとセバスティアヌスの礼拝堂)もしくはCappella dell'Anninciazione(受胎告知の礼拝堂)
この礼拝堂は、1348年のペスト収束後のex voto(奉納物)として造られたもので、1300年代に作られた「受胎告知のマリアと天使」の彩色された木彫が置かれていたが、今はJacopo della Quercia(ヤコポ・デッラ・クエルチャ)の彫刻とMartino di Bartolomeoの装飾が残っている。


San Fabiano(聖ファビアヌス)は元は教皇でもあった人で、ローマ皇帝(Decio)の迫害によって殉教した。
このSan FabianoとSan Sebastianoという組み合わせも非常に多い。
Cronografo del 354という西暦354年の歴史書に
”XIII Kal. feb. Fabiani in Callisti et Sebastiani in Catacumbas.”
という表記があるが、FabianoがCatacombe di San Callisto e Sebastiano(聖カリストとセバスティアヌスの地下墓所)に葬られたと記されている。

それより何より、二人の関係性を強くするのは、二人が殉教したと思われる日が同じ、という偶然。
Fabianoは250年1月20日で、San Sebastianoは287年の1月20日。
ということで、昔からこの二人は一緒に祝われることが多い。

他にも2人の共通点は、ローマ皇帝に迫害されたこと。
古い殉教者録にも二人の名前は一緒に載っていて、使徒書簡集(Epistola)にもこの2人の聖人は「この二人はキリストへの完璧な信仰を証明した。」なぜなら「人の子として迫害を受けた。」とある。

例えばBenedetto Bonfigli(ベネデット・ボンフィーリ)のこの作品。
ネットで検索するとかなり色々な画像が出て来るのだが、どれも詳細がない。

突然ですが時間切れ!
今日も中途半端なところで終了になってしまった。



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2 コメント

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聖堂参事会員 (山科)
2020-06-14 14:53:47
聖堂参事会員といえば、14世紀フランスのギョーム ド  マショー(作曲家)、15世紀初めのカンブレのギョーム・デュファイ(作曲家)を思い出します。14-15世紀の聖堂参事会員の仕事は遺言執行人、訴訟代理人、ワインの仕入れと貯蔵、聖堂の財務官など、ずいぶん俗っぽい業務が多かったようですね。また、聖堂参事会員という資格それ事態が一種の終身年金終身雇用閑職のような利権的性格ももっていたようです。
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ありがとうございます。 (fontana)
2020-06-15 14:17:34
山科様
聖堂参事会員について教えて頂きありがとうございます。まるで国会議員のようですね。
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