イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

Benozzo Gozzoli(ベノッツォ・ゴッツォリ)の2枚のSan Sebastiano(聖セバスティアヌス)その4

2020年06月08日 16時17分00秒 | イタリア・美術

ComuneはSan Sebastiano(聖セバスティアヌス)の絵を描かせることを決して諦めたわけではなかった。
1465年1月、いよいよSan Sebastiano(聖セバスティアヌス)の祭日も近づいたある日、 ComuneはPieve(教区教会。現Collegiata)にろうそくを寄付し、絵の製作に関することを任せるべく2人の人物を選出した。

かなり混んだ記事を書くときは、ネットで手に入る資料か、自分が持っているイタリア語の資料を参考にしているのだが、イタリア人には至って普通のことも、全然ピンとこない単語というものがある。
特にキリスト教徒ではない私にとって、宗教関係の用語は一番難問。
単語をイタリア語で更に調べるが、それすらピンと来ないことが有るので、もしかしたら勘違いをしていることが有るかも…と思いながら書き進めているので、もしその辺の間違いに気が付いたら是非指摘欲しい。

さて、今回引っかかってしまったのは”Pieve"と普通の教会の違い。
私の頭の中ではPieveというのは、「郊外にある教会」という漠然とした理解しかなかったのだが、この機会にちょっと調べましょ。

Pieveを伊和事典で引くと「教区教会」と出て来るのだが、日本語の「教区教会」をネットで検索すると大抵イタリア語のparrocchiaが出て来る。
はて、なぜか?う~ん、面倒なことになりそう…
仕方がないので更に調べてみると、どうやら一般的に「教区教会」はイタリア語のparrocchiaを当てている。実はpieveというのは、中央ー北イタリアとコルシカ島のみの、限定した呼び名だということが分かった。
中世後期にはPieveの機能はParrocchiaに移行されている。
ということでpieve=Parrocchiaと考えて良さそうだ。
ちなみにPieveという名前はラテン語のplebs、日本語では市民・民族・住民などという意味になる。

紀元後313年、ローマ皇帝Costantino I(コンスタンティヌス1世)の「ミラノ勅令」によりローマ帝国においてキリスト教が公認されたことにより、キリスト教は益々信者を増やし発展していった。
そしてついに380年、Teodosio I(テオドシウス1世)によってキリスト教は国教化され、ゆるぎない地位を得た。
古代のローマはローマ帝国の首都として初代教会の信徒たちにとっても特別な場所であったため、ローマの司教(伊:vescovo)も兼ねたローマ教皇(伊:Papa)はキリスト教徒の頂点に立った。
教会制度はローマ帝国の行政制度にあわせてつくられていった。
一定の領域を司教区(伊:dioecesi)として分け、司教にその管理を任せた。
司教は教区の管理、運営の最高責任者として、地区裁治権を有していた。
司教区内で最高の権威をもつ教会を司教区大聖堂(伊: Cattedrale)と呼ぶ。街で一番重要な協会をドゥオーモ(伊:Duomo)と呼ぶことから、司教大聖堂はたいていドゥオーモと呼ばれる。
それぞれの教区には、パロキアル(伊:parrocchia)とよばれる最小単位共同体が散在していた。

キリスト教が発展するにつれ、信者は街だけでなく、郊外にも増え、それに伴い郊外にも教会を建てる必要にが生まれた。
そこで郊外に建てられたのが、洗礼堂を備えた教会、それがPieveだった。
Pieveは大抵主要道路や川の岸や谷底に作られた。
イタリアに最初のPieveが建てられたのは、7世紀末、トスカーナでだった。
Pieveと他の教会の大きな違いは、Pieveは「公の教会」であるということ。
もちろん管理をしているのは教区の司祭であったが、かなり市民に近い存在だった。
Pieveの役割は2つ。
一つは当然教会としての宗教的な役割。
教区の市民たちに施す秘跡(洗礼・堅信・聖体・告解・終油・叙階・婚礼の7つ)。
そして「10分の1税」の徴収だった。

「10分の1税」とは、中世教皇庁が農民から徴収した税の一種。
農民は生産物の10分の1(10%)を教会に納めなければならなかった。
というのも『旧約聖書』の「レビ記」・「申命記」に、全ての農作物の10%が神のものであると説かれているからである。
ただし、ローマ法にはこの規定がなく、あくまでも自由意志に基づく納付であるとする見解も存在し、同じキリスト教国であってもビザンツ帝国では課税されていなかった。
本来は農民が村の教会を維持するために納めていたのだったが、585年のフランク王国の司教会議で、10分の1税の納付を怠るものは破門できるものと決定され、ほぼ義務化された。
更に779年、カール大帝がヘルスタル勅令を出し、10分の1税はフランク王国に住む全住人が教会に納めるべき税金であると定め、以後一般的な税の一つとなり、カロリング朝時代にキリスト教徒が司教区に払う税として定着した。
各地の司教が徴税の決定権を持った。

またPaviaの全てが郊外に作られたわけではなく、街の中に作られたPieveというのも存在している。
例えばArezzoのSanta Maria della Pieve(サンタ・マリア・デッラ・ピエベ)
ここは元々聖母に捧げた教会が有ったのを、Comuneがお金をだして現在のPieveに改修した。

Pieveのシステムも封建領主やシニョリーア(伊: signoria)の台頭に伴い、次第に崩れてくる。

参考:東京カトリック大司教区
「小教区」制度について詳しい情報が載っていた。



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