イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

Madonna della Misericordia(慈悲の聖母)

2016年12月19日 14時53分18秒 | イタリア・美術

今年はGiubileo della Misericordia、慈悲の(特別)聖年でした。
Misericordia(ミセリコルディア)、辞書を引けば「哀れみ」とか「同情」などの意味が一番に出てきますが実はそれだけではありません。
Misericordiaという名前が付いたConfraternita(信者会、兄弟団)が多く存在する他、Firenzeには援助が必要な人を助けてくれるMisericordiaという宗教とは関係ない団体が有ります。
彼らが救急車を走らせ、体の不自由な人のお手伝いをしていると聞いています。
Duomoの右側に今でもMisericordiaは有ります。その前にはよく救急車が停まっています。
Venerabile Arciconfraternita della Misericordia di Firenzeというのが正式な名称。
1244年に設立された団体で、病人を助ける団体としては最古であると同時に、記録に残っている最古のボランティア団体とされています。 
ちなみにConfraternitaというのもこちらでは良く聞くのですが、ここら辺の違いが全然良く分からないので、ちょっと調べてみました。
Confraternita、兄弟団(この訳もどうなんだろ?)とは、「共通の守護聖人に帰依し、善行を通じて死に備え、来世での救済を希求した慈愛のためのネットワーク的団体である。」
ってよく分からんよ。
日本で言うところの「互助会」みたいなものかと思っていた。

一般に毎年加入金さえ払えば身分や職業、居住地域の区別なく、また女性や子供も入会できた。
会員はキリスト教の7つの愛徳を実践することを期待された。すなわち、病気のメンバーを見舞い、貧しいメンバーにはパンや飲み物・衣類などを分け与え、また物故したメンバーを埋葬し、物故者の魂の救いのため一定期間主の祈りなど祈祷文を唱える義務を負っていた。
また、処刑前の罪人の元へ赴いて慰めを与えたり、貧しい子女の婚資を援助するなどの活動も行い、新たな信心の形態を求めて、能動的な宗教・社会活動に従事した。”
というのがConfraternitaなんですって。 

さて、では今日ご紹介するMadonna della misericoldia、もしくはMadonna del Mantoと呼ばれている図像は中世後期に現れます。

その中でも一番有名なのが先週見てきたこれ。
でも実はこれ今年Forlìで行われた展覧会の時見ていました。
その時にPiero della Francescaについては詳しく書いたので、ここでは説明を省き、Madonna della misericordiaについてだけ、今日はお話させていただきますね。

Modonna della mosericordiaという絵は、まず聖母は大抵立っています。(大抵赤ちゃんキリストはいません)
腕を伸ばしてマントを広げ、その下に救いを求める人々を囲っている、こういう構図を持った作品のことを言います。
特にこの絵は長い間ヨーロッパを恐怖に陥れていた伝染病のペストから守ってもらうことを祈念して描かれました。
 Vergine del SoccorsoとかMadonna del buon Soccorsoと呼ばれるタイプのものも同じような意味をで作られています。
聖書の中にもEliseo(エリシャ)がElia(エリヤ)から後継者の証として渡されたマントが市民を助ける下りが有るように、マントには強い救済の意味合いが有るようです。

Madonna della misericordiaが多数描かれたことは聖母崇拝と密接に結びついていることは確かですが、この聖母崇拝の歴史はかなり複雑なんですよねぇ…
詳しいことは割愛しますが、 11世紀頃から、西ヨーロッパでは国王の権威の衰退とともに、教会の権威が高まり、自らの権力の汚れなき象徴としてマリアのイメージ徹底的に利用するようになります。
こうしてマリアは天と地の女王として、人々のうえに君臨することになり、「荘厳の聖母(マエスタ)」と呼ばれる、キリストをひざの上に乗せた聖母子像や「慈悲(ミゼリコルディア)の聖母」が描かれるようになります。

このMadonna della misericordiaの図像は13世紀スウェーデン人の聖ビルギッタ (Santa Brigida, スウェーデン語:Heliga Birgitta, 1303年-1373年7月23日)が見たという幻視が元になっているようです。
ビルギッタの前に聖母マリアが現れてこう言いました。
「私の大きなマントは私の慈悲の心…我が息子が私に与えた慈悲。私のマントの下へ守られにいらっしゃい私の娘」
マントは悪魔をよけると考えられたリ、尊厳、保護、慈悲の象徴とされていました。
Pieroの聖母は青いマントをまとっていますね。
この聖母のマントの青は「天」を表し、青を出すために使われていたラピスラズリが非常に高価だったことから、聖母のように重要な人物にのみ用いられています。
だから青がいっぱい使われたフレスコ画などを見た時は、「ここのパトロンが権力者だったんだな」、と想像してくださいね。 
この「青」に関して、日本語の説明を読むと「青は海」と書いている人が結構多いですが、それはないと思います。 
ちなみに聖ビルギッタはスウェーデンの守護聖人だそうです。 

と、ここで、先日も登場した昔授業で使ったテキストをみていたらちょっと面白いことが書いて有りました。
そこには「様式の違いを時系列で区別することは出来ないと書いて有ります。」
年号のように、昭和天皇が亡くなった翌日から平成になる、というようなはっきりした区切りが芸術には不可能なんです。
つまりゴシック様式は1400年初期まで、その後は全部ルネサンス、と分けることは不可能なんです…という良い例がこれ。

この作品は先日大雨警報が出ている中行ったSaluzzoというTorinoからバスで1時間半くらいの場所にある街にある作品(知らなかったと天気のせいで実物は見られななかったのですが)
Hans Clemerというフランス人だけど、長い間Piemonteで働いていた画家が残したもので、現在はCasa Cavassaが所蔵しています。
多分Castello dei Marchesi a Revelloの礼拝堂の祭壇画として描かれたもので、Ludovico II公爵と妻のMargerita de Foixの依頼で描かれたと考えられています。
この作品は1498-99年に描かれたもの。
背景の金、豪華な衣装や装飾など典型的な国際ゴシック様式の特徴を持った傑作です。
大体このマリア珍しいですね。服の色が黄色(金?)だ。
ただ視点を変えてみると、既に150年になろうという頃、Leonardo da Vinciはミラノで、若きRaffaelloはPeruginoの工房に、MicelangeloはRomaでPietàを制作中という時期でした。
その時代に国際ゴシック様式…

Piero della FrancescaのMadonna della misericordiaは1445年から1460年の間に作成されたものですが、既に遠近法を用いた空間設定。
マントに立体感が有るし、全ての位置が綿密に計算されて描かれていることが研究から分かっています。
同じテーマMadonna della misericordiaで描かれていても、共通点は背景が金、ということだけ。
ということで言ってしまえばHans Clemerの作品は一般的に時代遅れの作品ということになってしまいましが…

こういう交差(?)が起こる理由はいくつかあります。
まずこのCuneo地区はフランスとすごく近いことからフランスの影響を強く受けています。
画家もフランス人だったくらいですから。
そしてまぁこれが最大の理由だと思うのですが、結局はパトロンの好み。 
この時代画家たちは自分の自由なアイデアで作品を作ることは出来ませんでした。
今の世の中みたいに、情報があっという間に世界中を駆け巡るなんて想像も出来ない時代のお話でした。
どうやらフランチェスコ会の影響で描き始められたこのMadonna della Misericordiaは200年くらいで描かれなくなってしまいました。 
200年…2か月で流行が変化する今の時代では考えられないくらい、ゆっくり時間が流れていた時代のお話でした。 


ペスト対策ということで、この絵のように聖セバスティアヌスが描かれることもあります。
セバスティアヌスは黒死病から信者を守ると言われています。
というのも『黄金伝説』に、グンブルト王時代にロンバルドを黒死病の大流行が襲った際、パヴィア地方にある聖ペテロ教会で聖セバスティアヌスの祭壇を建立したことで、流行が止んだという記述があります。
これはBartolomeo Caporali (Perugia, circa 1420 - 1503/1505)が1482年に描いたもので、Montone (Perugia)のMuseo Civico di San Francescoに所蔵されています。

この絵の更に興味深いことは、上の部分にCristo giudice(審判者キリスト)が3本の矢を持つ姿で描かれていて、(戦争、ペスト、飢餓を象徴しています)
その両脇に2人の天使がいて、聖人に囲まれ人々を守る聖母を指して、キリストが矢を射るのを止めています。 
マントの中には左側にSebastiano(聖セバスティアヌス), Francesco(聖フランチェスコ)、Biagio(聖ビアッジョ),
右側にはNicola(聖二コラウス)、 Bernardino(聖ベルナルディーノ),
後ろにはMontoneの町の守護聖人il Battista(洗礼者ヨハネ), 教区の聖人san Gregorio(聖グレゴリウス), フランチェスコ会所属の奇跡を起こした聖人 Antonio di Padova(パドバの聖アントニウス)がいます。
一番小さな人たちは拝んでいる信者、向かって左側に男性と子供、右側に女性が描かれています。 
聖母の足元に描かれているのはMontoneの街です。

遠近法は関係なく、重要な人物ほど大きく描く、というのも中世の宗教画の特徴の1つです。 

 



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2 コメント

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メムリンクとの関係 (山科)
2016-12-21 07:17:30
 二十世紀末ごろに書いたURLの記事で、
メムリンクに、このミゼルコルディアの聖母を模倣した図像があることを指摘しておきました。聖母ではなく聖ウルスラが主人公になっていますが、、
まあ、当時のブリュージュにはイタリア人がいて、メムリンクのパトロンに2人もいましたから、そういうところから伝わったのかもしれません。
このメムリンクとイタリアというテーマはその後確かエリザベス?という女性研究者が本にしていたようで、ウフィッティの売店で2005年に観た憶えがあります。
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ありがとうございます。 (fontana)
2016-12-21 21:42:40
山科様
今年ブリュージュに行った時に見たのにすっかり忘れていました。記事、ありがとうございます。
2年前にローマで行われたメムリンクの展覧会のカタログを引っ張り出してみたのですが、この絵に言及した記事は見つかりませんでした。今もう1冊資料を取り寄せていますが、それにも何か載ってるかなぁ…色々見てみるとドイツやフランスでも流行っていたようなので、そこら辺からかもしれないですし、PiemonteはHans Clemerの時代には既にフィアンドル地方との貿易が頻繁だったようなので、そのせいかもしれませんね。とても興味深い情報ありがとうございます。
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