イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

浦上天主堂

2018年07月06日 10時23分17秒 | 日本のこと

皿うどんを食べ、英気を養ったあとは浦上天主堂へ。
原爆記念館から歩いて10分くらい。

現在の教会は1959年に鉄筋コンクリートで再建されたもので、1980年、レンガタイルで改装し、当時の姿に似せて復元されました。こちらは司教座聖堂、カテドラル(Catedrale:イタリア語)です。

1981年には当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世がこちらを訪れ、ミサを執り行ったそうです。

「空飛ぶPapa(教皇)」と呼ばれ、世界各国を歴訪した教皇の像が入り口に有りました。
ヨハネ・パウロ2世(Giovanni Paolo II)が教皇の座に着いたのは1978年、その3年後にはフィリピンから訪日を果たしたことは、彼がどれだけこの極東地域に思いを寄せていたかが分かります。
教皇が長崎を訪れた2月26日には、長崎では珍しく雪が降ったそうです。
これも教皇が起こした奇跡、もしくは迫害を受けた信者の思いだったのかもしれません。

この教会は、禁教令が解かれた1873年に浦上の信徒たちが教会建設計画が立ち上がりましたが、資金がなかなか集まらず難航していたところ、およそ20年を経た1895年ようやくフレノ神父の指導で建築がスタートします。
赤レンガ造りのロマネスク様式の浦上教会は、建設計画が起こってからおよそ30年の年月を費やし、ようやく1914年献堂式が行われました。

ん?「ロマネスクってどんな特徴が有ったけ?」と思ってしまったのですが、ロマネスク建築の一番の特徴は2本の鐘楼。こちらの教会にも聳え立っています。最上部にはフランス製のアンジェラスの鐘が備えられました。

しかし東洋一の教会、浦上教会は1945年8月9日、長崎に落とされた原爆の爆風により一瞬のうちに崩壊、火災で屋根と床は焼失しました。
堂内にいた2人の神父、30数名の信者は即死、浦上教会地区1万2000人の信徒のうち8500人が死亡したそうです。
聖堂、司祭館などは堂壁の一部を残すのみで壊滅的な打撃を受け、敷地内にあった聖人像などの石像もほとんどが大破、2本立っていた鐘楼の塔のうち1本は天主堂内部に倒れ、他方は近くの川へ転げ落ちました。(参考:長崎市 平和・原爆

転げ落ちた鐘楼はこちら

今でも1945年当時の場所にあります。

原爆が落ちた後はこんな状態でした。

この中央右に落ちているのがそれでしょう。5トンほどあるということです。
”川いっぱいにはまりこんで流れをふさいでいたので、信徒たちが取り除こうとしましたが、爆破するにしても、占領軍の許可がなければ火薬は使えません。地主と相談のうえ北側に川をつけかえて土手に半分埋もれた現在の姿になりました。”
(長崎市 平和・原爆周辺マップより)
しかし原爆の爆風に耐えたもう一方のアンジェラスの鐘は、今でもしっかり時を告げているそうです。

天主堂の左側の植え込みには、熱線で黒く焦げたり、鼻や腕、指がもぎとられたり、頭部を欠いた痛ましい聖人の石像もありました。

右側には聖母子像
これは新しいものでしょう。

そしてこちらは原爆関係ではなく、更に時代が遡って禁教関係。
拷問石です。
改宗を拒んだ信者を、幕府はありとあらゆる苦しい手段を用いて改宗させようとしました。その名残。

”浦上キリシタンの歴史は迫害の歴史でもある。1790年(寛政2)の浦上一番崩れより、1867年(慶応3)の四番崩れまで4回の迫害を経験した。最後の四番崩れにおいては、浦上全村民3394人が西日本を中心とする20藩にお預けとなり、644人が殉教した。1873年(明治6)信教の自由が認められ、1883人が浦上へ戻った。80年、これらの信徒は、庄屋屋敷跡を買い取り、仮聖堂とした。この屋敷は、1857年(安政4)まで踏絵が行われたつらい思い出の地でもあった。”(引用:日本大百科全書
そこが浦上教会になったのです。
ちなみに「崩れ」とは幕府や政府によるキリスト教徒の検挙、弾圧のことで、キリスト教徒の「受難」を意味するそうです。浦上のキリシタンの受けた4度の「崩れ」と原爆による被害を加え「浦上五番崩れ」と呼ぶこともあるそうです。

内部はきれいなステンドグラスで飾られています。
そして非常に印象的だったのはこのマリア様。
教会に右側から入ったら、出口の方にいらっしゃいます。


「被爆のマリア」と呼ばれているこのこの悲しげなマリア様は、1914年に浦上教会が完成した時にスペインから送られて来た木製のマリア像で、正面祭壇、最上段に安置されていました。
マドリッドのプラド美術館所蔵のムリーリョの「無原罪のお宿り」がモデルと伝えられているそうで、両眼には青いガラス玉、水色の衣をまとい、頭の周りを12の星が取り巻く美しい像だったそうです。(「イタリアから送られた」と書いてあるものも有りますが、もしムリーリョがモデルならスペインからというのが妥当でしょう)
ところが1945年教会は原爆により壊滅状態に。マリア像も教会とともに破壊されたと思われていたのですが、戦後、焼け跡を訪れた浦上出身の神父によってマリア像の頭部のみが発見されました。
その後、その神父により大切に保管されていたマリア像の頭部は、被爆30周年の年に、キリシタン研究家である片岡弥吉氏によって浦上教会に返還されたそうです。
「平和」の文字が書かれた祭壇は、浦上キリシタンが迫害時に縛られて見せしめにされた柿の木の根っこを使用して書いたもの。
原爆で自ら傷ついたマリア像は、平和の使者として1985年にバチカンで展示されたほか、2000年には旧ソ連のチェルノブイリ原発事故の被害地で、被爆65年の2010年にはバチカン、スペイン両国で展示されたそうです。(参考:おらしょ

駐車場に戻る平和祈念公園の裏手から静かにたたずむ浦上天主堂が見えました。

様々な辛い歴史を背負いながら、街全体が世界の平和を祈っている、長崎はそんな印象の街です。



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