イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

絹の歴史ーイタリアの場合

2020年11月04日 17時04分22秒 | イタリア・文化

紙の次は絹です。
「養蚕技術が西方へ流出」については今回も山科様の記事を参照してください。
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/188089738.html
私はここから如何にイタリアで絹が発達したかについて語りたい。

ローマ皇帝は、絹の存在を知っていたし、その価値を理解していた。
東ローマ帝国経由で養蚕が始まったのは550年ごろと考えられる。
山科様の記事とはちょっと違うのだが、Imperatore Giustiniano(ユスティニアヌス1世)が2人の僧侶を使って蚕の卵を棒のカーブに隠して運ばせたとある。(出典:Silk Museum of Lebanon, su thesilkmuseum.com. URL consultato il 9 agosto 2020 (archiviato dall'url originale il 4 marzo 2016).
まぁこの辺は伝説の世界なので、多少の違いはあるだろう。

絹の衣をまとう踊るマイナス(Menada danzante)はPompei(ポンペイ)の Casa del Naviglio(ナヴィリオの家)に1世紀頃描かれたフレスコ画 (現在はMuseo archeologico nazionale di Napoli)まるで天女の羽衣だなぁ…

ん?昔話の「天女の羽衣」
あの羽衣って絹なのか?
ちょっと検索してみたら、羽衣伝説って、日本中各地にあるらしい。
一番古い天女伝説はどうやら京都北部、丹後地方なのだと。
で、天女って渡来人?
大陸から持ち込まれた絹。
一般人は絹なんてみたことなかっただろうから、天を舞えると思ったのも無理はない。

話をローマに戻すと、いくつかの文献によるとCesare(ユリウス・カエサル)がAnatolia(アナトリア)からローマに敵から奪った数本の旗を持ち帰った。その中の1本にひと際キラキラ光る、見たことのない繊維でできたものがあった。これが絹だった。
または、他の文献によるとカルラエの戦いに敗れ、生き残ったローマ兵が持ち帰ったという説がある。(日本語版Wikipediaにも記述有)

 プリニウス曰く(多分プーブリウス・ウェルギリウス・マーロの間違えをそのまま引用したのだろうが)「森の羊毛」と定義した、特定の未知の木の産毛から引き出された、非常に細い糸で織られていたでと言っている。

実際絹は中国人から直にローマに持ち込まれたものではない。
それはまずソグディアナ(Sogdiana、中央アジアのアムダリヤ川とシルダリヤ川の中間に位置し、サマルカンドを中心的な都市とするザラフシャン川流域地方の古名)を中継し、次にPalmira(パルミラ)とPetra(ペトラ)の商人を介し、Antiochia(アンティオキア)やSidone(シドン)の船員によって海を運ばれた。

と書いたのだが、山科様の追加の情報では、絹はカビを避けるため、陸で運ばれたのではないか。
参考:http://reijiyamashina.sblo.jp/article/188092505.html
非常に興味深い。
確かに、絹は特にカビや虫に弱いからなぁ…
またウールにしろ何にしろ、繊維が何100年も残ることって、様々な好条件が重なってのことなんだなぁ、と改めて思う。

とにかく絹は高価だったので、ローマの元老院では無駄に絹の服を着ないよう(女性だけでなく男性も)布令を出した。
絹は落ちぶれや不道徳だ、と考えたというのが理由だが、実際この布令の目的は、現在でいうところの”対外債務”が嵩んでいて、市民から金を吸い上げる必要が有ったからだ。

また確証はないが、ローマ人がが古代イラン王朝パルティアを通して中国人と接触していたという人もいる。
 Augusto(アウグストゥス)は使節の訪問を受けたという。
しかしアウグストゥスの年代記をには、最初の使節が来たのは166年、船で、とある。

繊維ではなく、養蚕技術は紙同様アラブ世界からイタリアにやって来た。
12世紀にはヨーロッパの絹生産のほとんどを担っていたイタリア。(この時期イタリアという国は有りませんが)
Palermo(パレルモ), Messina(メッシーナ), Catanzaro(カタンザーロ)が特に有名で、ウィーン王宮の皇帝家の財宝コレクションの中にシチリア王Ruggero II(ルッジェーロ2世)のマントが保管されている。

このマントには、1133-34年パレルモの王室御用達の工房で制作されたとアラビア語の文が刺繍されている。
パレルモの王宮には工房が有り、絹職人だけでなく、金細工職人や宝石職人もそこで働いていた。
養蚕、絹制作はパレルモからスタートし、あっという間にイタリア中だけでなく、ヨーロッパ中に広まった。
イタリアの専売特許だった絹は、17世紀にはフランスのリオンに取って変わられてしまうのだが、それもカタンザーロがフランスの支配を受け、絹職人が多く移住を迫られたのが一因とか。(典拠なし)

養蚕は羊毛と同じくらい重要な財源となった。
繊維業が多くの富をもたらしたことは例えばフィレンツェのギルドの1つArte della Setaを見ればよく分かる。
(ギルドに関しては後日)
13世紀にはLucca(ルッカ)、Bologna(ボローニャ)に製糸工場が出来た。
しかし、今イタリアンシルクと言ったらComo(コモ)である。
今もCanepa, Effepierre, Girani, Ratti, Seride, Taroni, Luigi Vergaと言った名だたる繊維会社が世界中に名を馳せ、繊維を作り、柄を印刷し、世界中の有名ブランドの製品を作っている。

コモのある、Lombardia(ロンバルディア州)で養蚕が始まったのは14世紀の終わりごろで、丁度Ludovico Maria Sforza(ルドヴィーコ・マリーア・スフォルツァ)が活躍しているころだった。

先々代のDuca di Milano(ミラノ公)Galeazzo Maria Sforza(ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ)は土地所有者は、土地の100パーチ(時間の測定単位)ごとに5本の桑の木を植えるという法令を出していた。
そして先代Gian Galeazzo Maria Sforza(ジャン・ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ)がミラノ公だったころ、そばにいたルドヴィーコは養蚕の為に桑の木を植えることを農民に義務付けた。
ルドヴィーコはil Moro(イル・モーロ)とも呼ばれていて、その異名は「ムーア人(ベルベル人)」のように色黒だったことからついたと言われているが、ラテン語の蚕”bombix mori”(英:Bombyx mori)、moroは桑の実から来ているという説もある。
ルドヴィーコはその治世中Pavia(パヴィア)県のVigevano(ヴィジェヴァ―ノ)をロンバルディアの一番重要な繊維産業都市としたが、後世コモが絹で一番重要な都市になり、18世紀にはコモの領地の93%に桑が植えられ、桑畑の周りには紡績工場や織物工場が建ち並んだ。

1900年代に入るとGavazzi(ガヴァッツィ家)とFerrario(フェッラーリオ家。Angelo Ferrarioは1913年から29年まで国内・国際シルク産業会長 を努めた)とSchmid(シュミット)がイタリアンシルク産業を牽引していく。
シュミットはミラノに本社を構えていたが、生産の中心はCavenago di Brianza (カヴェナーゴ・ディ・ブリアンツァ)、Cassolnovo (PV)とロンバルディア州においていた。
カヴェナーゴ・ディ・ブリアンツァの絹と言えば、第2次世界大戦中爆破されたミラノのスカラ座の全ての椅子、壁を覆ったことでも有名だ。

イタリアは19世紀になると中国、日本と肩を並べる絹生産国になっていた。
主な生産地はCatania (カターニャ), Como(コモ)、Meldola(forli)とSan Leucio (Caserta)ということだ。
ちなみにコモにはMuseo Didattico della Seta di Como (コモシルク教育博物館)が有る。(日本語で博物館のことを紹介している記事発見:http://www.sen-i-news.co.jp/
https://www.museosetacomo.com/


参考:https://it.wikipedia.org/wiki/Seta
https://www.artimondo.it/magazine/como-citta-della-seta-lombardia/



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