いつもためになるコメントを頂いている山科様のブログを見ていて、私もちょっと気になった。
というのも私もベルギーのブルージュ(これは英語発音。仏語ならブリュージュ)に行った時、「なんでここにミケランジェロ?」と思っていたのでありました。
問題のミケランジェロはこれ。
ブルージュに行った時は、下調べを全然してなくて、この存在を知らなかったので、危うく見逃すところだった。
教会に入ったからいいけど。
現在この聖母像はブルージュの聖母教会(Onze-Lieve-Vrouwekerk)にあるのだが、防弾ガラスで守られているうえ、5メートル弱離れた場所からしか見られない。
ヴァチカンのピエタだってガラスには入っているけど、もう少し間近で見られるってのに。(128㎝しかない)
↓望遠なしで撮った写真。
この作品は1506年リボルノの港からこっそり脱出。
ミケランジェロ存命中にイタリア国外に出た唯一の作品である。
「こっそり」と言っても、盗まれたわけではない。
と実はここまで書いて、イタリア語読むのに集中力が切れちゃって、映画見ちゃったんです、昨日は。
ということで、またここから再開です。
え~と、この時期ミケランジェロはお忙しかったんです。
1496年から1501年はローマで「ピエタ」を制作、
写真:Wikipedia
その後フィレンツェに戻り1501年から04年は最大の代表作にしてイタリアルネサンスの最高傑作「ダビデ像」を制作。
(2019.12.09撮影)
更に1501年にはシエナの大聖堂のピッコロ―ミニの祭壇(Altare Piccolomini)の彫刻も引き受けていた。
とにかくこの時期は、その名声は天下に轟き、注文は殺到していた。
そんな時期にこの「ブルージュの聖母子像」が製作された、秘密裏に。
注文主はMouscron(ムスクロン)家。
金持ちのフランドルの織物商人でフィレンツェとは非常に関係が深かった。
この頃ブルージュはフランドルの重要な商業都市の1つだった。
非常に親密な関係にあったフィレンツェとブルージュ。
メディチ家はブルージュに支店を持っていた。
そんなだから、ムスクロン家もメディチ家だけではなく、フィレンツェの他の名家とも関係があった。
その中の一人が銀行家のJacopo Galli(ヤコポ・ガッリ)。
彼を通してムスクロン家はミケランジェロに自分の家の礼拝堂に置く作品制作を依頼。
ムスクロンはミケランジェロに直接依頼した唯一の”外国人”だった。
ちなみにこのヤコポ・ガッリはミケランジェロのマネージャー、エージェンシーみたいなことをしていたようだ。
ミケランジェロの周辺で、ガッリの名が登場するのは「眠れるキューピッド(Cupido dormiente)」事件。
この話はヴァザーリも書いているので、白水社の「ルネサンス画人伝」から抜粋。
1495年ボローニャからフィレンツェに戻ったミケランジェロは
”メディチ家のロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコのために大理石で聖ヨハネ像をつくった。”
ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ(Lorenzo di Piefrancesco de' Medici, detto il Popolano )、は 豪華王ロレンツォ(Lorenzo il Magnifico)の従兄弟。
通称ポポラーノというようにこちらは庶民派と名乗っていた。
このポポラーノは、芸術には精通していて、ボッティチェリの注文主としても有名。
”それから別の大理石で、実物大の眠れるキューピッドを制作しにかかった。仕上がると、それは、バルダッサーリ・デル・ミラネーゼによって、美しい作品としてピエルフランチェスコに示されたが、彼も同様に判断し、ミケランジェロにこういった。「もし君がそれを土の下に埋め、年代物らしいようにしてローマに送れば、古代の作品として通用することはうけあうよ。それをここで売るよりも、ずっともうかるさ。」それでミケランジェロは、それを古代風に見えるようにしたということである。<中略>ミラネーゼがそれをローマに持ってゆき、それを自分のぶどう園に埋めた。それから古代の作品として、サン・ジョルジョ枢機卿に200ドゥカートで売ったというのである。さらにこうもいわれている。ミラネーゼは、ミケランジェロが自分のために作った作品を売っておいてピエルフランチェスコに手紙を書き、「ミケランジェロに30スクードやってください。キューピッドではそれ以上得ることはできませんでした」と言ったという。こうしてミラネーゼは、枢機卿ピエルフランチェスコとミケランジェロをだましたのである。”
なんじゃそりゃ?という感じなので、結局原文を確認した。
まずこの詐欺行為の首謀者は誰?
この日本語だとピエルフランチェスコもグルみたいだが、原文を読むと、これバルダッサーリの単独行動だ。
更にこれ誤植かな?ミラネーゼに騙されたのはサン・ジョルジョ枢機卿、ピエルフランチェスコ、ミケランジェロの3人。白水社のは枢機卿とピエルフランチェスコの間にテン(句読点など)がないので、メディチ家はよく枢機卿を輩出しているし、ピエルフランチェスコが枢機卿なのかと思っちゃったよ。
結局詐欺だとバレて、枢機卿は代理人をフィレンツェに送る。
この代理人がヤコポ・ガッリだった。
サン・ジョルジョ枢機卿とはRaffaele Riario(ラッファエレ・リアーリオ)、名門デッラ・ローヴェレ家(Della Rovere)の出身。この人もこの時代の偉大な芸術家のパトロンの1人。
詐欺行為に怒りはするも、この素晴らしい作品の作者が気になった枢機卿はフィレンツェにヤコポ・ガッリを送り、ミケランジェロをローマに呼び寄せた。
直にミケランジェロに会った枢機卿は、その技量に惚れ込み、ローマの芸術愛好家たちにミケランジェロを紹介する。
そこで出会ったのがのちのパトロンたち。
例えば、サン・ジョルジョ枢機卿の従兄弟ュリアーノ・デッラ・ローヴェレ(Giuliano della Rovere)枢機卿。この人は後に教皇ユリウス2世となり、ミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の天井画を依頼。
また旧サン・ピエトロのサンタ・ペトロニッラ礼拝堂(cappella di Santa Petronilla)用に「ピエタ(Pietà)」を注文したフランス人枢機卿Jean de Bilhères(ジャン・ビエール・デ・ラグラウラス?、ジャン・ビリエ・デ・ラ・グロライ?)もいた。
ちなみにこの「キューピッド」はその後チェーザレ・ボルジアの手に渡った後、グイドバルド・ダ・モンテフェルトロが購入し、イザベッラ・デステに贈られた。
17世紀にはイギリスのカール1世が買い取りロンドンへ。
しかしホワイトホール宮殿が火事になった時、破壊されてしまい現存しない。
唯一どんなものか推測できるのは、その当時の画家たちが描き残した絵から。
例えばこれはジュリオ・ローマ作の「ジュピター(Giove)」(ロンドン、ナショナルギャラリー蔵)に描かれたものやティントレット(Tintoretto)の 「金星、火山、火星(Venere,Vulcano e Marte)」(ミュンヘンのAlte Pinakothek)などを参考にするしかない。
実物はおよそ80㎝だったという。
ちなみに現在フィレンツェのバルジェッロ美術館にある「バッカス(Bacco)」は、このヤコポ・ガッリの注文だったとヴァザーリ以下古いミケランジェロの伝記に書かれているが、現在ではこれはサン・ジョルジョ枢機卿(cardinale Raffaele Riario)が注文し、なぜか受け取りを拒否したため、ガッリが手に入れたとなっている。 (ミケランジェロがピエルフランチェスコ宛てに書いた手紙に記述がある。)
(2018年12月3日撮影)
ガッリはローマの自分の屋敷に運んだのだが、1571年(1572?)フランチェスコ1世(Francesco I de' Medici)が240 ducati(ドゥカーティ)で購入、17世紀にはウフィツィ美術館に置こうと考え、フィレンツェに戻ってくる。1865年頃からバルジェロに移された。
ってなんの話だったかな?
そうそう、その仲介人のヤコポ・ガッリによってムスクロン家はミケランジェロの作品を手に入れたわけだ。
本当に誰の目に触れる事なく、海を渡ったようだ。
ヴァザーリも他のミケランジェロの伝記を書いた人たちも、実際どんな作品がブルージュに送られたのか知らなかったようだ。
ヴァザーリは「ブロンズで円型の聖母像をつくった。モスケローニ家というフランドル地方でもっとも高貴な家柄の、さる商人の求めに応じて鋳造したものである。ミケランジェロには100スクード支払われ、像はフランドルに送られた。」と記している。(白水社の「ルネサンス画人伝」から)
モスケローニ(Moscheroni)はムスクロンのイタリア化した苗字。
成人男子が1年20スクーディで暮らしていけるくらいだったそうだから、それなりの金額だとは思うけど、最近発見された1503年から05年の支払い記録に4000fiorini(フィオリーニ)が支払われたという記録が発見されているため、金額も正しくない。
Giovanni Balducci(ジョバンニ・バルドゥッチ)はこのようなことを書いている。
1506年8月4日、フィレンツェからFrancesco del Puglieseを通して、ヴィアレッジョ(Viareggio)へ 、ヴィアレッジョからブルージュへと最良の方法でフランドルへ送られた。
またバルドゥッチは送り先についてもはっきり言及している。
ミケランジェロは、「フランドルのブルージュ、Giovanni e Alessandro Moscheroniと同胞」に宛てた、と。
ではミケランジェロはいつ、どこでこの聖母子像を制作したのか?
1501年から04年はダヴィデを制作していた。
そして同じく1501年シエナからも注文を受けている。
これもヤコポ・ガッリの仲介が入り、枢機卿Francesco Nanni Todeschini-Piccolomini(フランチェスコ・ナンニ・トデスキーニ・ピッコロ―ミニ)は大聖堂内のピッコロ―ミニ家の祭壇の彫刻をミケランジェロに依頼した。
山科様の話だと「古くから、シエナのピッコロミニ家の注文だったのではないか?と噂されている」と有るが、私がネット上情報を検索した限りでは、イタリア語でその説を唱えているものはみあたらなかった。
むしろミケランジェロはダヴィデに集中していて、シエナの仕事は二の次だったと書かれている。
1503年枢機卿は教皇ピウス3世(Pio III)となるも、26日という短い在位期間で死去。
1504年10月11日の日付で、ミケランジェロは彼の遺族と再び契約を結ぶも、届いたのは4体の彫刻。
それもミケランジェロよりも助手たちの手の方が多く入っていた。
ピッコロ―ミニ家はしつこく催促したものの、ミケランジェロは完全に興味を欠いていて、全く応答なし。
1530年代、しびれを切らしたピッコロ―ミニ家が最終的に契約を破棄。
損害賠償や既に受け取った報酬の返金なども全て破棄され、結局祭壇は未完に終わってしまった。
なぜミケランジェロは山のようにあった注文の中からこれを引き受けたのか?
唯一一言「経済的な理由」でこの注文を引き受けた書かれていたものがあったのが印象的だった。
これはあくまでも私の個人的な考えだが、ミケランジェロは注文はうるさいのに金払いの悪い枢機卿や教皇などに飽き飽きしていたのではないか。
ムスクロンは細かいところに注文を付けず、大金を払ってくれる、ミケランジェロにとっては”良い”お客さんだったのではないだろうか?
”良い”お客さんには、真摯に向き合い、その時最高の作品を制作しただろう。
ミケランジェロ本人もこの作品は「自分の手元においておいて、他人の目からは隠しておきたい」と父親に宛てた手紙に書いている。それくらい素晴らしい出来だった。
1508年までにフランドルに到着した聖母子は、最初ブルージュの大聖堂のムスクロン家の礼拝堂に置かれていた。
1521年デューラー(Dürer)がそれを見ている。
しかし80㎝という持ち運びやすさがこの聖母子像が2度も略奪にあった理由だろう。
一度目はナポレオンに、そして2度目は昨日見た映画「ヒトラーVSピカソ」にも出ていたが、ナチスドイツに、だ。
今は無事ブルージュに戻ってきて、私のような無知な観光客を驚かしている。
「なんでミケランジェロがブルージュに?」
という推定は、
石井元章 、ルネサンスの彫刻 15・16世紀のイタリア, ブリュッケ 、2001
で読みました。貴稿でも時期が重なっていますから、いろいろな事情ありそうですね。
ヴァザーリは外国人のように言ってますから、そうなるとやはり、フラマンの一族なのかな、実はベルギーの解説で、よくわからんような記述があったので。。イタリア風の人命綴りをそのまま使ったりしてました。
今回、再考すると、4000フィオリーニというのは金貨だとしたら、法外な大金だと思います。ひょっとしたら銀貨? 運賃保険料も入っているんでしょうが、銀貨だとしても最高額じゃないかなあ。
イタリアの有力者が支払いが悪い、というのは「予言者故郷にいれられず」「親戚を高く評価できない」という人間の悪い癖がでたためかもしれませんね。
早速コメントを頂きありがとうございます。
またこちらこそ、ブルージュの聖母のことを思い出させていただきありがとうございます。
イタリア語の史料には、苗字をイタリア語化した、と書いてあるので、フランドルの人で間違いないと思います。
やはりすごい金額なんですよね。そうなるとやはり報酬で動いた、と言われても仕方がないですね。
現在でもフィレンツェ人はすごくケチです。日本人の私だけでなく、他の町出身のイタリア人も呆れるくらいですから。
枢機卿とか教皇はわりに金払いが悪い気がします、フィレンツェ出身ではなくても。口は出すけど、金は出さない…最悪なパターンですね。
① ブルージュの聖母子の件
ブルージュへ行ったのはもう30年ぐらい前で、その頃は初期フランドル絵画にも興味があり、初めてのベルギー、オランダ旅行だったのでファン・エイクやボス、ブリューゲルも熱心に見て回ったのですが、ブルージュへ行った最大の目的はミケランジェロの聖母子を見ることでした。あとはグルーニング美術館で見たファン・エイクのファン・デル・パーレの聖母のゲオルギウスの鎧兜の反射とか、メムリンクのウルスラの聖遺物箱を見たことを覚えているぐらいです。ミケランジェロの聖母子はそんなに遠くにあったという記憶はないし、防弾ガラスもなかったと思います(ヴァチカンのピエタよりずっと近かったという記憶)。最近?警備が厳しくなったのでしょうか。
この像の注文主の件、手元にあるミケランジェロの本をいくつか見たのですが、日本で出されたものはどれも簡単な説明だけで情報なし。唯一出ていたのがRizzoliのあのシリーズのMichelangelo(scultore)1973でした。これにはGiovanni BalducciやAlessandro Moscheroniのことが上記本文と同様に書かれています(イタリア語はよく分らないので詳細は不明)。製作年代は1498~1501となっているので、ヴァチカンのピエタと同時期、ロンドンのTondo Taddeiの直前ということになります。なお、Balducciの手紙は1506年8月14日となっていました。
② 眠れるキューピッドの詐欺話の件
眠れるキューピッドの詐欺話は、ミケランジェロから亡命中のロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコへの手紙をボッティチェリ経由で送った件で、手紙の中にこの詐欺話について書かれています(この手紙は1494年の追放の2年後)。ボッティチェリが手紙を取り次いだのは、ピエルフランチェスコへ確実に届くと信頼されていたためでしょう。ミケランジェロ21歳、ボッティチェリ51歳、親子ほど年齢が違うこの二人に親交があったことが分かる記録です。
手紙の内容はこの「ミケランジェロの手紙」で読むことができます。
「ミケランジェロの手紙」杉浦民平訳 岩波書店1995
ボッティチェリがミケランジェロの手紙を取り次いだことは、若い頃に初めて読んだボッティチェリの本(Rizzoli集英社版、マンデル著)の年表で知っていたのですが、手紙の内容までは知りませんでした。その後手に入れたハーバート・ホーンのBOTTICELLI(初版は1907年。私のはペーパーバックのリプリント版)には手紙の原文ではなく英訳が出ていますが、読んでいません。最近になって上記の日本語訳があることを知ったので地元の図書館で借りて必要部分をコピーしました。収録されている手紙はこの1496年のボッティチェリ取り次ぎ分が最初で、最後は1564年に88歳で亡くなる4日前、全部で528通です。
1496年7月2日のピエルフランチェスコあての手紙の大部分は眠れるキューピッドの件で、特に後半はこの事件の首謀者、ミラノ出身のブローカーBaldassarre del Milaneseに関することです(後半部分は以下の通り)。
「次にバルダッサㇽレにかれの手紙を返し、お金を返しますからといって、キューピッドの彫刻を請求しました。あの人はひどくとげとげしく、あんなものは粉々にぶち砕いてやればよかっただの、キューピッドはおれが買ったのだからおれのものだだの、買い手が承諾したことを証明する手紙を握っているだの、返してもらえると当てにするなよとか、答えました。そして閣下が自分に悪意を抱いていらっしゃると、盛んにこぼしていました。わがフィレンツェ市民の幾人かがわたしたちの間を調停しようとしたが、何の役にも立ちませんでした。今のところわたしは枢機卿猊下のお力を頼りにしています。そうするようバルダッサㇽレ・バルドゥッチから忠告されたからでございます。どうなってゆくことやら、成りゆくまま閣下にお知らせいたしましょう。この件については以上です。どうぞよろしく。神よ閣下を禍から守りたまえ。 ローマ市 ミケラニオロ」フィレンツェ市 サンドロ・ディ・ボッティチェㇽロあて
前半部分には「7/2に無事ローマへ到着し、サン・ジョルジョ枢機卿ラファエーレ・リアリオのところへ伺って、ピエルフランチェスコ閣下の手紙を差し上げたことをご報告申し上げます」とか、ルチェライ家やカヴァルカンティ家への紹介状のことなどが書かれています。なお、後半に出てくるBaldassarre BalducciはBaldassarre del Milaneseとは別人で、注に「フィレンツェ商人、イアコポ・ガㇽロ銀行に勤める」とあるので、この人が上記本文のヤコポ・ガッリのことでしょうか?(ヤコポ・ガッリという名前はこの手紙には出てきません。)
ヴァザーリの記述には不正確なことがよくあるので注意が必要ですが、この手紙は事件の当事者の一人ミケランジェロが書いているので、信頼性は高いと思います(当事者の言い分なので全て真実かという問題はありますが)。
③ Francesco del Puglieseの件
実は今回の記事でブルージュの聖母子、眠れるキューピッドの詐欺話以上に注目したのは、フランチェスコ・デル・プリエーゼの名前が出てきたことです。(ジョバンニ・バルドゥッチがこの聖母子をフランドルへ送った時のことを書いている部分)
私にとってプリエーゼと言えば、ボッティチェリやフィリッピーノ・リッピの絵の注文者として覚えている名前です。Francesco del Puglieseはボッティチェリ作の「聖ヒエロニムスの最後の聖体拝受」(NYメトロポリタン美術館)、「受胎告知の聖母」と「天使」(モスクワ プーシキン美術館)を注文し、フランチェスコの叔父Piero del Puglieseはフィリッピーノ・リッピ作の「聖ベルナルドゥスに現れた聖母」(フィレンツェ バディア教会)を注文しています。Francesco del Puglieseは熱心なサヴォナローラ派として、教皇からサヴォナローラへ出された説教禁止命令や破門に対する解除の嘆願書にも名前を連ねているそうですが、サヴォナローラからボッティチェリへの影響関係を考える時に重要な人物の一人です。1506年にこのミケランジェロの聖母子をブルージュへ送るのにFrancesco del Puglieseを通したという話は初めて聞きました。上記RizzoliのMichelangeloのブルージュの聖母子の項にもFrancesco del Puglieseの名前は出ていません。この輸送に関してのFrancesco del Puglieseの関与について、何か詳しい情報がありましたら教えてください。
(1498年のサヴォナローラ処刑後も、1503年の遺言書では財産をサン・マルコに遺贈するとしているのに、1519年の遺言書ではこれを取り消しているので、この間にサヴォナローラ派であることを止めたのかもしれません。1500年前後のフィレンツェは政権交代や外国の侵略などが激しいので、大商人としてはいつまでも同じ思想・信条ではいられなかったのかとも思います。1506年時点ではどうだったのか、ブルージュへ送られたミケランジェロの聖母子の周辺事情とサヴォナローラ派とは関係があるのかなどを知りたいと思っています。)
なお、このフランチェスコ・デル・プリエーゼとボッティチェリについてのことは、高階秀爾とライトボーンの下記の本に書かれています。
高階秀爾「ルネッサンスの光と闇」中公文庫1987(初出三彩1966~69、単行本1971)の第5章
R.ライトボーン「ボッティチェリ」森田義之/小林もり子訳 西村書店1996の11章
いつも詳しい情報をありがとうございます。
実はコメントを心待ちにしていました。
①防弾ガラスが入ったのはピエタ襲撃以降のことで、近くに寄れなくなったのは最近(と言っても私が行ったのは2016年なのでその前ですが)のことだそうです。
②「眠れるキューピッド」に関して詳細をご教示いただきありがとうございます。
ボッティチェリが関与していたとは驚きでした。
「Baldassarre BalducciはBaldassarre del Milaneseとは別人」という件、調べました。Baldassare Balducciはヤコポ・ガッリの”出納係”だそうです。この人の父が銀行家で、彼もローマのカンポ・ディ・フィオーリに小さな銀行を持っていたようです。
③Giovanni Baluducciがミケランジェロに宛てた手紙にFrancesco del Puglieseを通して送った、の件は1875年出版のAulerio Gotti著、Vita di Michelangelo Buonarrotiに言及、また1954年2月7日のIl Messaggeroという新聞に美術史家Emilio Lavagninoも書いているそうです。(記事は発見できず)
この辺は、今回参照したBollettino d'ArteのValerio Marianiの記事から引用しています。
Gottiが書いている部分を見ましたが、上に書いたこと以上の情報は有りませんでした。ただここでも送られたのは大理石ではなくブロンズ円形浮き彫り(di bronzo un tondo)となっています。
Giovanni Balducciがミケランジェロに送った手紙はここで原文を確認しました。
このサイトは非常に良く出来ていて、ほぼ全てのミケランジェロ関係の手紙が読めるようなので、原文で「眠れるキューピッド」関連は見てみたいと思います。
更にちょっと調べたら2016年の論文では
Marble Made Flesh: Michelangelo's Bruges
Madonna in the Service of Devotion
ルッカから送られたという記述も発見しました。原典はこれだそうです。Lennertz, Birgit. “The Commission of the Bruges Madonna: Michelangelo and the Mouscron.”
Master’s thesis, Washington University in St. Louis, 1992.
サヴォナローラとの関係は分かりませんが、この論文は面白そうでした。
p.s.なぜかURLを貼るとコメントが投稿できないので、別途本文の方へ書き込みたいと思います。
私事ですが、最近イタリア語を使う機会もないし、なんのためにイタリアまで勉強しに行ったのか…とちょっと気分が落ちていたのですが、この件でまたやる気が出て来ました!!
いつも本当にありがとうございます。
そのように思っていただけると、昨夜遅くまで文章を入力していた甲斐があります。
こちらこそ、早速のご回答ありがとうございます。ほぼ全てのミケランジェロ関係の手紙が原文で読めるサイトのアドレスを楽しみにしています。これと上記投稿で書いた岩波の「ミケランジェロの手紙」日本語訳を組み合わせれば完璧ですね(但し、岩波の本はミケランジェロが受け取った手紙の方は掲載されていないので、こちらはご紹介のサイト頼みです)。
ブルージュの聖母子ですが、ヴァチカンのピエタ襲撃事件が1972年、私がブルージュに行ったのが1990年頃ですから、それから2016年までのどこかで防弾ガラス+遠くからの鑑賞になったということですね。
<「眠れるキューピッド」に関して~ボッティチェリが関与していたとは驚き
ボッティチェリは手紙を取り次いだだけなので、キューピッド詐欺事件の中身には全く関与していません。念のため。なお、この手紙は1496年7月2日付けです。
<なぜかURLを貼るとコメントが投稿できないので
実はこの件、1カ月ほど前に同じgooブログで美術関係の記事を書いている方のブログにコメント投稿をしようとしたら、うまく投稿できないということがありました。その方にいろいろ調べていただいたら、次のような状況でした。:
「入力内容を確認してください」とメッセージ出て、コメントを投稿できないということだと思いますが、本ブログサービス提供者が次のようなフィルタリングをしているようです。URLが記載されている場合、そのドメインを見て、
・.jp、.org、.com、.netなどならOK。
・.it、.uk、.de、.usなどはNG。
前はそういうことはなく、最近そうなった模様。
:この回答をもらったので、送信できなかったコメント投稿のドメイン「it」を「jp」に変えて送信したら投稿できました。もちろん掲載されたコメント投稿は「jp」を入れたままなので、そのアドレスをクリックしてもエラーメッセージが出てしまいます。そのため「jp」を「it」に置き換えてください、という言葉を入れた上で投稿しています。例えば、その時に送ったコメントはクリヴェッリ関係のイタリア語サイトの記事で、以下の通りです。このURL中の「jp」を「it」に置き換えると読めますので試してみてください。(私が今このjpに置き換えたURLを含む投稿ができたということは、この形なら投稿可能ということです。)
https://www.frammentiarte.jp/category/dal-gotico/crivelli-carlo/page/3/
でも、面倒ですね。イタリアやイギリス、アメリカのサイトのURLを引用投稿できない仕組みにしたとは。gooブログサービス運営側も早く問題点を認識して改善してほしいと思います(それだけこれらの国の詐欺サイトなどが多いということかもしれませんが)。
これ以外の上記コメントで示されたことについては、まだよく消化できていませんので、別途書かれるという本文を拝見してからにします。
では、今後ともよろしくお願いいたします。
「こちらこそありがとうございます。」
です。
(もし修正できるなら直していただいた上で、この訂正投稿も削除してください)