イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

Piemonteのゴシック美術

2016年12月23日 18時19分08秒 | イタリア・美術

23日です。ここ数日Piemonteのゴシックについて調べていたのですが、これが結構大変でしたねぇ。
天気が良くて暖かいので、ちょっと散歩なんかしていたのも悪いんですけどね。
さらっと終われるかと思いきや…
ちょっと時間かかっちゃいましたね。
とにかく行きましょうね。 

先日お話したSaluzzoのMadonna della misericordia 繋がりになるのですが、
1400年代後期になっても国際ゴシック様式が全盛だったPiemonteですが
地理的な理由などもあって商業も文化も入り混じり、Piemonteeの西側(東側はLombardiaの支配が強いので)1300年代、以下のような特徴が見られます。
その1
国際色あふれるAssisiのSan Francesco教会で働いていた芸術家のお陰で新しい風が吹き込まれた、リアルで物語的で、ちょっと辛辣な1315年くらいのLombardiaの画家の特徴。
その2
1200年代から続く地元の美術。
その3
Astiの商人がもたらしたフィアンドルや北フランスの文化の流入。
その4
Piemonteの宮廷人がもたらしたフランスの文化。

特に「その3」とか「その4」が強いですね。
1400年代、Piemonteで一番ゴシック美術が花開いていたのはAmedeo VIIIの宮廷。
Amedeo VIII di Savoia、サヴォイア家当主アメデーオ8世・ディ・サヴォイア(1383年9月4日 - 1451年1月7日)
彼の在位中の1416年神聖ローマ皇帝ジギスムントから公位を授かったSavoia家は、後にイタリア王を輩出する家系です。
ベレイのオッドーネ司教による1003年の文書で「伯」と呼ばれた最初の人物がサヴォイア家の祖とされるウンベルト・ビアンカマーノ (980年 - 1048年)
当時のサヴォイア家の領土は現在のイタリア、フランスに渡っていて、Chambéry(シャンベリ)を中心として領土ろ広げていきました。
イタリアの部分はピエモンテ西部の山岳地域のPinerolo(ピネローロ)を中心としたValle di Susa(ヴァッレ・ディ・スーザ)とVal Chisone(ヴァル・キゾーネ)でした。

アメデーオ8世は歴史上最後の対立教皇Felice V(フェリーチェ5世、Felix Vとも在位:1439年11月5日 - 1449年4月7日)でもあります。
対立教皇というのは、
正当な教皇に対抗してたてられた教皇のこと、あるいはローマ教皇であることを宣言しながらも、同時代人あるいは後世の人からその地位が正統なものであると認められなかった人々のこと。(Wikipediaより)
なぜ対立教皇になったのか知りたい人はWikipediaでどうぞ。 

1383年にサヴォイア伯アメデーオ7世の3人の息子の長男として生まれた。
母はフランス王子Jean de Berry(ベリー公ジャン)の娘Bonne de Berry(ボンヌ・ド・ベリー)である。
ってここが重要なので覚えておいてね~!!
更にアメデーオ8世の奥さんはブルゴーニュ公の娘(Marie de Bourgogne)
彼女の父はヴァロワ家の初代ブルゴーニュ公フィリップ2世。
ブルゴーニュ公国は、ヴァロワ家が支配していたブルゴーニュ公国の最盛期にはがブルゴーニュの他、神聖ローマ帝国の領域内を含むネーデルラント(現在のベルギー・オランダ・ルクセンブルク)、フランシュ=コンテ、アルザス、ロレーヌにまたがって領土を持っていた。
ということでアメデーオ8世はフランスからフィアンドルに及ぶ諸宮廷とつながり有ったようです。

アメデーオ8世は幼い時に父が死没したため、1391年に8歳で母を摂政とし爵位を継承しました。
この時代このパターンすごく多いようですね。
彼の青春時代は母の執政と、相次ぐ親類の死去で彩られていた。
2人の弟たちを初めとして、サヴォイア家の男子縁者の多くが亡くなり、アメデーオ8世はかなり若い頃にサヴォイア家唯一の男子となったそうです。
このような不幸な状況下で実際に政治を動かすようになったアメデーオ8世は、一族内で分割されていたサヴォイア伯国内の領土を次々と当主の直轄領に戻し、サヴォイアを強力で集権的な国家に育て上げたのです。
外交にも長けており、折りしもイギリス対フランスの百年戦争の真っ只中でもあったこの時期、フランス王とイングランド王、神聖ローマ皇帝などの王侯間で巧みに立ち回り、最終的に皇帝ジギスムントから帝国公爵の地位を授けられたそうです。アメデーオ8世は「温和公」(il Pacifico)の綽名でも呼ばれたそうです。

ここで鍵となるのはJean de Berry(ベリー公ジャン1世、1340年11月30日 - 1416年3月15日)
アメデーオ8世の祖父に当たる人物ですね。
美術品の蒐集、芸術家のパトロンとして名を馳せています。
特に有名なのはランブール(Limbourg)兄弟の描いたLe Très Riches Heures du Duc de Berry『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』。
時祷書とはキリスト教徒が用いる聖務日課書で、祈祷文、賛歌、暦などからなる。
私的なものであり、各人が趣向をこらして作成することがあった。
国際ゴシック様式の美術を語る上では忘れることは出来ない傑作であり、最も豪華な装飾写本と言われています。
3月にChantillyに行った時、本物見られるか?と思ったのに、本物展示してないんですよねぇ…
デジタル化されていて、それを見ることは出来ました。 


カレンダー的な役割をしていること時祷書のこれは8月。
この背景に見える広く広がる風景、人物が来ている衣裳はその時の流行を取り入れたもの、とにかくリアルで、豪華です。
イタリア語だとfiabescoというのですが、おとぎの国のような雰囲気。
華麗な宮廷生活は世俗性に満ち、遠近法を屈指した量感のある風景描写は圧巻です。
これこそ国際ゴシック様式の特徴を顕著に表した作品です。

ゴシック様式は彫刻、建築が先に発展して行き、3次元感を表現しずらい絵画は一歩遅れを取っていましたが、
このような細密画から次第に発展を遂げて行きます。
特に写本に描かれた細密画は、写本が持ち運びが楽だったことから、ゴシック様式が”国際”的に発展する重要な役割を担ったことは想像に難くないでしょう。
13-14世紀の写本挿絵はパリの工房が中心で、『聖ルイの詩編』や『フランス大年代記』と言った作品が代表作です。
この頃パリでは伝統的な特徴を引き継いではいるものの、空間や風景の描き方に劇的な変化が現れます。
更に絵画に必要な新しい接着剤が発明されたことにより、絵に透明感が増したりしています。
13世紀末にはこの写本挿絵工房から偉大な画家が生まれています。
画家オノレの工房から『フィリップ・ル・ベルの時祷書』
ジャン・ビュッセルの工房から『ロベール・ド・ビリングの聖書』、『ベルヴィル家の時祷書』などが生まれています。
写本の余白を十分に活かし、花々や樹木のリアルな表現、人間や動物による風刺的な場面が組み込まれています。 

さまざまな貴金属・工芸品・彩飾写本を所有していたベリー公ジャンですが、
建築にも熱中し17におよぶ城館を手掛け、リュジニャン城やブールジュの教会など改築事業やコレクションに厖大な財産を投じるあまり、ベリー公領はフランス中で最も税が重い地域になり、ジャン1世の歿後相当な額の負債が残されたそうです。
とんだ領主だこと!

そしてもう1軒、当時国際ゴシック美術の先端を行っていたのが義父、ブルゴーニュ公フィリップ2世
ランブール(Limbourg)兄弟もベリー公の元へ行く前にこちらで働いていたとか。
こちらではフィアンドル出身(現オランダ)の彫刻家Claus Sluter(クラウス・スリューテル)が活躍していました。
この人は美術史史上、当時の北ヨーロッパでもっとも重要な彫刻家で、次世代のヤン・ファン・エイクらが完成させた初期フランドル派による「北方写実主義」の先駆者と見なされています。
スリューテルはブリュッセルで、1385年から1389年にかけてジャン・デ・マルヴィルの助手をしていましたが、
その後ブルゴーニュ公フィリップ2世の宮廷彫刻家として活躍しました。
1389年から死去するまで宮廷彫刻家兼大公の近侍の地位にあり、死後その地位は甥に引き継がれたそうです。

彼の作品の特徴を一言で言うなら「写実主義の復活」
ギリシャ、ローマ時代の彫刻のような今にも動き出しそうな血の通った彫刻に立ち返ったことが、彼の偉大なところです。
特に優れているのは、衣服のドレープの流れる感じやボリュームの描写。
表情もとても豊かです。
『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』と並んで、美術史を語った本の国際ゴシック様式の項には必ず載っているの彼の代表作がこれ。
 
フランス中部に位置する、かつてはブルゴーニュ公国の首都であったDijon(ディジョン)郊外に戻ったクラウス・スリューテルが、フィリップ2世が設立したChampmol(シャンモル)修道院のために作成したPuits de Moïse『モーゼの井戸』。
また、シャンモル修道院に安置されていたフィリップ2世の棺の彫刻もほとんどが彼が手掛けたものですが、この棺は修復されて、現在はディジョンの歴代公爵の宮殿に置かれているそうです。
とにかくこの『モーゼの井戸』は後期ゴシック彫刻の最高傑作と言うだけでなく、フィアンドル美術の写実主義の先駆者(彫刻?)と言える作品ですね。

とこれらの最先端のゴシック美術に触れる機会が大いに恵まれたアメデーオ8世
その宮廷で活躍した画家が彼一人だったとは考え難いですが、現在記録に残っているのはGicomo Jaquerio(記録は1401年から1453年)だけ。
 アメデーオ8世の前の代からサヴォイア家に努めていたようです。
代表作はこちら。

Abbazia di Sant'Antonio di Ranversoに描かれたフレスコ画です。
彼の作品から当時のPiemonteの絵画の特徴が良く分かります。
例えば画家で細密画も手掛けていたJean Bapteur di Friburgo、彫刻家のJean Prindaleなどの影響が見られます。
更に国際ゴシック様式の最先端を行っていたベネツィア出身のGregorio Bonoの協力なども考えられます。(正確な記録はありません)
とにかく記録が少ないんですよねぇ。

記録が少ないので、評価もあまり良くないのですが、Jaquerioが同時代のPiemonteの画家に多大な影響を与えたことは事実です。
そして、次回はそちらの方を攻めて行きたいと思います。
クリスマス以降かなぁ… 



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