イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

「貴婦人のくちづけ(baci di dama)」とカテリーナ・デ・メディチ(Caterina de' Medici)

2021年09月19日 17時34分00秒 | イタリア・食

既に結構前のことになってしまったが、イタリアから一時帰国していた友人からお土産でbaci di damaを貰った。

写真:https://www.cucchiaio.it/ricetta/ricetta-baci-dama/
baci di damaとは「貴婦人のくちづけ」という何とも甘いネーミングのイタリアでは伝統的なお菓子。
友達からお土産でもらったのは、珍しラズベリーのジャムが挟まったもので、彼女が住んでいるミラノ郊外のものだった。
友人はパッケージがダサいと言って、中身を別の袋に入れてくれたのだ、メーカーは不明。
最近翻訳の手伝いをしたので、その見返りに来年の里帰りの際には袋でもらうことにした。

baci,つまり「キス」と名のついたお菓子はピエモンテ地方に数あるのだが、それは「チュッ、とキスするときのように、小さくすぼめた口でも食べられる小ぶりのお菓子」という意味。
この「貴婦人のくちづけ」がいつ、どこが発祥かもはっきりしない。

伝説の世界では、1852年ヴィットリオ·エマヌエーレ2世(Re Vittorio Emanuele II) ある日宮廷料理人に今までにない味と形の新しいお菓子が食べたいという。宮廷料理人達は小麦粉と砂糖、卵とチョコレートを使いそれをオーブンで焼いて新しいお菓子を作った、という話が有るが、実際にはトルトーナ(Tortona)が有力で、他にもサボイア家の領地だったエリアで1800年頃に出来たと考えられている。

トルトーナのバーチは1890年生まれ。
ザノッティ(Zanotti)兄弟が考案、“Baci di Dama Zanotti”としてアレッサンドリア(Alessandria)で商標登録した。
しかし、1890年代半ば、アンジェロ(Angelo)という兄弟の一人が、新しい菓子店を開店、同じくトルトーナで菓子店を営んでいたStefano Vercesiと一緒に働き始め、1900年に入ったころには2人で“Fratelli Vercesi”という菓子店を営むことになった。
ここで特許に関する争いが勃発。
2家族、2店の争いは、まぁいつの時代も世界中どこでも尽きないもの。
例えば横浜なら「K」のマークで有名な鞄屋キタムラ。他にも京都の一澤帆布などがあるが…なぜか両方鞄屋さんだが。
最終的にはVercesiの方が生地にココアを入れ、半球ではなく卵型に変え、”バーチ・ドラート(baci dorato)”として売ることにしてこの争いは収束、“Baci di Dama Zanotti”は1930年代特許権が切れるまでバーチ・ディ・ダーマを名乗れるのはザノッティだけだった。
現在ではピエモンテのお菓子と言えば、というくらい有名で、中小大の様々なお菓子屋が販売している。ちなみに伝統的なバーチに挟まれているのはチョコレートで、私が友達にもらったラズベリーはかなり異色だった。

参考:https://storiediterritori.com/2020/03/14/i-baci-contesi/

このお菓子と非常に似たお菓子にAmaretti(アマレッティ)というものがある。
実は今まで私もちょっと混乱していた。
いや、私だけではなくWikipediaにもこう書いてある。
「このお菓子の柔らかい版はバーチ・ディ・ダーマ(Baci di dama)という。アマレッティよりしっとりと柔らかくホロホロした食感である。」(引用
ん?そうではない気がする…


写真:https://www.ditalia.com/products/lazzaroni-amaretti-cookies

こちらの歴史は更に古く、ルネサンス期にヴェネツィアで生まれたという。
アマレッティの特徴は、生地にアーモンドを使うこと。
当時イタリアではアーモンドが手に入っていた。
フランスには当時アーモンドはなかった、だからイタリアが元祖といっている人もいるが…
個人的にはアマレッティはあまり好きではないけど、バーチ・ディ・ダーマは好き…
しかし、「なぜ?」
確固たる違いが言い表せないんだなぁ。

それにしても、サイト(特に日本語のページ)を見ていると混乱が見られる。
アマレッティがフランス菓子の代表と言える「マカロン」の元祖でバーチ・ディ・ダーマではない。
アマレッティをフランスにもたらしたのは彼女だ。

写真:Wikipedia
Caterina de'Madici(カテリーナ・デ・メディチ、仏:カトリーヌ・ド・メディシス)
カテリーナがオルレアン公アンリ・ド・ヴァロワ(後のアンリ2世)との結婚に際して色々な最新の文化をフランスに持ち込んだことは有名だ。
中でも一番知られているのはフォークだろう。
他にもテーブルクロスを持ち込んだのも彼女だし、エレガントな食事マナーを持ち込んだのも彼女だった。

フィレンツェだけでなく、トスカーナやシチリア出身の料理人たちが彼女と一緒にフランへ行ったので、”イタリア料理”(この時代に”イタリア”料理は存在しない)もフランスへ持ち込まれ、今やフランス料理の代表になったものもある。
例えばla carabaccia (zuppa di cipolle)はsoupe à l’oignon、つまりオニオンスープ。
他にも1533年カテリーナの結婚式に出たl papero al melarancio (o “canard à l’orange”)、ガチョウのオレンジ煮。(現在はレシピが改良されて、一般的に“anatra all’arancia”と呼ばれている)
お肉に果物、この料理は既にフィレンツェでは浸透していた料理だった。
また彼女が非常に好んでいたcibreoという料理も持ち込んだ。
これはトスカーナ州の伝統料理で鶏のもつ、卵、レモンを使ったスープで、彼女はこれにカルチョーフィをトッピングしていたらしい。
また“salsa colla”というソースも持ち込んだらしい。
これはメディチ家の伝統的なソースだったようで、色々な材料で作られていて、どうやらこれが”béchamel”ベシャメルソースの元祖だったらしい。
マカロン、オムレツ、クレープ、明らかにマロングラッセは確かにフランスで進化したが、元々はイタリア発祥にものたちだった。

最後にあまり知られていないけど、カテリーナはすごく迷信深かったようで、常に3で割れる数で料理をさせていたという。
33本の鹿、33匹のうさぎ、6頭の豚のロースト
66羽の鳥のブロード
66羽のキジ
3スタイア(小麦をまく広さの土地)のグリーンピース
12ダースのカルチョーフィ
これがある日のお昼の宴会のメニュー。
全てカテリーナにとって完璧な3という数で割り切れるように準備されたという。
出席者も当然3の倍数人だったのだろうなぁ…

参考:https://www.vetrina.toscana.it/focus/caterina-de-medici-e-larte-della-cucina/



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