Masolino da Panicaleの続きですが…
しんどかった。
昨日、こちらは”無原罪のお宿り”の祝日だったので、激混みの外には出ず、一日資料を読んでいたのですが…
資料少ないのにすごく複雑。
で、集中できず、何を書いたらいいのかもわからず一日終わった。
で、今日も。
さてどうしましょうかねぇ・・・
まぁ論文書くわけではないので、一般的な情報だけで良いですかね?
とりあえずスタートしてみますか。
S.Clementeのフレスコ画を描いた後、Masolinoは同じ依頼主のためにLombardiaへ行きます。
依頼主は枢機卿Branda di Castiglione
彼がMasolinoを選んだのは1425年、Brancacci礼拝堂で仕事をしていたMasolinoとMasaccioを見たから、という説と
Santa Maria Maggioreで仕事をしていたのを見たから、という説があります。
Brandaは2人がS.Maria Maggioreで描いていた頃、毎土曜日ミサをしていたそうです。
まぁどちらにせよ彼の事が気に入ったため、自分の地元の教会の装飾を依頼したのでしょう。
Castiglione Olona
ここ本当に行きにくかった。
でも公共交通機関のみで行かれます。
それも2手段有ります。
1つはミラノからノルド線に乗ってTradateへ。Tradateからバス。
もしくは私が昨年使った方。こっちの方が簡単かな?
但しバス停表示はバスの中で出ないので、運転手に伝えておく必要があります。
ただ、このエリアの運転手、みんな感じ悪かった…
全員が「覚えてられない」と一言目に。
でもみんなちゃんと覚えていましたよ。
Vareseからはバス1本で。
駅のそばのバスターミナルからバスは出るので心配は有りません。
時刻表もそこで確認出来ますしね。
今の世の中だから行きずらいのか、当時も行きにくかったのかは分からないけど、とにかくなんでこんなところに?という感じ。
まぁイタリアにはそんなところいっぱい有りますけどね。
バス降りたとこ。
バス停なかった…反対側は有るみたい。
辛うじて街の看板は有りましたが。
標識に従って曲がる。
しばらくすると教会が丘の上に見えて来た。ここだ。ここしかないもんね。
表示があったので曲がったら
近道だけど、大丈夫?本当に行けるの??という感じ
でも無事着いた。
教会は右手に有るけど、ここからじゃないと入れない。
ここで入場料(写真撮影料込)を払う。
現在Collegiataとも呼ばれている教会と洗礼堂の工事は1422年1月7日から1443年2月3日の間に行われている。
これは当時の教皇Papa MartinoVが工事の許可証を発行しているので、確かな記録。
建物が建てられたのは1425年から28年ということで、かなり短期間。
建築家はAlberto,Giovanni,PietroのSolari兄弟で、様式はロンバルディア・ゴシック様式。
ほとんどの場所のヴォールト(天井)は交差穹窿で、聖堂内陣はドーム型のヴォールトというのがロンバルディア・ゴシック様式の特徴らしいです。
トスカーナはこうではない…と書いて有った。
教会のファサード
これは1428年
この半円の中にCollegiataと関係の有る人が彫られています。
Collegiataとは通称で、本当はChiesa dei Santi Stefano e Lorenzo(聖ステファノ、聖ラウレンティウス教会)という。
聖母の足元に跪いているのが教会建設の発案者のBranda Castiglione
その他は聖母とキリストを真ん中に守護聖人のステファノとラウレンティウス、それとSant'Ambrogio(聖アンブロジウス)とS.Clemente(聖クレメンテ)がいる…はず。(写真では切れてた)
Brandaの好みはゴシックだったわけですね。
だからMasolinoを贔屓にしていたわけです。
Masolinoは常に国際ゴシック様式を貫いていました。
Ghibertiと長い間一緒に働いていたしね。
でもMasaccioと出会ったことで、その信念が一時期揺らいだんだと思う。
Masolinoは「腕は有っても、アイデアがない」と書いて人もいるくらい、古風な人だったんでしょうね。
色々資料を読んで、私が思ったのは、MasaccioはMasolinoが何らかの理由で完成できなかった作品の尻ぬぐい(失礼)をしただけでは?と。
Brancacciは一緒に仕事をしていたみたいだけど…
若い才能に影響を受けて、自分が貫いて来たやり方を替えられるほど、彼は若くなかった。
現にここCastiglione Olonaの作品からはLombardiaの当時の代表的画家Giovanni da Milanoやロンバルディアの偉大な細密画家の影響、
ひいてはMonzaで働いていたZavattariなどの影響も見られるほど、ゴシック様式に戻っている。
Masolinoは最後に自分の事を本当に理解してくれるパトロンの元で、自由に落ち着いて制作に打ち込めた。
それがこんな傑作を残した理由ではないでしょうか?
実はこのCastiglione Olonaのフレスコ画の発見はそれまでごちゃ混ぜに考えられていたMasaccioとMasolinoを区別し、
Masolinoの評価、研究に大きな影響を与えました。
実はここ1700年の終わりごろには既にしっくいで塗りこめられていたんです。
それが一部再発見されたのは1843年、全てが明らかになったのは1927年なんですね。
この発見を最初に紹介したのはGaetano Milaneseで、1906年(それでも半世紀後だよ)彼が注釈したVasariの「芸術家列伝」、I Commentarioにいち早く載せたそうです。
こちらの装飾でより有名なのは洗礼堂の方ですが、まず教会へ。
教会は3廊式の教会で、アプシス(後陣の半円形の天井)に「聖母の物語」と「聖ステファノ、聖ラウレンティウスの物語」がトスカーナ出身の3人の画家によって描かれています。
素晴らしかったです。
この天井部分、vele della volta、帆型アーチの部分に描かれたのが聖母の物語で、これがMasolinoの作品。
受胎告知
この大天使とマリアの間に有る本棚
遠近法が用いられて描かれています。
この様子からMasolinoの静物画への興味も伺えます。
これが丁度正面真ん中にある「聖母戴冠」
建物は尖塔を持つゴシック建築。
聖母の結婚
すっごい輝いてるキリスト。
優しい顔、鮮やかな色遣い、これらが中世からルネサンスへの変遷を証となっています。
そしてここにはちゃんと
Masolinoのサインが「フィレンツェ出身の画家Masolino」と残っています。
そういえば、ここを周る時、係の人が丁寧に案内をしてくれました。
そうじゃなかったら見逃していたかも…
「聖母の物語」で一番重要なシーンの1つで、最後のエピソードとなる「聖母の死」は無くなってしまったそうです。
そしてこの下に有るのが
向かって右が聖ステファノの物語。
なぜなら
一番左の絵が殉教するシーンだけど、ステファノは投石されて亡くなっています。
ステファノはキリスト教徒の最初の殉教者とされています。
ステファノはギリシャ語を話すユダヤ人(ヘレニスト、ユダヤ系ギリシア人)でした。
初代教会においてヘブライ語=ユダヤ語を話すユダヤ人(ヘブライスト)とヘレニストの間に摩擦が生じたため、問題解決のために使徒たちによって選ばれた7人(他にプロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、ニコラオ、フィリポ)の一人でした。
ステファノは天使のような顔を持ち、「不思議な業としるし」によって人々をひきつけたため、これをよく思わない人々によって訴えられ、最高法院に引き立てられます。
これがたぶんそのシーンかな?
そこでもステファノはユダヤ教を批判したため、石打ちの刑に処せられまた。
そして左側は
こっちはもっとコンディションが悪い。
聖ラウレンティウスの物語。
このシーンは???
左側は貧しい人に施しをしているところ、右側は皇帝に呼び出されたところかな?
ラウレンティウスは、スペインでキリスト教の迫害が激しかった225年生まれた。
後にローマ教皇シクストゥス2世(Sisto II)の執事に任命され、教会財産の管理と、貧しい人々への施しを担当していた。
258年のある日、皇帝により、教皇とラウレンティウス以外の執事が逮捕された。
教皇はラウレンティウスに、すぐに財産を処分して、貧しい人々に施すことを命じ、ラウレンティウス自身もじき逮捕されるであろうと告げる、斬首の刑に処せられた。
ほどなくして、ラウレンティウスも逮捕され、教会財産を渡すように言われたが、困窮している人々、体の不自由な人々を連れて来て、彼らこそ教会の財産であると主張した。
というのが殉教までのお話。
下は殉教シーンだと思うけど、ちょっと分からないなぁ…
聖ラウレンティウスは生きながら熱した鉄格子の上で火あぶりにされたので、大抵鉄格子(焼き肉用の網みたいなの)と一緒に描かれることが多い。
これRavennaのモザイクだけど聖ラウレンティウスの殉教シーンとしては一番分かりやすい。
キリスト教徒ではない私たちにはこの辺、見ただけでは分からないのが辛い、といつも思います。
まぁでも絵画のモチーフになる聖人って結構限られているので、そのうち覚えますけどね。(すぐ忘れるのが玉に瑕)
この2つの物語はMasolinoのものではなく、シエナで活躍していたLorenzo di Pietro、通称Vecchiettaと
Paplo di Stafano Baladoni,通称Paolo Schiavoの2人のトスカーナ出身の画家によって描かれています。
Vecchiettaはシエナでずっと仕事をしていたのに、なぜかフィレンツェの画家の特徴を絵にも彫刻にも出していた珍しい人物だったようです。
ちなみにPaolo Schiavoの作品が身近に有ることが分かりました。
San Miniato al Monteに描かれたフレスコ画で「聖母と聖人」
1436年、年号もサインも残されています。
フレスコ画描かれた壁の下にはBranda di Castiglioneの墓があります。
これはコモ出身だけどフィレンツェで修業した兄弟Filippo e Andrea da Caronaの作品。
彫刻の方が数年早くルネサンスの息吹を感じさせています。
Brandaは宗教だけでなく非常にインテリな上、フィアンドルなどから美術品を取り寄せるなど芸術にも非常に精通していたようです。
例えば主祭壇の正面に下がっているこれ。
こんなろうそく立て(ランプ?)見たことがない。
これ真鍮製の15世紀のフランドルのゴシック様式で出来た貴重なものでKapellenkroneというみたいですね。
イタリア国内はここにしかないみたい。(確かではないです)。
透かしの模様がなんとも言えないですねぇ。
ちなみに同じようなものがこれ
こちらも真鍮で出来てるらしいですが、メトロポリタン美術館に所蔵されています。
これ自体は1875年頃の複製らしいですが、モデルは1450年頃のフランドルだそうです。
というところで、このまま洗礼堂に行くにはちょっと長くなるので、いったんここでお別れ。
続きは次回ということでお許しあれ~
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