昨日Melozzoの事を読んでいた時に、彼がLoretoに描いたタイプは15世紀では伝統的なもので、
15世紀初めにMasolino da PanicaleがS.Clementeに描いたもの
1480年代にPinturiccioがS.Maria in AracoeliのCappella Bufaliniに描いたものと同じ、と書いてあった。
ということで今日は先日本物見たことだし(別の目的でS.Clementeに行って初めて思い出したんですけどね)、Masolino da Panicaleが描いたS.Clementeのフレスコ画にスポットを当ててみましょう。
しかし、うちには彼の資料がないので、まずそれを探しに行ってみた。
とりあえずArt Dossierという雑誌を入手。
これ薄い雑誌なんだけど、大学の教授も勧めてるくらいしっかりした内容。
更に今は安くなっていて、2.5€
午後はそれを読んでいました。
イタリア語読むの久しぶり…
さてさて、Masolino da Panicale、本名はTommaso di Cristofano di Finoというらしいですが、この名前じゃあまず分からない。
PanicaleはSan Giovanni Valdarnoに有るそうですね。私はてっきりUmbriaのPanicaleかと思っておかしいなぁ…と思っていましたが。
この人の記録も本当に確かなものが少なくて、更に常にセットで語られるMasaccioとの混同もあって、なんかかわいそうな人です。
ひとえに原因はVasari!
本当に罪な人ですよ、ヴァザーリは。
この人以前に芸術家について記録した人がいないことも悪いのですが、
後世の評価などがヴァザーリに頼りっぱなし。
それなのに当の本人は個人的な好みとか、結構正確な調査を怠って書いていた節があるんです。
まぁ本人は後世自分の著書はそんなに重要視されるなんて思ってもみなかったのかもしれませんけどね。
Masaccio、Masolinoに関しても「芸術家列伝」の1568年の第2版で、Masaccioのデータが少なかったので、Masolinoのデータもここに混ぜちゃったらしいです。
意図的に、ではないでしょうけどね。
Masolinoの若かりし頃の記録はほとんど残っていません。
いつ生まれたのかも、またいつ死んだのかも断定でしか有りません。
生年の方は1427年に43歳だった記録が残っていることから1383か84年生まれと考えられていて、
死亡したのは1440年頃。
と言うのも1440年から記録がなく、1447年にはFirenzeで同名の人の墓が記録されている。
若い頃はOrafo(金細工職人)だったようで、画家として目が出る、記録されるのは40歳以降。
1423年にようやく画家として登録を済ませたことが記録されています。
この頃の寿命を考えると遅咲きどころではないですよね。
片やMasaccioの方は16,7歳も年下で、1401年生まれ。
1401年はルネサンスの幕開けと言われる「天国の門」のコンクールが開かれた年ですね。
Masaccioはかなり若いうちから画家としての名声を得ていたみたいです。
MasolinoをMasaccioの師と考える向きもありますが(ヴァザーリが匂わしている)、Masaccioの最初の作品と言われるものを見てもMasolinoの影響は全く見られないことから、
現在はこの説はない、と考えられています。
但し、二人はたびたび共同制作をしているのは事実で、これは彼らが単に同郷だったから、では片づけられない問題です。
Masolinoがどのように画家として育って来たか、確かな記録がないのと同様、いやMasaccioの方が記録が残っていない。
AlbertiはMasaccioは非常に優れた画家だが、Masolinoはそれほどでもないと、著書”De pictura”で指摘しています。
他の資料では彼ら二人を区別して評価しているものはないそうです。区別できなかったということのようですが…
ただ、これって「天国の門」のコンクールの結果でも言えることなのだが、
2人の優劣ではなく、どちらが伝統的でどちらが革新的かということでしかないと思うんですよね。
より伝統的、ゴシックの特徴を引きずっていたGhibertiが、革新的で時代を先取りしていたBrunelleschiに勝利したのは、審判の好みがより伝統的な方に傾いていたから。
だってもしMasolinoが二流の画家だったら、枢機卿などからの依頼はまずなかったと考えて良いのではないだろうか。
Masolinoはゴシック、Masaccioをルネサンスと位置付けることが出来るでしょう。
まぁ何を言っても二人の関係は浅からず、どんな縁やいきさつが有ったのか分からなくても、彼らが一緒に働いていたという事実は間違えない。
二人の共同制作で一番有名なのはこれでしょうね。
Romaの話がしたいので、ここでこのフレスコについて詳しく述べるのはやめますが、1424年Felice Brancacciの依頼Carmine教会にフレスコ画を描き始めます。
実は2人はここが初めての共同制作ではなく、それ以前にSanta Maria Maggiore教会Cappella di Paolo di Berto CarnescchiのためにLa Pala ColonnaもしくはPolittico di Santa Maria Maggioreと呼ばれる多翼祭壇画を制作しています。
こちらも正確な記録がないのですが、1428年にはMasaccioは亡くなっているので、それ以前教皇Martino Vが聖年と定めた1423年頃が有力と考えられ、そうするとBrancacci礼拝堂より前、ということになっています。
これもともと両面に描かれていた多翼祭壇画なのですが、現在はバラバラに所蔵されています。
この左側の San Girolamo(聖ジローラモ)とSan Giovanni Battista(洗礼者ヨハネ)だけがMasaccioの作品で
後は全部Masolino
だから共同制作と言うよりも、協力者というのが正しいのかも…
そしてはっきりした記録がないことで、更にこんがらがっているのですが、実はこの時期MasolinoはRomaでフレスコ画制作を依頼されています。
それがBasilica San Clemente
依頼主は当時Titolare(責任者)だった枢機卿のBranda di Castiglione
実はこの前にもBranda di Castiglioneの依頼でCastiglione Olonaにフレスコ画を描いているMasolinoなんですが…とここで問題が。
本当にそれが先なのか?
Castiglione Olonaにフレスコ画を描いたのは1435年から40年の間となっていて、こちらのS.Clementeの方は3つの案で現在も割れているようです。
その1.Masolinoが単独で1428年から31年の間に描いたとするのは多くの美術史家たち。
その2.いやいや、Masaccioの痕跡が見られるので、それより前の1425年から28年の間。Masaccioは28年(9?)にRomaで亡くなっています。でもMasaccioの死後完成。
そしてその3は完全な共作。ということで製作期間は1423から24年の間。
はて、どうしたもんですかねぇ???
S.Clemente教会を入ってすぐ右側にその礼拝堂はあります。
Cappelaa di Santa Caterina(聖カタリナ礼拝堂)もしくはCriocifissione(キリスト磔刑)と呼ばれています。
名前の理由となっている聖カタリナ(Santa Caterina d'Alessandria)の殉教の場面は向かって左側の壁に描かれています。
ここは下から上へと物語は流れているようです。(珍しい)
エジプトのアレキサンドリアの貴族の家に生まれたカタリナは ひとりの隠修士からキリストの教えを聞き、洗礼を受けます。
18歳のとき、ローマ皇帝Massenzio(マクセンティウス)は、市民たちに偶像崇拝を命じ、従わない者は処罰することを公布した。
カタリナは、公に信仰を表わしたので、皇帝は50人の学者を集め、彼女を屈服させようとしたのですが、反対に学者たちは彼女に感化されて、キリスト教こそ真の宗教であると公言し、改宗してしまいます。
それがこのシーン
そして憤慨した皇帝は、学者全員を処刑したが、カタリナに対しては、その学識の豊かさと美しさに心をひかれていたので、彼女が信仰を捨てれば、皇后にするとまで言いました。
しかし、彼女が拒否したので、皇帝は怒り、彼女を車輪に縛りつけて身を引き裂くという刑を執行するよう命じます。
それがこのシーンで、この車輪が彼女の象徴として表されています。
このシーンからも分かるように、天使が助けにやってきたため、彼女は死を逃れるのですが、結局斬首されてしまいます。
彼女の死体は天使がMonte Sinaiに運んで行きました。
このシーンが一番上に当たります。
ちなみに聖カタリナは「十四救難聖人」の一人なんだそうです。
「救難聖人」(Santi ausiliatori)って聞きなれないものは何?と思ったら”危急の際に信者がその名を呼ぶことで難を救ってくれるとされる聖人”だそうです。
アレクサンドリアカタリナは「急死」と書いて有るんだけど、死んだら名前呼べないよ。
でも聖カタリナってとても人気のあるテーマの1つであることは確かです。
あ~もう1か所思い出しちゃった…それはまたの機会だなぁ。
そして正面には大きなキリスト磔刑図
この教会は見どころいっぱいなのに写真は一切不可。
ということでこれらの写真はサイトから拝借しています。
たとえ撮れたとしてもここは柵があるので、うまく撮れないかも…
こんな感じ。
私的にはMasaccioの影はないかと。
保存状態がそれほど悪くないのは1954年から56年の修復のお陰かな?
この修復のお陰で、先ほどのカタリナの場面やこのキリスト磔刑では、画家が絵を描きなおしたあとが発見されたそうです。
またこの時見つかったSinopia(フレスコ画の下絵)は壁からはがされ、左身廊の壁に新たな基盤に張られて展示されています。
礼拝堂入り口のアーチには
受胎告知。
これこそMasolinoって感じがしますけど。
マリアの服はラピスラズリの青だったのかな?
黒い服、ということはないので、酸化してる感じ…
最後は天井
4人の福音史家とそのシンボル。更に福音史家が教会博士をそれぞれ連れています。
教会博士(Dottore della chiesa)とは何ぞや?
”教会博士(ラテン語: doctor ecclesiae)は、キリスト教ローマ・カトリック教会において、聖人の中でも特に学識にすぐれ、信仰理解において偉大な業績を残した人に送られる称号。
古代世界において活躍した偉大な4人の教父、
・ラテン教父のアンブロジウス
・ヒッポのアウグスティヌス
・エウセビウス・ヒエロニムス
・グレゴリウス1世教皇(大聖グレゴリウス)
は、早くから教会博士とよばれて尊敬を受けていた。彼らは1295年に時の教皇ボニファティウス8世によって「教会博士」という称号を公式に受けた。”(Wikipediaより)
ということで多分この4人でしょうね。
とまぁこんな感じでS.Clementeのフレスコ画の話は終わるわけですが、もう1つCastiglione Olonaのフレスコ画についても詳しく触れたいのですが、
ここまででかなり長くなってしまったし、
今晩はミラノの聖人教会博士の1人S.Ambrogioの祝日、ということでミラノスカラ座の今シーズンの杮落しが有って、
珍しくテレビで完全中継していたため、それを見ていて時間が無くなってしまったので、続きは次回。
今年は「蝶々夫人」だったのですが、やはりどんな演出で見ても変なんですよね。
今回はまし?と思ったけど、何かねぇ…
最後に蝶々夫人が自決する時、足を紐でしっかり縛るという、日本人でも知らない人多いんじゃない?と知識で細かな演出が出来るなら(女性は腹ではなく、のどを掻っ切るなど)
もっと大きなところを見直して欲しい。
今回は1904年の初演時、大失敗したバージョンということで、普段聞いたことのない「蝶々夫人」が聞けたのは良かったですけどね。
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