1480年Botticelliはシスティーナ礼拝堂にフレスコ画を描くため、「神曲」の仕事を中断してRomaに向かいます。
2年後、Boticcelliは仕事を終え、Firenzeに戻ります。
BotticelliがRomaに赴く3年前、教皇Sisto IV(シクトゥス4世)の命でヴァチカンに呼ばれる画家がいます。
Sisto IVは言わずと知れた15世紀最大のパトロンで、彼の名が付いたシスティーナ礼拝堂はあまりにも有名です。
SS.XII Apostoliに描かれたフレスコ画にも関わっていたある画家。
彼はこの時ヴァチカンの図書館の装飾のために呼ばれていて、そこには一緒にAntoniazzo Romanoもいたそうです。
画家の名はMelozzo da Forlì
名前から分かるようにForliの出身。
イタリアでは高校の美術の教科書には必ず彼の絵が出てくるほど有名なのに、彼の人となりは良く分かっていないんです。
1つの原因はVasariが1550年版の「美術家列伝」ではBenozzo Gozzoliとごちゃ混ぜに、1568年版では訂正はしたものの、ほとんど彼の経歴の事は載せなかったことにあるとか。
ただ名前は知らなくても彼の絵を見たことがある人は多いかも。
こちら
現在ヴァチカン美術館所蔵の作品で、Sisto IVが前に跪いている人文学者Bartolomeo Sacchi、通称il Platinaを初代図書館長に任命する様子が描かれています。
Melozzoはこのヴァチカン図書館の前にもSisto IVから仕事を依頼されていて、それがSS.XII Apostoliのアプシス(後陣の半円形の部分)のフレスコ画だった。
ん?でもあの教会にはそれらしきものはなかったが???
ということで色々調べると、SS.XII Apostoliに描かれた作品は現在ヴァチカン美術館に収蔵されているこれら
この作品はMelozzoの成熟期の作品で、現在ヴァチカン美術館に残っていて16破片。
1938年にヴァチカン美術館が再構築を試みたこともあるらしい。
確か数年前Forlìで行われた特別展にも有った気がする…
アプシスに描かれたMelozzoの絵は既に1702年の時点で気候や埃のせいでかなり傷んでいたらしく、1702年から1711年の教会再建中に現存する破片以外は全てなくなってしまった。
更にこの作品がいつ描かれたのかなどの詳細な教会の記録も、1527年のSacco di Roma(ローマ略奪)の時にほぼ無くなってしまった。
ということで、この作品が正確にいつ描かれたのかは分からない。
実は礼拝堂に行った時にもらった資料には、「Melozzoの介入も有った」と書かれていたので、そこのところが知りたくて、ちょっと資料をあたってみたんだけど、やはり資料が少なくてはっきりしないですね。
唯一見つけたAntoniazzo Romanoの資料にはAntoniazzoが一人でこのフレスコ画を仕上げたわけではないことは確かだけど、
その協力者にはLorenzo da Viterbo、もしくは彼にとても似た作品を描く人がが有力と書いて有りました。
この資料は現在ヴァチカン美術館館長のAntonio Paolucci氏のものです。
彼によると 1464年から67年の間に、Bessarione礼拝堂のフレスコ画が描かれたことになります。
前回書いたように、度重なる改築で下の部分はかなり破壊されてしまいましたが、もともとこの礼拝堂は全面フレスコ画で覆われていたようです。
まず下から上へと描かれたGiovanni Battista(洗礼者ヨハネ)の物語。これは現存しません。
そして2枚(?)残されたArcangelo Michele(大天使ミカエル)の物語。残っている2枚はほぼ完全な状態。
それから天井に描かれた勝利のキリストを囲む9つの集団に分かれた天使たち。こちらも部分的に現存しています。
この中でも特に重要度が高いのは中央に描かれた大天使ミカエルの出現に関した2枚の作品。
San Michele(聖ミカエル)はキリスト教のイコノグラフィでは 戦士の姿をした天使や人間を救済へと導く指導者として表され、常に悪から守ってもらうことを祈願されてきた。
特に中世では十字軍などに赴く兵士の守護者とされていた。
ちなみに ミカエルは神の使いとして天と地を往復するとされていたので、ミカエルに捧げられた聖堂の多くが岩山や山頂などに建てられました。
左側のこちらの絵は、APPARITIO EIUSDEM IN MONTE GARGANOと下に書かれていますが、GarganoのSipontoという街に出現した牛の姿をした大天使のシーン。
洞窟の中の牛や左の弓を射る紫の服を着た男がMelozzoの手によるともらった資料には書かれていますがどうでしょうかね?
山の多いこの風景は、大天使が牛の姿で現れた490年頃のGarganoのMonte Sant'angeloの特徴をよく表しているそうです。
ちなみにこの大天使が出現したという場所には現在 santuario di San Michele Arcangeloとして聖地になっていますが(今年の流行語に”聖地巡礼”という単語が入ったらしいですね…本来の意味わかってんのか?)
面白いのがこの場所は同時に "Longobardi in Italia: i luoghi del potere”(イタリアのロンゴバルド族。権勢の足跡)というのにもなっていて、ユネスコの世界遺産に登録されています。
ロンゴバルドはミカエルがたびたび出現したと言われる洞窟の上に建造物群を建てました。
19世紀になって、フランスのモン・サンミッシェル、SusaのSacra di San Micheleそしてここを結ぶ巡礼コースはVia Sacra Langobardorum(ウィア・サクラ・ランゴバルドルム)と呼ばれ、現在でもミカエル信仰の重要な役割を担っています。
”伝承によると、シポントの司教であり、現在ではマンフレドニアの守護聖人とされる聖ラウレンティウス・マイオラーヌス (San Lorenzo Maiorano) は、シポントからほど近いガルガノ山(Monte Gargano 現在のサンタンジェロ山 Monte Sant'Angelo)において、所有する家畜を放牧させていました。
492年5月8日、牧童たちが目を離した隙に一頭の雄牛がいなくなりました。牧童たちが探したところ、険しい崖を登りきったところに洞窟の入り口があり、牛はそこで丈夫な蔦に角を絡めているのが見つかりました。
牛は蔦が角から外れずにいら立っており、危険で近づくことができなかったので、牧童たちはやむを得ず牛を目がけて矢を放ちましたが、矢は何と途中で向きを変えて、射手の方へと飛んで来るではありませんか。これを見た牧童たちは怖れを為して、すぐにその場から逃げ出しました。”
この絵はまさにそのシーンを描いたもので、物語はこの後
”この出来事はすぐにシポントに伝わり、司教は市民に三日間の断食と祈りを命じました。三日後、大天使ミカエルが司教に現れて、ガルガノ山の洞窟はミカエルの保護のもとにあること、神と天使たちの名のもとに洞窟を聖別するよう神が望んでおられることを明かしました。この啓示を受けた司教が聖職者たち、市民たちとともにガルガノ山の洞窟に行ってみると、洞窟内部は聖堂にふさわしい構造となっていました。”(こちらから引用させていただきました。)
そして向かって右側。
下にAPPARITIO EIUSDEM IN MONTE TUMBAと書いてあります。
こちらは聖ミカエルのフランス版の伝説に登場するS.Auberto(アヴランシュ司教オベール)の夢に登場する聖ミカエルがテーマのようです。
紀元708年に聖オベールの夢の中に大天使ミカエルが現われ、「この岩山に聖堂を建てよ」と告げます。
その聖堂がモン・サン・ミッシェルです。
ここに描かれたシーンは要人が行進する様子。
真ん中に居るのが司教オベールです。
一番手前に描かれている人たち、中でもプルヴィアーレ(マント風の祭服)の背中に描かれた金の装飾がMelozzoの手によるもの…かもと。
遠くにはモン・サン・ミッシェル
現在の形とは違いますが、海に面しているし、特徴はつかんでいるんじゃないかな?
山の上につながれた牛は聖ミカエルの象徴です。
そしてこの2枚に加えて天井に残されたこれ
元々中央にCristo trionfante(勝利のキリスト)のフレスコ画が有ったはずですが、現在残っているのはマントだけ。
キリストを囲む天使たちは辛うじて残っていますが。
これらはAntoniazzoと工房、そしてMelozzoの協力で描かれたとされています。
場所はすごく狭くて、でも2階に上がれて間近でフレスコ画を見られるのは良いのですが、上りのらせん階段はすごく狭いし、
2階の足場はあみあみで下が見えて・・・ちょっと怖かったです。
なにせ高所恐怖症、特に下が見えるところは2階ぐらいの高さでもちょっと…
しかし、これだけなのにまた色々新しい発見が有って良かったな、と。
ちなみにこの教会にはもう1つ見るものが有りました。
Clemento XIV(教皇クレメンス14世)のお墓、Antonio Canova作
あ~それから
天井はSebastiano Ricciだったのね。
調べれば調べるほど奥深く、でもなかなかちゃんと調べないから後で後悔ばかりです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます