余暇Hike気分

「起きチョッた~?」退職後の生活を楽しんでる私は娘からの電話に応えます。「起きチョるよ~!」

神話の里/高千穂(2014年)

2015-03-02 | ドライブ・たび

  年が明けてから何かと気ぜわしい日が続いています。 gooメールの移行や、OCNのサービス終了で気まぐれに作っていたホームページが消えることになるし、妹の13回忌で宇治に行ったり、子の3回忌の準備・・・  そのうえ一年間通ったビデオや俳句の講座の、学習発表会のための作品作り・・・
何かやることがあるっていうのは、いいこと!よ」 な~んて煽てられながら、あっという間に2ヶ月経ってしまった ><。
  ホームページはもういらないと思っていたので消えてしまっていいのですが、旅行の記事をブログからリンクさせていたのを思い出し、ブログに移すことにして前回2006年の「雨の高千穂」をアップ。  そのついでに、昨年(2014年)11月12・13日、
ビデオ教室の撮影旅行で高千穂地方に行ったときのことを、メモ代わりにアップすることにします 


  前(2006年)にfujipaとyoshiの3人で行った高千穂( 雨の高千穂(2006年))は、土砂降りのドライブだったのを思い出します。
今回のビデオ教室総勢14名で行く「高千穂ビデオ撮影旅行」、 メンバーに中型自動車を提供してくださる方がいて1台で行くことができ、運転までお任せして有難い旅行となりました。

お天気にも恵まれ 「天岩戸神社」「夜神楽」「国見ケ丘」「高千穂峡」と予定通り歩き回り・・・?? とまでは行かないか・・・^^、 自分なりに大いに端折りながらついて行きました。
ですが残念ながらかなり風が強く、期待の国見ケ丘での雲海は見ることはできませんでした

天岩戸神話の舞台 天岩戸神社 (2014/11/12)

境内というか参道? 


「天照大神 (あまてらすおおみかみ)像」と
岩の戸を取り払うという舞にある「手力男命戸取(たぢからおのみことととり)像」

境内には芭蕉の碑もありました 「梅が香にのつと日乃出る山路哉  はせを」

『まさに、高千穂地方早春の光景そのもの』 だということです

  ここから谷の方へ降りていくと岩戸川があり、500メートルぐらい?川上には、天照皇大神が天岩戸へ籠ってしまわれた時に、八百萬(やおよろず・大勢)の神々が集まって、ご相談されたという「天安河原(あまのやすかわら)」がある、・・・そうです。
どうして・・・そうです? かというと毎回私はここから先には行っていないからです。
見ただけで、私の足ではこの坂を戻ってくるのは少々きついかも・・・と思い、今回もここから引き返しました。
  天照皇大神が籠ってしまわれたという天岩戸へも、案内してもらえば所要時間20分ぐらいということのようなので、いまだに行ったことがありません(><;


天安河原へ                   来た道を振り返って

天安河原へは行きませんでしたが、ここで私は、
さらさらと落ち葉が降るのを観ました
まるで谷を流れる岩戸川のせせらぎの音と戯れあってるようでした

・・・・・さらサラさらサラさらサラさら・・・・・


神話の里で 夜神楽 (2014/11/12)

夕食後は高千穂神社・神楽殿で「高千穂夜神楽」を鑑賞


手力雄の舞                鈿女の舞


戸取の舞                ご神体の舞


この坂を上がると夜神楽のある神楽殿、夜は道脇に松明が焚かれていました


夜神楽からの帰りにはライトアップされていた鈿女の舞の像



神話の里におちば降る  (02:56)




雲海を期待して 国見ケ丘

国見ケ丘は、神武天皇の孫・建磐龍命(たていわたつのみこと)が九州統治の際に立ち寄って
国見をされたという伝説の丘、「雲海」の名所として全国的に知られています

天孫降臨神 (↓「高千穂」の謂れ↓)


標高513mのこの丘からは、西に阿蘇の五岳、北に祖母の連山、
東に天香具山、高天原、四皇子峰や高千穂盆地、
眼下に五ヶ瀬川の渓流が一目で見渡せるなど 360度、素晴らしい眺望です。



明日早朝の撮影に備えて、宿に着く前に 国見ケ丘 を下見・・・
どちらを向いても さすが「国見ケ丘」の名にふさわしい眺めに心洗われます。








強風の中、明朝の「雲海」を期待しての下見だったのですが・・・・

翌13日朝 6時過ぎ
ビデオカメラをセットして夜明けを待ったのですが
残念ながら雲海は見られませんでした





旅の最後にゆっくり 高千穂峡

高千穂峡の遊歩道から見た 高千穂三段橋

一つの渓谷に3本のアーチ橋が架かるのは全国でも珍しいらしい

「仙人の屏風岩」 切り立った柱状節理独特の美しさに圧倒される

↑ ビデオカメラで撮った静止画(ホワイトBは「オート」)
同じところを コンデジで ↓ (ホワイトBは多分「太陽」)


黄葉して膨らんで見ゆ屏風岩   ふじ


自然歩道

真名井の滝
真名井の滝

前回行ったときには、車を降りて「真名井の滝」まですぐだったのですが、
今回は景色を愛でながら廻るコースらしく、
私が滝に着いた時には歩きはじめて1時間経っていました。
そこから先はもう皆さんにお任せして、ボート乗り場辺りにも行かず、
帰りの集合に遅れないようにここからすぐに引き返しました。


雨の高千穂(2006年)

2015-02-28 | ドライブ・たび
  この記事は、OCNのホームページサービスの終了に伴って、
2006(H27)年の記事をこちらに移したものです。(2015年2月再掲)



ドライブノート 日程:2006.9.5(火)~9.7(木) 更新日2006.9.20
 雨の「高千穂」と 霧の「霧島」
~通行止めの迂回路を迷いながらの思い出深いドライブとなりました~

「高千穂峡で川下りがしたい」という娘に便乗し、「高千穂」「霧島」をめぐる2泊3日のドライブ旅行を計画。
土砂降りにあったり、迂回路をウロウロしたりの旅だったけど「ドライブしたぞ!」と気分はおおむね満足。
できなかった川下りと、すばらしい雲海を見るために、機会があればもう一度したい旅となりました。

メニュー
関係ブログ
1日目
通潤橋高千穂
Yoshi's Photo1
2日目
高千穂~霧島
Yoshi's Photo2
3日目
えびの高原~帰途へ
Yoshi's Photo3


1日目 
(2006年9月5日) 通潤橋・高千穂(天岩戸神社・天安河原・高千穂峡・国見ヶ丘)へ

宇部IC 08:50入  =(中国自動車道)=  壇ノ浦PA 09:23~32(小休憩)  =(九州自動車道)
北熊本SA 11:18~53(昼食) = 御船IC 12:08出 ―(R445)― 通潤橋 12:45~13:50
高千穂(天岩戸神社・天安河原・高千穂峡・国見が丘) 14:30~18:00                

 

道の駅からの通潤橋  出発時は絶好のドライブ日和と思ったのですが、大宰府ICを越えるあたりから雨による交通規制のメッセージがチラホラと。 「でも降らないよね~」と思いつつの走行だったけど、北熊本SA「うまか軒」で昼食(肉うどん、おいしかった!)を済ませ御船ICを下りる頃はどしゃぶり!12:45 通潤橋に到着。
通潤橋は石造パイプによる水路橋です。
雨は強くなったり弱くなったり、、、

通潤橋の上
  折角来たんだからと雨など気にせず通潤橋の上も歩いてみる。
 この足元が石で出来た パイプ通水管。  下から見て想像してたよりは広かったけど、橋の上は柵などなく、かなりの高さにこわくて下を覗けませ~ん!

天岩戸神社
天岩戸神社  高千穂峡の方に回ってみたけどまた一段とひどい雨に、素通りして天岩戸神社へ。
そうです、ここの天岩屋戸に天照皇大神がお隠れになったというその神社です。  高千穂は「神話の里」と言われるように天孫降臨にまつわる神社がたくさんあります。

天安河原  天安河原は天岩戸神社から徒歩10分下ったところにある。 天照皇大神が岩戸にお隠れになり、天地暗黒となったとき神々が集って相談されたという河原。 辺り一帯もっともらしい小石が無数に積み重ねられ、写真を見ただけでも三途の河原のような独特の雰囲気をかもし出しているのが分かります。
私は帰りの上り10分強がきついと思ったので行かずに、小さなお土産やさんで紙ひごで作った可愛い籠など買ったりして待っていました。

霧の高千穂
  神話と伝説に彩られた渓谷のまちをものがたるように、高千穂はすっぽり包まれてしまうのではないかと思うほど、霧が流れて山から人家を隠してきます。  水面からの高さ105mという高千穂鉄橋、国道218号線110mの高さに架かる雲海橋も、その名の通り霧で埋まってその名前がうなずけます。

高千穂鉄道
  高千穂鉄道は  平成17年9月6日の台風14号で鉄道施設全般に大きな被害を受け、今回、平成18年9月5日に、延岡~槇峰(29.1km)間については廃止されたらしい。

高千穂峡
  少し小降りになったので再び 高千穂峡 の方に向かい、ボートには乗れなかったが少々散策する。  高千穂峡は阿蘇溶岩の侵食によってできた峡谷。 ごつごつした景色をながめていると自然に触れてるような感触に包まれる。  明日お天気がよくなればボートに挑戦!と期待して高千穂峡を後にする。

国見が丘への途中
  今日の仕上げに、視界は利かないと思ったけどついでのこと国見ヶ丘の方に行ってみた。が、完全に土砂降りとなり、途中の展望台(駐車場?)でフロントガラス越しに証拠写真を撮り、ホテルに向かった。


2日目 
(2006年9月6日) 高千穂(高千穂神社・高千穂峡)から 霧島(霧島神宮・風が見える丘)へ

ホテル 08:10出発 ― 高千穂神社 ~8:45 ― 高千穂峡 9:00~9:40 ― (R265・388)
矢立高原キャンプ場 12:30~13:26(昼食) ― ループ橋14:45― えびのIC 15:00入=
横川IC 15:23出 ― 霧島神宮 16:00~16:35 ― 霧島山上ホテル 17:00着


  高千穂神社  早朝の境内は気持がいい。樹齢800年という秩父杉が境内の雰囲気を一層厳かにしています。  天照大神がお隠れになったおりに岩戸の前で舞ったのが始まりと伝えられる「高千穂の夜神楽」は、重要無形民族文化財にも指定されていて、観光神楽も毎日この境内の神楽殿で奉納されているらしい。  (昨日は雨だったけど、どうだったんでしょうか。)

高千穂神社境内
高千穂神社境内

高千穂峡の真名井の滝  高千穂峡  再々度目の高千穂峡! 雨は降ってないけど残念なことに増水のため今日もボートは休み。 乗り場の駐車場に車を置いて(駐車料金500円)今日こそ本格的に高千穂峡の遊歩道を歩きました。  すぐに真名井の滝!(よく見る写真の通りの景色!) 豊かな水があるからこその澄んだ景色は、穏やかな気分にしてくれます。

高千穂峡91   09:50 神話と伝説の町高千穂を後に
次回はボート(娘)と雲海(私)ね、と期待を残しながら、今回のたびのメインの一つ高千穂峡を最後に、高千穂の町を後にしました。
  町をぐるぐる相当走り回って私が感じたこと。
道がどこもずっと曲がってるし、高低差があって地図を見てもよう分からんね。」(道が曲がってるって、それアッたりまえよね! 山なんだから高低差も当然あるよ!)そ、そうなんだけどぉ、、、どこもかしこも曲がってて真っ直ぐなところがない、ように感じたよ。  ナビなしで果たして目的場所をスムーズに回れただろうか? とまあこれは、方向オンチの私だけ?のつぶやき、、、。  その分雨にそぼ濡れた神話のまちは、霧にも包まれていかにもその雰囲気のある町でした。

  サァ、ループ橋を通って霧島へ! 
  さて、ここから人吉のループ橋を渡るべく一般国道(R256~R388)を南へ。  昨年来の大雨による災害のニュースを思い出して通行止めの情報は調べていたので、といっても、手持ちの地図では迂回路がよく分からず、「迂回路ぐらい書いてあるだろう」と言うことにしてたんだけど、その迂回路表示板は倒れたと見えて、後で迷って引き返して来てみると、本来南を指して立ってるべきものが、車からは見えない反対側に西を指して立てかけてあった。
  椎葉峡谷を過ぎて少し行った分かれ道、途中から親切な地元の人の先導で走っていたんだけど、対向からのジゲの人に聞いて「やっぱりダメらしい、さっきのところまで戻って、、」と教えられて引き返してその表示板を見つけた。
土砂が流れて  20万分の1の地図には載っていない、くねくね曲がった峠道をやっとの思いでR388に出たのが1時間後。
そこからも同じような「これホントに国道?」という細い道が続き、地図上は立派に黄色に塗られて走っている道も、来てみないと、こんな山間部の峠越しの道だなんて地図を見ただけじゃ分からないもんだと、つくづく思いました。
  昨年来の大雨で土砂の流れた後が幾つもあり、復旧途中の状態。 ただ高速で行くだけじゃつまらないと思ってこのコースを行き、いろいろ経験でき、思い出に残るたびとなりそう!


やっと人家が!やっと人家が!  峠を抜けてやっと少し開けたところに出たときは「町に出た!」と思ってしまった。  これは、ホッとして車から降り撮った写真。  ここからしばらく行った「矢立高原キャンプ場」の駐車場で、コンビニで買っておいたお弁当にありつけた。

  霧島神宮  霧島に入りまっすぐ霧島神宮へ。  境内に「君が代」に歌われている「さざれ石」が置かれていた。 単に歌われているだけだと思っていたので、本当に巌(いわお)となったものがあることをはじめて知り驚き。

さざれ石  モノシリ?娘たちの会話
 「霧島神宮ってどなたさんがいらっしゃるとこだ?」
「石長姫(いわながひめ)ではなく、美しい木花佐久夜姫(このはなさくやひめ)と結婚した、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと、古事記では邇邇芸命)。 天孫降臨の“天孫”」
「ほう!にぎにぎ・・・じゃなくて、ににぎ、ね(笑)ってことは、この人のせいで人の命が永遠ではなくなり、サクラの花のように短くなったって人だな!」 「あったりー! その子供があの海彦と山彦」   私「すげー、二人とも物知り~!」^^;

   神宮をゆっくり見て、早めにホテルにチェックインし、温泉につかって2日目を終りました。

霧島神宮



3日目 
(2006年9月7日) 霧島(えびの高原・白鳥神社)から 高速で帰る

ホテル 08:20発 ― えびの高原 9:00~30 ―白鳥神社 9:45~10:05 ― 
えびのIC 10:20入 =えびのPA10:28~38小休憩=(九州自動車道)広川SA12:20~13:10昼食
= 周防灘P15:18~28小休憩 =(中国・山陽自動車道)= 宇部IC 15:40出



硫黄谷
  霧と湯けむりの町霧島
  部屋から桜島が見えると言うホテルでしたが、あいにく(と言うかやはりと言うか)しっとりした霧の景色が拡がるばかり。 遠望は利かなかったけどこれはこれでOK。  丸尾の滝、硫黄谷と寄り道しながらえびの高原へ。


えびの高原
  えびの高原
  えびの高原にはH4年に結婚25周年記念旅行!で来ていて、「美しい稜線、立ちのぼるけむり、しなやかにカーブする道!」と、感激してスケッチまでした覚えがあるので、ぜひもう一度と楽しみにしていた。
  でもなぜか前に来たときの印象とずいぶん変わって見える。 同じような景色に会えない・・・?
不動池
  韓国岳に登る人の姿が何人か見えるだけで私の思うえびの高原にみえない。霧で稜線が見えないセイ?それとも場所がちがうの?長い月日に自然が少し荒れたの?なんだかちょっとさびしい思い。

←不動池


白鳥神社  白鳥神社
  白鳥となって陵から大和国を指して飛び立ったという日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が祀られている。  とてもひっそりしたところにあり、台風で被害を受けたようで改修されて新しくなっていた建物が、ちょっと不釣合いに感じられました。 けど、自然のなせる業で壊れたものはしかたないですよね。


高速から見るループ橋
  人吉のループ橋
  霧島を後にして一路「えびのIC」から帰途につく。高速に上がるとすぐに見える、行くときに通ったループ橋にバイバイと別れを告げ、今回の旅の終わりとなりました。


  宮崎県の高千穂も鹿児島県の霧島も「神話の里」と言われていて、古事記や日本書紀にある「高千穂」「ニニギノミコト」などにまつわる地が両方に存在し、 今回はその両方を廻る旅となりました。


かのじの芝桜

2014-05-30 | ドライブ・たび
  さてさてさて、皆さんのブログを見せてもらって気が向いたらコメントを入れる・・・・こうしていると楽しんでる割には大変楽で、ずるずると月日は流れ、自分の記事を入れることなくすぐにお盆になってしまいそうです
  少々気合を入れて、先日見に行った芝桜の写真だけでもアップしましょう。

  周防大島の河津桜を見に行った同じ仲間のみなさんに、4月15日、今度は山口県周南市大道理鹿野地(おおどうりかのじ)の芝桜がきれいだと誘われ、連れて行ってもらいました。 今回はアリンコさんの奥様も一緒です。


いのち育む里 周南市大道理 (鹿野地)

こんな山間の里 (展望台から)


ここは花園でも公園でもなく、いち農村、というところがまたいいですね。
芝桜は、「山口県棚田20選」の棚田(10,000㎡)の法面に植えられていました。

入口付近 さあここから歩いて


会場内への車の乗り入れは禁止されていますが、
入口手前に駐車場は結構あるようでした。
(体の不自由な方のみ、会場内の駐車場が利用できるようです。)
この鹿野地地区の世帯数はおよそ11戸、
年齢構成は平均68.3歳 なんだそうです。
芝桜 交流の里(周南市大道理 (鹿野地))
 



7種類の花で構成されてるらしいのですが・・・ よくわかりません(^^







 

「絆」の文字を左に見ながら奥へ進んでいきます


中央付近には「かのじ」の文字


とても全部は歩ききれないと思って、
私だけここから左手にある展望台へ直行しました!

展望台眼下に泳いでいた鯉のぼり


展望台から


見える見える、望遠いっぱいでお仲間さんをパチリ(^^v
あ! ご一緒した奥さんも歩き回らないでイスで待たれたのかな?(~~*
白い芝桜で描かれてるのは、羽ばたく鶴?・・だそうです。



このあとすぐ私も下りて行って、
右手に見えるテントの中で昼食の「うどん」をいただきました。
地元のおかあさんたちの作られる、言うなれば素うどん(300円)でしたが、
「う~~ん!おいしかった!!」 満足満足!
左手の小屋では、コーヒーやせんべいなどが売られてるようでした。

コイはいつでも風まかせ・・・・・ままならない(ーー。。。


菜の花もなかなかいいので、もっとあってもよかったですね



今年の私のお花見は、とうとう地元ときわ公園の桜は見ないまま、
周防大島の河津桜と、この芝桜で終わってしまいました。

写真だけをアップ、と思っていたのですが、
今回は思い立ってビデオも抱えて行って撮っていましたので
河津桜と芝桜を合わせて、久しぶりに編集してみました。
手振れ映像で目がうろうろしてしまうと思いますが(><;;


2014年 今年のお花見(河津桜と芝桜)



  バックの音楽には、テレマン・アンサンブルによる「リコーダー、チェンバロと通奏低音のためのトリオソナタ 変ロ長調」を使わせていただきました。
  若々しい照れまんさんの軽快なチェロの音をどうぞ! と言いたいのですが、うまくアップされてるでしょうか・・・・  編集を始めたころから使っている古いソフトで編集してますので、画質も音質もそれなり、ということでよろしくです。



長谷寺&インカ帝国展

2012-07-02 | ドライブ・たび
  開眼法要を済ませた翌18日には、宿から近かったのでまず、 (鎌倉)長谷寺はせでら を訪れた。  鎌倉八景のうち「長谷の晩鐘」と謳われた景勝地ということだが、残念ながらお天気は悪く遠望はきかなかった。 が、この時期、回遊式庭園散策路には枝垂れやシャクナゲなど多くの花が美しく咲いていた。

長 谷 寺 (鎌倉市)








  経蔵の内部にある回転式の書架「輪蔵(りんぞう)」。
中には一切経(大蔵経)が収められており、一回転させると全て読誦した功徳が得られるらしい。
回すことの出来る日は、毎月18日の観音御縁日と正月三ヶ日だけという。
お! 今日は運良く18日、これも何かの縁、ということでさっそく一回りさせていただきました!!
  
← 仏足石

なんとも優しいお顔の
↓ 和み地蔵(良縁地蔵)

花びらの散る地に和み地蔵かな
                   ふじ


ふうう・・・
たった一句なのに三転四転・・・><;;





  傾斜地を利用した 眺望散策路 の周辺には約2500株のアジサイが群生していて、梅雨の季節には一山が紫陽花で埋め尽くされるという。 いつかそんな時期にゆっくり来てみたいものと思いながら長谷寺をあとにした。

・・・・・ ただいま ◆ 四句八句中 ・・・・・

  折角来た古都鎌倉、是非一句、記念に詠んでおきたいものです。
鎌倉の狭い路地、はらはらと散る花びらを軒に見ながら「バイバイ」と、少し名残惜しく思いながら車で抜け、鎌倉を後にしました。
黒い軒に白い花びらが印象的でした。 これが鎌倉なんだなぁと感無量でした。
  「軒と軒」、こう書いておけばこの場面は思いだせると思いながら手帳にメモして置きました。 さて、作った?俳句は・・・・ もういい! これに決めた!
1 『鎌倉の軒のあはひや桜散る
  置いてみるとどうもしっくり来ません。 自分が一番感じた軒と軒の狭さや黒さがでていません。
2 『鎌倉の軒黒々と桜散る』『鎌倉の狭き家並や桜散る』 などと考え、
  『鎌倉や軒端黒々桜散る』 にしました。

  ここで照れまんさんに「軒の端の方は黒々としている。そこに真っ白い 桜の花が散っている。白と黒の対比。気持ちは よく解ります△」と言うコメントを貰って途端に そうだ! と気が付いたことがあります。
  私は自分の目で見てはっと驚き感じたままを句にした と思ってるけれども、実はそれは、今までの万人の思いの二番煎じに過ぎなかったのではないかと言うこと。  私の中で既に鎌倉のイメージが蓄積されていて、それが表に出てきただけなのかもしれない。 それでは新鮮味がないですよね。

  そこで気持ちをもっと前に戻して素直なところで^^?詠みかえてみました。
3 『軒に舞ふ花なごり惜し路地抜ける
  と「鎌倉」と言うのをやめ、自分がどんなところに居るのかをハッキリさせてみました。 でも なごり惜し などとは言わない方がいいのかもしれない・・・  だんだんよくなってるのやら悪くなってるのやら、自分ではさっぱりです><;;

  ここで再びコメント「お寺の境内に咲いている桜かと思っていましたが、町の路地に散っている桜だったのですね。」 を頂き、ナルホドそうだ。 境内の記事のど真ん中に1句だけ置いていたので、そう思われるのは当然だと悟りました。

  ではここには境内の句を置くことにして、
4 『花びらの散る地に添ひし和み地蔵』『花びらの散る地に和み地蔵かな
この句なら右上に写真もあるし・・・ でも背丈の低いこの「和み地蔵」という固有名詞・別名を知らない人が読むと どうでしょうかねぇ。

  長谷寺境内のこの句をあそこに置いたとして、
  さて、最後にやはり、路地に散る桜、散り場所を心得てる花びらの一句を置きたいものです。  泣きの一句はこれでどうでしょうか・・・
言わなくても路地っちゃ細いモンじゃ、ということになれば、 「古都の路地」とか「古都めぐり」 とかなんとかと思ったりもしたのですが・・・

  路地ほそく散る花しばし軒を借り   ふじ

くどくどと長文になってしまいました




車窓から


途中、横浜市内で車から電車に乗り換えて、上野・国立科学博物館 に向う。
都会の電車にはなんと ドアの上に
天気予報や、次の駅のお知らせが次々と映し出される(@@)
 
と言ってもじっと見ていたのは、
イナカモノの私だけだったかもしれないが(~~)



JR上野駅(公園口) を出てすぐ目の前のここを入っていくともう 上野公園 


  弟夫婦が昨年、マチュピチュ を旅行したこともあって、国立科学博物館で開催されている、 -マチュピチュ「発見」100年-インカ帝国展  を見ることにしたのです。
「インカ帝国展」 への 入口と    シロナガスクジラ のいる出口


  平日だったが来場者は多く、 立ち止まった列が動かない。 「最前列の方は移動しながら見てください」 と係の方がずっと声を掛けていたが、大きく書かれた説明文や、説明されてる映像が各所にあり、どうしてもそこでは滞ってしまう。
 
「インカ帝国展」 (国立科学博物館)

この場面だけが撮影可で、皆さんとりあえず撮っとこうかと・・・ ↑

  標高2400メートルの「空中都市」マチュピチュの文化を、 はじめて「音声ガイド」を利用して説明を聞きながら観て行ったのですが、もちろん?ほとんど頭に入っていないですけどねぇ・・・><;
  「2つで一つ」で丸く治まる? というような考えが浸透していたらしいということが記憶に残った。  男女の人形像、町も上と下に分ける、ペアの土器、・・・・  「対・つい」 と言う考え方は、そんなところから今に引き継がれて来てるんだろうと思った。
ただの印刷物にしか見えないシートだが、スティックの先で数字をタッチすると
イヤホーンから説明が聞こえてくる (音声ガイドシートを開いたところ↓)


  あんな高いところにあれだけの町を築く文化を持ちながら、文字はなかったらしく、紐の結び目で数字を表したらしいという、 「キープ」 と呼ばれるものの展示もあった。
大小の結び目、細かく何本にも束ねられた 紐 を見ると、インカの人たちの生活がひしひしと感じられドキドキした。
(おみやげで買ったクリアファイルです)


  これだけでも来た甲斐があったと思ったのは、最後のところで3D映像が観られたこと!
  マチュピチュの町をコンドルの背に乗ってる気分で、ふわふわと高く低く飛びながら上から本当に眺めてるように見ることが出来たのです。  途中でハチドリが右端にいる私たちの頭上に来てぶんぶん呼びかけるので、思わず手を差し伸べて応えたくなった。
あとで、中央辺りにいた弟に尋ねると、弟もハチドリは自分の頭上に来たように感じたらしい。 3Dというのはそういうものなんだろう・・・

「インカ帝国展」公式ホームページの「開催情報」
今後のスケジュールが分ります。
「インカ帝国展紹介映像 ▶ 」をクリックすると、「記者発表映像」 もあり
ほんの少しですが 3D映像 を垣間見ることが出来ます。

  なんにしろ専用の眼鏡をして見る初めての3D経験で、
これは よかった 
15分程度だったらしいけど、マチュピチュの町を
空の上から探検することが出来、まずは満足して会場を出た。



  科学博物館から出てすぐのところで、遠く木々の間にタクトを振ってるような後姿の銅像を目にした。 あとで案内板で確認すると「野口英世像」とある。
上野公園とどういう関係があるのか・・・?  気になりました。
 「ディープな上野公園(銅像編)」 をリンクしてみます。 
振ってるように見えたのは、タクトではなく、試験管らしい(^^)。
 

この上野の山は、元々病院建設予定地であったらしい。

  さて 「インカ帝国展」 のあとは、 西郷ドンの銅像 に向った。
  小学生の時のたった一度の家族旅行、北海道の親戚ンチに行く途中、上野での乗換えを利用して父が見せてくれたかすかな記憶、それ以来の上野公園であり、ぜひ見てみたいと思ったのです。 ど真ん中にあると思いきやかなり端の方で、私の足ではかなり歩いた気がした。
着物の裾がヒラヒラしていたという記憶と、いや軍服だったか? とあやふやになってきていたが、 やはり着物だったんだ、とは思ったがそのほかのことについては、想像・記憶とも全然繋がってくるものはなかった。 なにしろ、60年も前の話・・・・

西郷隆盛銅像(高村光雲作・犬は後藤貞行作)      一重の山吹   .



・・・着物の裾がヒラヒラ・・・などと何気なく書いたが、調べていて初めて、「正装をさせるわけにはいかなかった事情・・・」 があった! 銅像の姿にも政治的意図が働いていたらしいと知った!!  ふううむ  ⇒  東京・上野の西郷銅像  そういえば両親がそんなことを話題にしていたような気もしてくるが・・・・??

清水観音堂 と 秋色(しゅうしき)桜



 井戸ばたの
   桜あぶなし酒の酔
  秋色

  お秋(俳号:菊后亭秋色)13歳の時に詠んだという
花見客で賑わう井戸端の様子の句。
以来、秋色桜と呼ばれるようになったということです。

  それからもう一つ、思いがけないものを目にしました。
正岡子規記念球場」です。
子規はとても野球を愛好し、日本に野球が紹介されて間もない頃、この上野公園内で草野球を楽しんでいたという。 baseball を「弄球」と訳したほか「打者」「走者」「直球」などと訳し、それらの功績で平成14年に野球殿堂入りをしているらしい。
  上野恩賜公園開園式典130周年を記念して、子規の句碑が建立され、野球場に「正岡子規記念球場」の愛称が付けられたそうだ。

句碑の句  春風やまりを投げたき草の原   子規
子規記念球場 と 句碑(文字が読めない><;)

写真を大きくしてみると「正岡子規記念球場」の文字が見てとれます

公園内はこんな感じで、普通に通行する道になってる? ようでした

このまま真っ直ぐ戻っていくと、右手に「上野駅・公園口」

  結局私は、上野恩賜公園の底辺、国立科学博物館から西郷像までの道を往復しただけで上野を後にした。 公園には、国立・民間の博物館・美術館など10あまりの施設のほか、「上野動物園」 や 「不忍池」 というものもあるらしい・・・*(^o^)*アハハ

あ! 忘れてた・・・ 上野公園で拾った音



ということで4月に田舎者がうろうろしたお話、長すぎ><; でした。
次は何でしょうネェ・・・早くしないと夏も終わってしまいますネェ。





開眼法要と横浜

2012-06-25 | ドライブ・たび
  4月17日、実家の墓を長男のいる横浜に移すことになって、法要のため久しぶりの2泊3日の旅に出かけた。 到着時間の都合で最寄りの「新山口」にはとまらない新幹線で行くことになり、徳山まで在来線で移動・・・ドキドキ、 ちょうど通学時間とかち合い、防府を過ぎるまではギュウギュウ詰めで、リュック背負って立ちっぱなし・・・・やれやれ、
徳山での乗り換えも初めてでチョイうろうろ・・・・・ とにかく一人での行動は 「初めてのおつかい」 さながらの心境で、指定席に座り込むまでは緊張した。
来た来た! 向こうのホームでは博多行き「こだま」が出発するところ


徳山駅 : 今から乗る 「のぞみ16号(N700系)」


新幹線いい日旅立ちオルゴール ・ 春うつら車内放送声に惚れ
  な~んてつぶやきながらカメラを窓ガラスにくっつける・・・、 ンがしかしクー><ー
なんとまぁしぞーかはやっぱ遠い。 もう下りる準備をするぐらいじゃないかと思うぐらいにやっと静岡らしい景色になった、が、空にはナンも見えん。 厚そうな雲が覆うばかり。
帰りもそうだった。 折角の機会に富士山を見ることが出来なかった、、残念。
山笑ふ見上げる富士は雲の中 !ーー!


  予報どおり雨が降り始めた中で、父の50回忌と納骨と開眼供養は、行われた。
「お釈迦様の一番の教えは 『安心』 ということ。 火を消したから安心、鍵はかけたから安心・・・ これも安心ですがそれよりもっと深いところの 『安心(あんじん)』 ということです。」 というようなお話を聞いたあと、墓地の方へ移動した。 
それほどの降りではなかったが墓地にはテントが設えられていた。 読経が始まろうとした時、ちょうどゴロゴロと天上で雷が動いた。 まるで読経に呼応するように遠く近く覆うようにその音は続いた。 思いがけない天上からのBGMに粛然としつつ素直に手を合わせた。 気づかぬうちに星座が少しずつ動いているように、私の周りもわずかずつ動いているのだという感じがした。
父はもうすっかり柔らかく笑っていて、うしろから見守ってるだけのような気がしたが、大きく小さく続く腹の底から唸るような力強い雷の音は、昨年17回忌を終えたばかりの母が、まだまだ見てるぞ、しっかりしろよと言ってるようだった。 でも、墓を移したことを怒ってるようではなかった。 いつかはこうなるとわかっていたはず・・・・・。
 

この日は弟家族も一緒に鎌倉の宿に宿泊した


  翌18日は、鎌倉長谷寺にお参りした後、上野の国立科学博物館で開催中の「インカ帝国展」 に行った。 長くなるのでそれはまた別にアップするとして、 その後横浜に戻って、昭和レトロな雰囲気がウリという 「新横浜ラーメン博物館」 にも行ってみた。
と言っても昭和レトロに惹かれてではなく、単にラーメンが好きだから 
「懐かしい昭和の町並の中で遊べる」 だけじゃなく、ラーメンの 「歴史や豆知識」 に触れられ、全国銘店が入っていて 「各地のラーメンが食べられる」 らしい。
が、そんな、通というわけではないので、手近なところの 「支那そばや」 に入った。  細麺、あっさり系で、^^うん おいしかった。


  おいしかったから良かったんだけど、ラーメンを食べるだけの目的なら、入館料300円を取られる分、高いラーメンを食べたことになる。 食べ歩きをしたい人には、ミニ(550円)も用意されてるので、何軒か回れていいかもしれない。 お昼時には行列も出来るらしい。
が、昭和レトロの雰囲気で懐かしい・・・と言っても薄汚れた感じを受けてしまったのは、単に薄暗かったから?^^だけかもしれない・・・・。
 
薄暮の街 車窓から




帰る日の19日は お昼まで時間があるので、
迷うことなく 赤レンガパーク あたりに連れて行ってもらった。

海上保安庁横浜海上防災基地(左) と 停泊中の 巡視船しきしま(PLH31)


赤レンガパーク 広場



赤レンガ倉庫には、いろんなショップやレストランがあるらしいですが、
肝心の? 倉庫の中には入らなかった。


このぐらいのんびりしてみたい(^^)

広場の反対側では、何かのイベントの準備と それを見学する人たち



広場を後にいよいよ旅の終わり新横浜駅へ・・・
車窓から見た 横浜の街



たしかこのあたりが 「馬車道・ばしゃみち
開港された横浜港への道路の一つとして開通されたこの道を、
外国の人が馬車で往来していたことからそう呼ばれるようになったらしい。


明治に入ってからは日本初の乗合馬車(2頭だて6人乗り)も、
ここから東京まで走ったと言う。
道幅はそんなに広くはないが今は車で走っている。
当時の面影を感じさせるガス灯や青々とした街路樹など
とてもきれいな感じのいい、ほっとする道路・・・

次回ここを眺めるのはいつのことだろう・・・・
名残り惜しく思いながら帰途についた。

(とまあ、2ヶ月以上も前のできごとでありました 



50年に一度の機会

2012-01-31 | ドライブ・たび
昨年11月に「親鸞聖人750回大遠忌法要団参」のツアーに参加しました。
もう忘れてしまいそうなので写真のみを駆け足で・・・

法要に先立って、奈良・京都のお寺をぐるりと巡りました。

11/07 法隆寺

(1) 法隆寺南大門


(2) 法隆寺中門へ向う


(3) 左側は唐門と上土門      (4) 奥側の屋根は護摩堂


(5) 飛鳥建築の粋を集めた中門・左右に立つ金剛力士像は奈良時代


(6)  日本最初の世界文化遺産法隆寺の金堂と五重塔   (7)


(8) 中門(正面)を入った境内の様子、左端にチラッと見えてる五重塔


(9)   印象的だった 木の長い回廊 と 土の長い壁   (10)


(11) 桜紅葉を透かして見る法隆寺五重塔


柿色の桜紅葉や法隆寺   ふじ
(12)

 ← これが「鏡池」だそうで、この池の向こう側(西側)の畔に、正岡子規が訪れて茶店で柿を食べた時の句と言われている、あの有名な 「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句碑が建っているのだそうです。
 中央に白く見えてるのがそうらしい・・・
  ぜひ見てみたかったのですが あ~んな向うでは、
列を乱すわけにも行かず 背伸びして写真を撮っただけでしたーー。

(13)     ハーイ 法隆寺夢殿はこちらで~す     (14)


(15) たしか夢殿をあとにしたところ・添乗員さんは忙しい^^
 

約2時間、こんな調子で行列で移動し、前のグループが済むのを
順番に待っては見学するという人の多さでした。
はじめて訪れたわけではないのですが、
見覚えのあるところは何一つありませんでした!><!
 法隆寺境内図はこちらです。 




◇  ◆  ◇


11/07 唐招提寺

(1) 唐招提寺南大門


(2)   南大門から金堂を見る   (3)


(4) 世界遺産、古都奈良の文化財 「唐招提寺」金堂


(5) 唐招提寺の蓮


敗荷(やれはす)のゆらりと揺れて作務衣の背   ふじ

(6)  鑑真和上の墓所への途中・土塀と蕗  (7)


(8)              (9) 経蔵


唐招提寺の始まりは、奈良時代、天平宝字3(756)年に創建された
鑑真和上の私寺だったということです。
御廟へは行ったのですが御影堂の方には廻りませんでした><。




◇  ◆  ◇


11/08 興福寺

(1)  興福寺宝物館  と  東金堂  (2)


宝物館では、2009年08月に九州国立博物館でお逢いした
阿修羅様に再会^?^できました。
阿修羅様は開放感のある旅先のお姿とは少しチガッて感じましたよ。

(3) 五重塔

通路の右側も左側も整備工事中です

(4)  南円堂  と  北円堂  (5)


興福寺は創建1300年を迎えたことで、『興福寺境内整備構想』が策定され
その第1期整備事業期間中ということで各所工事中となっていて
ちょっと落ち着かない感じだったでしょうか・・・。




◇  ◆  ◇


11/08 宇治平等院

(1) 平等院鳳凰堂


(2)              (3)


鳳凰堂の姿はさすがにうつくしい!
ぐるっと廻った庭にはこんな御影石が置いてあったりしたのですが・・・・
少々足に堪えてきてましたので最短距離で^^済ませました。




◇  ◆  ◇


11/08 園城寺(おんじょうじ)[三井寺]

(1) 経堂前から見た 三重塔


(2) 芭蕉の句碑  と  奥に見えるのが 経堂 (3)

三井寺の門たたかばやけふの月  元禄四年 芭蕉 (莫山かく)

  芭蕉のこの句は、唐の詩人 賈島(かとう)が月下にたたいたという門を、
同じようにたたこうではないか という意を含ませたものだという。
「推敲」の言葉もここからきたのだという話など ⇒  (浪漫紀行 三井寺) 

  広々としたそぞろ歩きにぴったりのとても興味深い境内でしたが、
なだらかではありますが坂道を一山巡ることになるので、みなさんについて行くのは止めて下のほうでうろうろと、「たかおもみじ」だという小さなもみじ葉などを見上げていました。
ということで、弁慶が引き摺ったとか、撞くと「イノーイノー」と鳴ったので「そんなに帰りたいのか!」と弁慶が怒って投げ捨てたなどという話の残る「鐘」も見なかったのです・・・・・ザンネン

(4) たかおもみじ



コメント欄ではもったいないのでこちらにあげさせていただきました。
・・・・・ 照れまんさんのコメント(2012/02/06)「三井寺」より ・・・・・
  こんにちはー
私は平等院も三井寺も行ったことが無いのです。
平等院は藤原氏の別荘のようなものですよね。死後の世界を意識して造らせたのでしょうか??阿弥陀如来の世界、極楽浄土を創造しているのですよね。

次は三井寺です。ここは一度は行って見たかったのに行けぬままでした。
このお寺は確か密教だったと思います。密教と言えば、高野山金剛峰寺が有名ですよね。 あの、弘法大師です。
こちらは、比叡山の天台宗。私の記憶は当てになりませんが、天台宗は密教部門が手薄だった。 そこで、中国に留学させた僧が密教の奥儀を修めて帰ってきた。
そこで、この三井寺を密教部門の天台密教の寺院にした、のではないかと思います。 今は、天台宗からは離れて、独立しているのだと思います。

三井寺から琵琶湖の左側(西)を北に少し行くと、堅田と言う所があります。
一休さんが若い時分其処のお寺で修行に励んできますし、ほんの少しあと、本願寺を焼き払われた蓮如さんが、堅田に逃げて暫らくそこで生活しています
芭蕉さんの記事も嬉しいです。リンクも見せてもらいました。ありがとう!
このあたりは歴史の宝庫ですね。

・・・・・ 照れまんさんのコメント(2012/02/07)「鑑真さん 」より ・・・・・
  こんにちはー ついでだから、もう少し書きますね。
仏教は入ってきた時から、國が管理・管轄するもので、天皇や朝廷が命令して寺院を建てていたのです。仏教は中国で翻訳された経典なのでとても難しいもので、それがすらすら読めて、理解できる人はほんの僅か。それで、天皇が認めた人だけが僧侶として認められたのです。
いわゆる、上級国家公務員のようなものです。しかし、いちいち天皇さんがどんな知識があるかを試験して見極めるのは、忙しいし難しいですよね。それで、天皇さんが認めた高僧だけに戒壇と言うのを作らせ、そこで修行をしてもらい、その座主と言うか管長というか高僧が認めた人だけが、僧侶の資格がもらえるようにしました。東大寺の他、九州と東国にたった三つの寺しかありません。受戒とか、最近は得度と言った方が解りやすいですね。免許がもらえたわけです。

ところが、僧侶になるには何十年も修行が必要だし、合格する人は僅かしか出てきません。寺は沢山建てたいのに、僧侶が足りません。
そこで、中国で戒律を修めたホンマモンの僧侶を招いて、戒律を教えてもらい、修行をさせて若い僧侶を育てて受戒させて、印綬を授けてもらいたい、と思って招かれたのが鑑真さん。
鑑真さんを唐から招いて建てたので、唐招提寺。 これが、天平から奈良時代。
その後、平安時代、最澄さんや空海さんが中国で勉強してきたので、それぞれ 比叡山と高野山に寺院を建てるのが認められます。最澄さんは天台宗の比叡山延暦寺を建てます。最澄さんの死後、比叡山延暦寺にも戒壇を設けることが許可され、ここでも受戒、印綬が授けられるようになります。得度が出来るようになります。正式の僧侶になれるようになります。

後に 比叡山で勉強して得度した人に 法然さんや親鸞さんが出てきます。親鸞さんは後に浄土真宗を開きます。
その他、栄西さんは後に臨済宗を開きます。臨済宗の中からずーと後に一休さんが出てきます。道元さんは曹洞宗。日蓮さんは日蓮宗を開くことになります。みんな比叡山で勉強して独立していくことになります。
得度と言うのは、今では西本願寺や東本願寺でも受けることは出来ます。

興福寺や平等院は貴族が建てたもの。どちらも藤原氏が建てたものですね。
興福寺や比叡山延暦寺は大名くらいの権勢を誇ることになります。
長くなるので、これくらいで 止めておきます。じゃ、また・・・・。

・・・・・ 照れまんさんのコメント(2012/02/09)「西本願寺」より ・・・・・
  さてさて、今回の旅もようやく 西本願寺にたどり着きました。
前のコメントで、親鸞さんが浄土真宗を開いたと書きましたが、これには間違いと言うか異論がある人が多いと思います。

親鸞さんは浄土真宗を開いてはいず、ずーと天台宗の僧で、法然さんの弟子として生きていました。

浄土教と言うのは色んな矛盾を含んでいました。南無阿弥陀仏を唱えただけで極楽浄土にいけるなんてそんなバカなことがあるかと、当時は反発されて、法然さんも親鸞さんも流罪にされました。僧侶と言うのは、修行して苦しい中から悟りを開くもの。
親鸞さんは自分の寺を建てたり、独立した教団を造ろうなどとは全く考えず、矛盾に答を出すべく、ひたすら教義を深める学僧・思想家として、貧乏なまま間借りして、本を書き続けていた人です。その書物の中に「浄土真宗」と言う言葉が出てきて、親鸞さん自身が正しい浄土教と言う意味で使っていたようです。それで、後に浄土真宗と呼ばれるようになったようです。
親鸞さんは茨木や群馬の方の東国に長くいたので、そこに親鸞さんを慕う人達がいました。
死後10年くらいして、東国の人達が寄付を集めて、京都の東山に小さな廟堂を建てます。東国の人たちは其処を守ることが出来ないので、親鸞さんの娘さんが其処を守る、いわゆる留守職 と言うのになります。
孫の代になりようやく小さな寺を建てます。60年くらい後です。その時寺の名前を付けたのですが、比叡山からその名前は駄目だと言われます。それで、次に2番目に「本願寺」と言う寺の名前にします。その名は他に無かったので、やっと比叡山が認めてくれます。

その後 第八代留守職の蓮如さんの頃にも、まだ天台宗の一末寺に過ぎませんでした。毎年 年貢や上納金を比叡山に納めていました。すごい貧乏寺で、関東の門徒宗が年貢を比叡山に運んでいました。
そんなことや、色々なことで蓮如さんが比叡山に決別宣言、独立宣言をしたわけです。それで、比叡山の逆鱗に触れ、焼き討ちされたのです。
三井寺も当時は比叡山と喧嘩して、比叡山から独立していたのです。それで、蓮如さんを助けたようです。
もっと書きたいのですが、長くなるので これくらいにしておきます。
じゃ、また・・・・。
 貴重なコメントのおかげで、行っただけでは分からなかった
たくさんのことを知ることができました。ありがとうございました!!



◇  ◆  ◇


(a) 二日目早朝、ホテルから見た奈良駅・ちょうど電車が入ってきました

(b) 三日目宿からの眺望 びわ湖(南湖方面)の夜明け


(c) 部屋の露天風呂からの夜景・・・    (e) 琵琶湖を後に・車窓より   .

・・・は、チョット無理でしたネェ       一路今回のメイン会場京都へ    .


◇  ◆  ◇


11/09 西本願寺



(1) 「親鸞聖人750回大遠忌法要」会場・西本願寺 (2)


西本願寺には、親鸞聖人自筆の著述等もあり、
書院など重要な文化財が数多く、
1994(平成6)年には 世界文化遺産にも登録されています。
書院・唐門・飛雲閣の参観も出来ましたが、写真は唐門のみです。

(3) 唐門 


  法要は御影堂で、昨年(2011年)4月から親鸞聖人の750回忌にあたる本年1月16日まで、50日以上にわたり執り行われてきたようです。  一日に午前午後の2回行われていますが、私たちはその午前の部に参拝いたしました。
  参拝席は3500席(椅子席)で土足厳禁。
ビニール袋が渡され、入堂途中に設えられている長いスロープで前進しながら、50人ずつぐらいが一斉に、左側で下足を脱いで右側に移る様になっていて、参拝者がうろうろ滞ることなくスムーズに入堂できるように考えられていて、感心しました。 テキパキ世話をされる皆さんの細かい心遣いも、さすがでした。
 
(4)   法要前の会場の様子   (5)

↑ 記録係も立派なお坊さん。 3500人の参拝者に行き渡るべく
大小たくさんのモニターが設置されていて ↑
その画面に会場の様子や正面のアップが常時映し出されていました。 

(6) 雅楽を奏でながら続く入堂の列


  法要はとても厳かに執り行われました。  入堂された関係諸僧さんは何人だったのでしょう、、、 1月16日が400人だったそうなので、それよりは少なかったとは思いますが、私の目の前の入堂だったので身が引き締まる思いがしました。

  私にとって、お念珠を持ってのお寺めぐりも初めてのことなら、こんな厳粛な法要に参拝するのも初めてでした。  足の悪い私を、行く先々でいろいろ気遣ってくださる皆さんに囲まれて、50年に一度のこんな機会に恵まれ参拝できたことをしみじみ感謝の旅となりました。
  この先きっといつか、この体験が私を助けてくれる^^? そんな機縁となるはず・・・・ と言う気がしました 


*親鸞聖人750回大遠忌法要*





以上、新大阪からは7台のバスに分乗という大所帯での2泊3日の団参、
駆け足の積りがこんなに長くなってしまいました 



やまぐちフラワーランド(柳井市)

2011-04-22 | ドライブ・たび
さて "歴史と自然に囲まれた、ちょっとおしゃれな花と緑の庭園”という
やまぐちフラワーランドにやってきました、、 

 やまぐちフラワーランド 
山口県柳井市新庄500-1
TEL0820-24-1187 


(入園料500円 開演時間9:00~17:00・入園は16:30まで)


↑ 建物左から撮ると ↓               ↑ 建物右入口あたり ↓


パノラマです

右側がチュウリップやヒヤシンスなどの花壇、中央左は遊べる広場

  しまった! 全景と思って撮ってみたものの、これではただの田舎の風景にしか見えない(><); フラワーランドなんだから、春に咲きそろうように丹念に手入れをされた、苦労されたあとが美しく見えるように撮らなければ・・・・
 「君達は花の事を全く解っていないので、一言言わせて貰うよ。・・・チューリップ を喩えにとっても、桜と違って一年の計画が必要なわけ。 咲かせるチューリップ と 来年の為の球根を取るチューリップと・・・・」
あーー! どこからか誰かさんのこんな声が聞こえてくるワーー;;

遠景をトリミングして、、、と、 これでごまかそう・・・


◇  一緒に連れて行ってくださったアリンコさんが、花壇をきれいにパノラマにしておられます。 私は撮り損ねてますので、咲きそろった花壇の様子はそちらでお願いしま~す^^。
  アリンコさん、リンクさせてもらいました~。     徒然フォト日記 




  4月10日にはこの広場で、兄妹デュオ
  「マウンテンマウス」と
柳井学園高校の吹奏楽部のみなさんのイベントも
あったようです。

   花と音楽のちから 


ユキヤナギも花ざかりの庭園


春はやはりチュウリップ
 
チューリップの周りの白い花は クリサンセマム(ノースポール)




ビオラ(スミレ科)


リナリア(姫金魚草)                 ヒヤシンス(白)


勿忘草 ・・・・
わすれなぐさ(ムラサキ科)
forget-me-not

とりあえず 載せとこう^^。
 


あの小高いところのうすピンク色はナニ!?
近づいてみると「シデコブシ」ということ、 はじめて見る花です。



↓上の写真をトリミングしたもの

くしゃくしゃっと丸めていた和紙がじわ~っと緩んできたような優しい花

↓上のものとは違う木の花をアップで撮ったのですが↓
コチラは中心が濃い紫にうっすら染まっています
同じ種類でしょうかねぇ・・・? 色はだんだん薄くなるのでしょうか・・・


  同じモクレン科には、コブシ・タムシバ・モクレン・ハクモクレン・オオヤマレンゲ・タイサンボク・ユリノキなどがあるようですが、その中でシデコブシは日本のみに自生する木なんだそうです。
四日市大学自然環境教育研究会による「絶滅危惧種シデコブシの観察会を実施(2011/04/04)」 には、「シデコブシ群落を訪問し、6分咲きとなった白やピンクの淡い花々を観察しました。」 とあります。

  これを見ますと、自生のものは白ではなくても「シデコブシ」というようですが、ネット上には、コブシと名の付くものに、コブシ、シデコブシ、ベニコブシ(別名:ヒメシデコブシ) などの種類があると書いてあるサイトがありました。
  この薄ピンクの花はどれにあたるのか・・・・また、フラワーランドのページに書いてあった「マグノリアワダスメモリー」っていうのはどれのこと?  よく分りません><;;
 

こぶし(辛夷 Magnolia kobus(praecocissima) ) ですよね?
 別名:ヤマアララギ、コブシハジカミ)


木蓮 ? と思っていましたが、ナニ木蓮?


「コブシとモクレンの区別として、コブシは花の下に1個の若芽が付くのが特徴」
だそうですが、上の写真を見ても私にはよく分りません。
1個の若芽が付いてるようにも見えますが、・・・??? 

枝垂れを仰いで


最後に温室の中の花をコンデジで撮って帰りました。

アイビーゼラニューム          ビオラ(ペニーブルー)


パンジーゼラニューム

花びらがハートの形で かわいい^^。

☆   ☆   ☆

帰りの車窓のあちらこちらに見えた白い花は ナンの花?

コンデジの遠景なのでトリミングしてやっとこれです

更にトリミングして元サイズのままでこれ↓


こんなんでは名前までは分りませんね><;

☆   ☆   ☆

ここではモンシロチョウ、キチョウ、ベニシジミが舞ってるのを見ました。
やっと写真に撮れたのは、ベニシジミだけでした。


もう少し上からと思ったところで、逃げられました。
初蝶は先日載せた紋白蝶で、このベニシジミは今年3番目に撮れた写真です。
ということで、2番目に撮った蝶、ヤマト・・・シジミ
いや違った、やったー! ルリシジミだ~! で終わりにします。

★ 陰になり日向になり ☆
(1)


(2)               (3)               (4)


(5)


あははは 同じ写真を5枚も並べちゃったよ^^。
風に揺れる草の影が 行ったり来たりしていました・・・・・




春の瀬戸内

2011-04-17 | ドライブ・たび
4月6日、fujipaの仲間に誘われて春の瀬戸内に行ってきました!!

 銭壷山から 


山口県由宇町の銭壷山(540m)からの眺めです!!
瀬戸内の島々が、春霞の彼方まで点々と浮かんでいます。


同じような写真ばかりですが・・・・
遠く霞が棚引いてるのがわかるでしょうか



 周防大島(size大) 小ちゃな幣振島から 久賀、大崎鼻、ポコンと嵩山

パノラマにしてみました

左手の大きな島が前島、その右が小さな 福島、右手が周防大島

残念ながら大島大橋は遠く木々の陰に・・・・

明度を下げていくと青くなります ↑  .

 銭壷山付近の地図はこちら です。
銭壷山から東南東↑ から 東↓ のあたりを見ているらしい・・・

↓左手が 呉 になるようで、右にスライドさせたところが前島です .

手前 前島の向こうが黒島、その左に見える▲ 柱島

  この銭壷山からの景色は、どこに色を落ち着かせるかに、とても時間を取ってしまいました。  自分の目で見たまま! と思ってやるのですが、それが難しい。 自分の目は便利なもので、「わぁ~きれい!」という思いがあると、勝手にとても美しい色に感じてしまうようです。
  2枚目の写真、どこからが空なのか分らないぐらいのこんな感じだった、と思って最初に仕上げた写真は(A)でした。  4、5日経って見ると、 ・・・ちょっと青すぎるカナァ・・・ と思えてきます。 アアでもないコウでもないと何度もやり直すうちに、実際はどんなだったかわからなくなってしまいます(><);
  いや、このくらいだったに違いないと最終的に 2枚目の写真(B)になりました。
   (A)                 (B)(上↑2枚目の写真)

気持では断然(A)の方なんですけどね(^^)v

パノラマではお遊びと思って 青っぽい方を取っています。


こんな大事な風景のときに、偏光フィルターを忘れてきてしまった><;
サングラスではどうだろうとレンズの前に、
同行のAさんが置いてくださったのでパチリパチリ・・・・^^アハハ

サングラスの世界




↓サングラスパノラマ↓



次はうしろ側 山の景色です。
  左手の尖ってる山が当初行く予定だった琴石山(546m)、 頂上には天女が舞い降りて琴を弾いたと言う岩があるらしいのですが、 駐車場から徒歩で20分登らないと着けないらしく、 私には無理と言うことで銭壷山になった次第でして・・・




桜が咲いているともっとよかったのですが
イチバン膨らんでいた蕾がこれ!

この2枚はコンデジです お天気がいいのがよく分ります


  銭壷山を下りて 潮風公園・みなとオアシスゆう の レストラン「潮風」で昼食。
  にぎわっていて4、5組分待って、私は軽く海老天うどん・・・・  と思ったのですが、どんぶりが大きくてボリュームたっぷりでした。 おつゆが! おいしかった!!
  ガラス越しにすぐが浜辺で、見える海の水のきれいなこと!! 水色、空色 と透き通って見えました。

昼食後、左手に瀬戸内、大島大橋を見ながら由宇町、大畠、をあとにしました。

R188を山陽本線と併走しながら南下

なが~~い貨車だ、何を運んでるんでしょうか・・・

あれ? 右手に見ていた貨車がいつのまにか反対側に??

 
大島大橋の下を通過していきます

偶然にしては出来すぎの ショット!@@! 


今回は橋は渡りませんでしたが、周防大島ともお別れです


以上、帰りはすべて車窓からです。

大島大橋をくぐる貨車(gifアニメ)

橋を渡ったところの高い山が大橋を見下ろす絶景が見られる 飯の山


このあと、柳井市の「やまぐちフラワーランド」に廻り、
少し行った先の「伊藤公記念公園」にも立ち寄って帰りました。



◆  「伊藤公記念公園」  ◆
山口県光市大字束荷(つかり)

 
 伊藤博文公について 
1841年(天保12年) 9月 出生 幼名 林 利助(はやしりすけ)
1857年(安政 4年) 4月 松下村塾に入り、吉田松陰に学ぶ
1885年(明治18年)12月 初代内閣総理大臣となる
1909年(明治42年)10年 ハルピン駅頭において凶弾に倒れる


伊藤博文公の絶筆
萬里の平原南満州
風光闊遠たり一天の秋
當年の戦迹餘憤を留む
更に行く人をして暗愁
を牽かしむ
広々とした南満州の大平原は、
秋空のもと澄み渡っている。
しかし、日露戦争の戦いのあとは
いまなお、やりきれないいきどおりをとどめ、
さらに道ゆく人を暗い愁いに沈ませる。

<伊藤公記念館>
  伊藤公記念館は、公の遠祖・林淡路守通起の没後 300年にあたって、法要を行うために建てた別邸だそうで、法要を行った後は、地元に寄付して図書館や公民館として利用してもらおうと考えていたのだそうです。
  博文公は明治42(1909)年10月26日、ハルビンで暗殺され、その完成を見ることはありませんでした。




 <伊藤公資料館> 

直筆の書や屏風、調度、弓矢などの展示がありましたが、
この中は撮影禁止でした。

  展示の中に軍服があり、先ごろ見たばかりのドラマ「坂の上の雲」の中で、外国の地で恋におち、敵の砲撃で命を落とした広瀬武夫の姿が、突然生々しく思い出されると同時に そうだ同じ時代の人だ と、この部屋にあるものがそう遠くない身近なものに感じられました。


<茅葺き屋根の生家>

利助(後の博文)が6歳までを過ごした


写っている建物は 伊藤公資料館 です

中には、 利助を交えての親子団欒の様子が・・・・

利助は竹とんぼを手にうれしそうに笑っています

<産湯の井戸>

生家の裏にあります

「悠然天地心」 第九十代内閣総理大臣 安倍晋三書


いや~いやいや今回の最後はやはりこれでしょうか・・・・
後の建物が公園入口にある 伊藤公記念館 です

顔の部分はバックの景色が写ってるだけですから念のためーー;;


長くなりますので
「やまぐちフラワーランド」は次回に分けましたのでまた・・・





萩の春をひとめぐり(2)

2011-04-03 | ドライブ・たび
笠山にやってきました
  萩の町を素通りし、市街地から北東4km、日本海に突き出たところに 笠山 があります。 笠山は火山活動で出来た小さな火山 (世界最小、あるいは東洋最小? 日本最小??とも言われているらしい^^。)、 休火山です。
  溶岩が冷えて固まって出来ていて、麓にある前掲の「明神池」は、溶岩の透き間から海水が入って出来た汽水の池です。 その奥には「風穴」とよばれるところがあり、溶岩の透き間からいつも冷たい風が流れています。 こんな風穴は山全体に幾つもあるそうです。 

笠山の麓から見た萩の海


標高112mの山頂にある火口には下りて行けるようになっている


火口近くの展望台からは椿群生林の向こうに萩の海岸線が一望できる
 
「日本の夕日百選」にも選ばれてるそうです。

  沖合いを暖流が流れているので温暖だというのですが、私が行く時はいつも、すごく寒い。 というのも、行くのがいつも 椿 の時期だからでしょうか。 このときも寒い上にものすごい風で、展望台では、カメラも飛ばされるのではないかと思うほどでした。
  10haの広さに、ヤブ椿約25,000本が溶岩の裂け目に根を張っています。

11:50広場のシンボル?椿

11:52カメラマン

11:54赤い椿のトンネルを

11:53椿群生林の遊歩道 11:57三脚立てて


 笠山椿群生林 

萩市観光課に ↑ リンク

ここには何度か来ていますが今年が一番、ツバキのいいときに出くわしました!
たくさんの花が今が見ごろと咲きそろっていました!
それぞれ名前がついてるのかもしれませんがそんなことはどうでもいい、

”赤いツバキ” 
(1)                         (2)
 

(3)

バックの車イスの人をもう少し分るようにしたかったんだけど><ゞ

(4)                         (5)
 

(6)                         (7)
 

(8)                         (9)
 

(10)                         (11)
 

(12)笠山紫                      (13)
 

(14)

(2011/03/09 12:46 焦点距離48mm f/5.6 1/320 ISO-1250)

お気に入り写真の1枚、(14)横画と(15)縦画両方入れてしまった
もし一方だけだとすると、私は縦画の方を選びそうですが、普通は横・・・^^?
みなさんはどちらがお好きでしょうねぇ・・・?
(実は今回のもう一枚のお気に入り写真も 縦 ですねぇ^^)

(15)                         (16)
  
展示会場には赤ではない椿もありました。

(17)                         (18)
 


  笠山椿群生林では、日の当たるところと陰の差が激しく、ほとんどが失敗写真となりました。 ISOを400で撮り始め真っ暗写真、1250まで上げてそのまま忘れていてまっ白写真><;; と繰り返していました。
  手振れを防ぐために、ISOを上げ気味にしてシャッタースピードを早めて撮りました。 (14)番に撮影データを入れています。


笠山を下りて、道の駅「萩しーまーと」で遅い昼食をとり
開催中だったお雛様を見て帰りました。

* * 萩城下の古き雛たち * *
萩観光課に ↑ リンク

 

旧久保田家住宅と、菊屋家住宅のお雛様を拝見しましたが、
久保田家の方では、伝承のお雛様に加えて、市民の方々からお借りしたものなど
5、6部屋に渡り、たくさんの歴代お雛様を見せていただきました。
写真はほんの一部です。

* 旧 久保田家住宅 * (萩市指定有形文化財) 入場料 100円
昭和30年代のお雛様__
 

関西は御殿形式、関東は屏風形式が多いそうです。


 
 ↑ 有職雛(うそくびな・公卿の装束を有職故実に 基づいて正しく雛にされたものだそうです)




* 菊屋家住宅 * (国指定重要文化財) 入場料 500円



珍しい 渡り廊下のあるお雛様 (ガラス越しですので白く反射してるところがあります)





火の用心の道具




 負けないゾー! コンデジ!^^! 

お待ちかねの? 負けないぞコンデジ コーナー

 
 

(19)笠山紫 ((12)番と同じ木です)


(20)


(21)紫紺椿




河津桜も咲いていました!


道の駅/萩しーまーと です。
道の駅のレストラン「来萩」でいただいた
きはぎスペシャル 1,600円(ボリュームたっぷりの海鮮丼)
の写真はありませんが、代わりの河津桜です!


なんでも、
静岡で公務員をしていた萩の人が、
毎年贈って増えてきたんだとか・・・。

 これは駐車場に植えられてるもの→
駐車場の横には100本を越える河津桜が植えられていました。

最後は、萩往還の涙松遺跡で撮ったオオイヌノフグリ
と思っていたら天道虫が写っていた一枚と


***** 3月31日に撮った やったー初蝶!! ということで *****
とても暖かくなったこの日は「スケッチ」の日で、
菜の花を狙って片田舎に出かけていました。

(2011/03/31 11:12 f/8 1/640 ISO-200 Pオート)
  蝶が目の前を、しきりに翅を動かしながら横切っていったのは、色を塗りはじめた頃。 浮き足立ちつつ目で追っていると、菜の花に止まってくれたではないですか!^^!  私一人が筆をホッポリ出して、撮れた写真は2枚。 と言ってもほぼ同じ角度でした(><);

初蝶のよこぎってゆく風景画   ふじ


こちらのピントは菜の花にいってますが、ま、ご愛嬌ということで・・・^^

負けないゾーと言いつつ負けてる コンデジ でした。 





萩の春をひとめぐり(1)

2011-03-22 | ドライブ・たび
  昨日は3月21日、暑さ寒さも彼岸まで と言われる彼岸の中日。
東北関東大震災も10日が過ぎました。 31万人の方の不自由な避難生活も少しずつは改善されつつあるといったところでしょうか。
福島原発事故の恐怖はどう動いていくのでしょうか。
  一日も早く花や鳥、風月に、ほっと喜べる日が訪れることを祈りつつ、萩を巡った時の写真で、少しでも春をお届けしたいと思います。

3月9日
ビデオ仲間に誘われて春を迎えた 萩 に行ってきました。

萩有料道路内にある道の駅・萩往還公園で、維新の志士達のお出迎え

高杉晋作・吉田松陰・久坂玄瑞 と松蔭塾生の銅像が並んでいます
近くにファンがおいでのようなので
「一番凛々しい人が高杉晋作です」と言っておきましょう^^。

山形有朋・木戸孝充・伊藤博文 天野清三郎・野村和作
貼ってあるラベルを見ないとチガイが分りませんが・・・><ゞ

松蔭記念館内、手前が萩市の模型で入口付近に見えるのは松蔭の旅姿


復元されている松下村塾で講義中?

「学者になってはいけない。 人は実行が第一だ。」
と松蔭はよく語っていたそうです。

道の駅萩往還公園を出て、
江戸時代、萩を振り返って別れの涙を流したという涙松の遺址

右上に僅かに見える松は、平成元年に涙松遺跡に植え替えられた松です。



← 涙松遺址から萩の町の方を見たところ。 中央に一本高く街道松が残っているのが見えます。

  萩往還は、関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏が萩城に居を移した後の
1604年(慶長9年)参勤交代道として整備された、萩城下町(日本海)から山口市を通って 三田尻(瀬戸内海)までを結ぶ、幕末の志士たちも歩いた 全長約53kmの歴史の道です。

  山陽道への連絡道としての機能のほか、日本海側の萩と瀬戸内側の商港であった中関港とを結ぶ役割もあったようです。

確か昨年小太郎さんが萩に行かれています。
萩の全体像?^^はそちらの 「萩・山口」 の方で。


 萩往還梅林園 (10種類 300本の梅)



紅白梅は満開、枝垂れはこれからかという寒くも穏やかな日でした


 

遠出して薄紅梅に出あひけり   ふじ



  




途中、橋の下のシロウオ漁の様子を見ながら笠山に向かいました。


 笠山の麓にある「明神池」 

萩の明神池は外海とつながっており、マダイやボラを見ることができました。
ボラは産卵をしているらしい様子! 写真は見事に失敗><!水面しか・・・


エサにありつけるとみるや、
急にわんさか
トンビが上空を舞い始める。



車窓からのコンデジにしてはよく撮れた!^^!


対岸でおとなしくしている時のトンビ、折角なので^^
 

このあと笠山の椿を堪能した様子は、次回に続きますのでよろしく。

墓石にも供へし花にも菜種梅雨   ふじ
菜の花の色をくはへて墓参    ふじ