豆腐は「木綿」が良いのか「絹ごし」がいいのか。これは両派それぞれ言い分はあることでしょう。
2012年1月に当時将棋連盟会長だった米長邦雄永世棋聖は第1回電王戦に出場し、コンピュータ将棋ソフト「ボンクラーズ」に敗れたことがあります。その後の記者会見で米長さんは、
「電王戦は『でんおうせん』ですか、それとも『でんのうせん』ですか」
と記者団に尋ねられました。記者団が困っていると米長さんは
「将棋連盟というところは『どっちでもええやないか』という団体でございます」
と言ったそうです。その場では「でんのうせん」にしようかということになりましたが、第2回からは「でんおうせん」で統一されました。
さて、終戦直後のこと。読売新聞は「全日本選手権」という棋戦を主催していました。この棋戦は後の、九段戦、十段戦、そして現在の竜王戦へと発展して行ったものです。
1949年。当時の木村義雄名人と升田幸三八段は、この全日本選手権を争うことになりました。まず問題になったのが対局場です。木村は東京さん、升田さんは大阪に住んでおり、現在であれば格下の側が移動して、格上の側のホームで対局するものと、一律に決められていますが、当時は戦後の混乱期であり、将棋界も再出発をはかる途上で体制やルールも、まだ明確になっていませんでした。よって、「打倒木村」に執念を燃やす、升田さんの意地の張り方は普通ではなかったそうです。
升田さんは戦争と指し盛りの時期が重なり、長く軍隊で過ごし、南方のポナペ島(ポンペイ島)では死線をさまよいました。戦後は実力日本一という声も上がりながら、数々の悲運に見舞われ続け、この時点では棋界の頂点に立ったことはありませんでした。
1949年6月に全日本選手権で対戦する時点で、木村名人は44歳。一方の升田八段は31歳。キャリアと年齢からすれば木村さんの方が格上なのですが、格下の升田さんが、大阪に来いと言って譲らず、折衷案として、金沢の「つば甚」という、老舗の料亭で行われることとなりました。
対局前日のこと。木村さん、升田さんと関係者は一堂に顔を揃え、夜には会食の席が設けられました。その際に出てきたのが、豆腐の料理でした。
升田さんの自伝、「名人に香車を引いた男」にはこう書かれているそうです。
<木村さんがトウフを突っつきながら、
「トウフってのは、うまいもんだね。それももめんごしがいい。絹ごしってのは、歯ごたえがなくていけないよ」
という。名人のお言葉だから、関係者一同、ヘイさようでございと相槌を打つ。その図がいかにもおかしかったんで、私はついこういってからかった。
「もめんごしなんて、ニガリが強くて食えたもんじゃない。トウフは絹ごしが上等と決まっとるんだ。名人は貧乏人の息子だから、絹ごしの味がわからんのと違うか」
自分が五反百姓のせがれなのはそっちのけで、いいたいことをいう。>
また、「升田幸三名局集」(日本将棋連盟発行、マイナビ出版)には両者はこう言い争ったとも書かれているそうです。
<「君はまだ若いから、ものの味が分からんのだろう」
「口に入れると、とろけるような舌ざわりのよさを名人こそ分からんのと違うか」
「そんなこたあ君い、田舎もんの言うことだよ」>
翌日に全日本選手権を争う、稀代の棋士が子どものような言い争いをしています。
升田さん「名人に香車を引いた男」には続けてこう書かれているそうです。
<そのうちバカバカしくなって、
「名人がなんだ。名人なんてゴミみたいなもんだ」
といってやった。これには木村さんもムッとして、
「名人がゴミなら君はなんだ」
と切り返してきた。
「私ですか、さあ、ゴミにたかるハエみたいなもんですな」
とっさにこう答え、ハッハッハと笑うと、一座の人たちも、つられて笑い出す。かくて口ゲンカは、私が一本取った形になったんだが、そう簡単に降参する木村さんじゃない。
「升田君、君も偉そうなことばかりいってないで、一度くらい名人戦の挑戦者になったらどうだね」>
現代であれば大問題になることでしょう。時代も時代でしょうし、度量の大きさもあってか、まだ許されたのかも知れません。
また、ある意味、盤上でではなく、すでに日常からこうやって、相手に仕掛けて来ているのかも知れません。
さて、豆腐は、木綿ごしがいいのか、絹ごしがいいのか。そんなの
「どっちでもええやないか……」
でしょう。人それぞれが美味しいと思ったものであれば。
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