野球小僧

第101回 全国高等学校野球選手権大会 二回戦 広島商業高(広島) vs. 岡山学芸館高(岡山)

第101回全国高等学校野球選手権の大会第5日目は一回戦2試合と二回戦1試合が行われました。

■第1試合

関東一高は2点をリードされた3回裏、平泉選手のソロホームランと土屋選手のタイムリー2ベースヒットで4点を奪い逆転。直後に逆転を許すも、4回裏に平泉選手と野口選手の連続タイムリーヒットで再逆転に成功し、シーソーゲームを制した関東一高が初戦突破しました。敗れた日本文理高は、選手権大会では2013年以来の初戦敗退となりました。

日本文理101300100|6
関東一 00420121x|10

■第2試合

熊本工業高は2点を追う4回裏、森選手と青山選手の連続タイムリー2ベースヒットで同点。4回裏に同点に追いつかれ、そのまま迎えた延長12回裏に、山口選手がサヨナラホームランを放ち、熊本工業高が6年ぶりの甲子園勝利を挙げました。敗れた山梨学院高は、打線が相手を上回る11安打を放ちながらも、チャンスであと1本が出ませんでした。

山梨学院200000000000 |2
熊本工 000200000001x|3(延長12回)

■第3試合:二回戦

岡山学芸館高は初回、長船選手のタイムリーヒットで先制。その後、逆転され3-5で迎えた8回裏に、中川選手と岩端選手の連続タイムリーヒットで3点を奪い逆転に成功し、岡山学芸館高が甲子園の初勝利を飾りました。敗れた広島商業高は、先発・倉本選手が好投するも、31年ぶりの選手権での勝利とはなりませんでした。

広島商  010012100|5
岡山学芸館10000113x|6

広商野球。守り、奇襲、手堅い戦法・・・。ひと言では表現できずとも、確かに存在する広商野球。創部から約120年の硬式野球部は2004年を最後に甲子園から遠ざかっていました。しかし、15年ぶりに出場した甲子園。送ってつないでスクイズと、広商野球の歴史を守りながら、新たな1ページを作ったと思います。これが広商だ、という野球だったと思います。

広商野球の神髄ともいえるのが、100回目の夏の歴史のなかで、現在まで唯一となっている決勝でのサヨナラスクイズです。

木製バット最後の夏となった1973年の第55回大会。5万8000人の大観衆が詰めかけたスタンド。一瞬の静寂に包まれた後、大歓声に変わります。静岡・静岡高の決勝。2-2で迎えた9回裏の広島商業高の攻撃は1アウト満塁。途中出場で八番に入っていた大利さんは、カウント2-2から三塁前にスクイズバント。三塁ランナーが生還して、サヨナラ勝ち。決勝でのサヨナラスクイズは100回の歴史の中で、この一度だけになります。

土壇場で、決めなければならない場面で決めたスリーバントスクイズは、心と技術を磨き抜く広商野球の神髄でした。静岡高のバッテリーもスクイズを警戒しており、ボール2つはいずれも、しっかりと外したものでした。しかし、3-2になると押し出しフォアボールのリスクが増すため、ボールにできないという、1球のチャンスを生かしたものです。

打席に入る前、迫田穆成監督(現;広島・如水館高監督)から「2ストライクからいくよ」と耳打ちされた大利さんは「サインが出ると、失敗とか成功とか考えず、来た球を転がすことだけ。今思えば無の境地だったのかもしれないね」とのことです。

選手はスクイズや送りバントは1球で仕留めると、普段の練習から徹底されていました。ですから、2ストライクからのスクイズというのも確信してのことでした。当時のバント練習は本職のピッチャーが投げるシート形式で行われていました。そして、バッターの横や後ろに控え部員が立ち、ヤジや罵声を浴びせて甲子園の大声援と同じ状況を作ります。1球でバントを決められないと、連帯責任で全員がグラウンド1周。仲間から「何をしとるんじゃ」と厳しい言葉が飛んだそうです。練習から一球一球が真剣勝負だったのです。

新チーム結成当初は、迫田監督に「広商始まって以来の最弱チーム」と評されていました。しかし、このチームからプロ野球に進んだのは、東洋大を経て広島東洋カープに入団した達川光男さんのみでした。特別なチームではありませんでしたが、負けないチームになっていました。

この夏は広島大会から甲子園大会をつうじて、計12試合でわずか1つしかエラーを記録していません。常に甲子園決勝の9回2アウト満塁のピンチを想定し、鍛えられてきました。エースの佃さんは部室を真っ暗にして本塁ベースの上に火をつけた線香を立て、そのわずかな炎に向かってシャドーピッチングを行い、制球力を磨いてきました。

そして、この夏の優勝は1957年以来16年ぶり、春夏通算6度目の全国制覇となりました。

広島商業高の心を鍛える方法の一つが、伝説の「真剣刃渡り」。1920年代に石本秀一初代監督(それ以前は監督の肩書なし)が取り入れ、迫田監督時代(1968年~1975年)にも行われていました。春先と夏の大会前に武道の先生を招き、入念に腹式呼吸の訓練をした後、選手は2本並べた日本刀の刃の上に乗ったそうです。日本刀は擦って切るもので、乗る分には切れないそうですが、足の裏が少しでも動くと皮膚が切れたそうです。

冬は雪が積もったグラウンドを裸足で走り、腹筋を鍛えるために腹の上に石を置いてハンマーでたたき割るという練習もしていたそうです。

すべては大舞台で乱れない心を養うためでした。

ちなみに、この大会で21回と多用したバントは、一度を除いて、すべて2ストライクからであり、土壇場でも平常心で臨める、絶対の自信と技術を身につけるのが広商野球なのです。

もちろん、ガッツポーズも胴上げもしません。野球部には「野球部員である前に広商生たれ」「スターを作らない」「落後者を出さない」と3つの指針があります。選手全員がチームプレーに徹し、強敵に立ち向かっていくのが広島商業高の伝統なのです。

そして、広島商業高の選手は甲子園で敗れても、土を持って帰ることはしません。なぜならば、甲子園は「広島商業高の庭」であり、いつも来る場所だからです。勝つために来る場所だからなのです。

また、来春か来夏か。伝統のユニフォームが観られることを楽しみに待っています。


コメント一覧

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eco坊主さん、こんばんは。

長らく、甲子園から遠ざかっていましたが、広商野球は健在でしたね。完全復活に残すは甲子園の勝利ですね。

秋季中国大会では鳥取県勢の前に立ちはだかりそうな・・・んー、中国5県の方でも、因幡の国の方としては、ちょっと微妙でしょうか。
eco坊主
おはようございます。

こんなに早くB&B対決になってしまうとは・・・
もっとトーナメントの上で観たかったです。

広商って31年も勝っていなかったのですか!?ちょっとビックリです。
故佃さんや達川光男さん、金光さんたちの強かったイメージがあります。
確か江川さんの作新学院にも勝ったんですよね。

中国5県の者としてはやはり広商は別格です!
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