野球小僧

第100回 全国高等学校野球選手権記念大会 二回戦 沖縄・興南高 vs. 東千葉・木更津総合高

8月15日。日本では平成最後の終戦の日でした。この日のレジェンド始球式には、プロ野球の広島東洋カープ、阪神タイガースで活躍した沖縄高(現:沖縄尚学高)OBの安仁屋宗八さんがマウンドに上がりました。登板日が終戦の日と重なったのは偶然ではなく、必然だったのでしょうか。安仁屋さんは1962年夏、沖縄高のエースとして南九州大会を勝ち抜き、沖縄県勢として初めて自力で甲子園出場を果たしています。

始球式の登板が決まった際には「沖縄出身で、プロでは(被爆地の)広島でお世話になったことも関係しているんでしょう。今回、第100回大会を迎えられたのも日本が平和だからこそ。平和への感謝の気持ちも込めて投げたい」と話していました。

激戦地の沖縄で生まれ、原爆が投下された広島で半世紀以上も生きてきた安仁屋さん。今年の沖縄大会でも慰霊の日であった6月23日の開幕戦でも始球式を務めました。

(画像は画面キャプチャ)

今日は長くなりますが、戦時中の元高校球児の話です。

神戸二中から三高(現:京都大など)、東京帝大(現:東京大)を経て内務官僚となり、太平洋戦争末期に政府が選んだ最後の官選知事として沖縄に赴任した島田叡(あきら)さん。学生時代は野球に熱中しており、俊足巧打の外野手だったそうです。

高等試験(現在の国家公務員上級試験)に合格して内務省に入りました。1945年(昭和20年)1月に米軍の足音が迫っていた沖縄へ赴任しました。前任の知事が、あれこれと口実を設けて「逃げ出した」後を、ためらうことなく引き受けたのです。

死ぬことは分かっていて覚悟の上だったと思います。ですが、「俺が断ったら他の誰かがいかなくてはならない」と家族らに告げて、敢然と沖縄へと行きました。


1944年(昭和19年)7月7日。政府は沖縄県民の60歳以上と15歳未満の老幼婦女子を本土と台湾へ集団疎開させることを閣議決定しました。この日、サイパンが陥落し、守備隊約3万1千人が玉砕し、在留邦人1万2千人も運命を共にした事から、沖縄でも同様の事態になることを恐れたことでした。
県民疎開を発案したのは参謀本部でした。戦場に多くの住民がいては、被害を大きくするだけでなく、住民を守るために軍は本来の戦闘力を大きく削がれてしまう。だから、戦場となる地域からは極力非戦闘員を避難させることが、軍事的常識でした。
また当時、沖縄は年間消費米5万7千トンの3分の2を台湾や他県からの移入に頼っていたので、沖縄での戦闘が始まり、海上輸送が途絶すると、県民の食糧補給が困難になる、との事情もありました。
しかし、当時の県知事は疎開反対でした。知事は反対の理由について「年寄りや女、子供を言葉や風習の違う本土に行かせるのは可愛そうだ」などと漏らしていましたが、実際は戦火が迫る沖縄から他府県に逃げ出したいのだが、疎開で騒然とした状況では動きにくいので反対しているのと言われていました。
10月10日、米軍機による最初の大空襲が行われ、那覇市内の各所で火炎と黒煙が吹き上げました。知事は寝間着姿のまま、官舎の防空壕に飛び込み、市内の状況把握もしません。そして、県庁舎は焼け残りましたが、知事は12kmも離れた普天間の地方事務所に逃れ、そのため県職員も重い書類や荷物を担いで、移動しなければならなりました。
県民の間から「この重大な戦局のさなかに長たるものが逃げるとは何だ」と非難が巻き起こりました。知事は数日後に県庁に姿を現しましたが、空襲警報が出るとまた普天間に逃げ帰るという有様で、知事の権威はなくなりました。
その後、空襲によって住む家は焼かれ、衣食は窮乏を極めたため、疎開を希望する県民が県庁に殺到します。沖縄に陣取る第32軍司令部ももはや県知事を相手にしなくなり、敵の上陸に備えて、さらに老人、児童、婦女子を県北部に疎開させる計画を立てました。しかし、知事は「山岳地帯で、耕地もない北部へ県民を追いやれば、戦争が始まる前に飢餓状態が起きる」と反対します。と言って、県民保護のための対案を示すわけではありませんでした。
第32軍司令部はサイパンで起きた邦人玉砕の悲劇を何とか避けたいとの思いで立てた計画だけに、「県民を救おうという案に対して、県知事が何をほざくか」と怒り心頭でした。そこで沖縄に戒厳令を敷き、行政権を軍司令官が掌握して、知事をその指揮下に入れてしまう、という強攻策を検討し始めます。そんな事をされては面子が立たないと、内務省は知事を更迭しました。しかし、戦場になることが目に見えている沖縄ですから、後任探しは難航しし,3、4人の候補者は、知事にはなりたいが、沖縄は拒否するという者ばかりでした。

そこに第32軍司令官の牛島中将から「島田君に当たってみてくれ」と推薦がありました。島田さんは当時、大阪府の内政部長でしたが、かつて上海総領事館の警察部長だった時に、牛島中将と親交を結んでいた間柄でした。
1945年(昭和20年)1月11日の朝でした。妻子3人と朝食のテーブルを囲んでいるところに、隣の知事官舎に住む池田清知事から「話があるから、ちょっと来てほしい」と島田さんに電話がありました。島田さんは戻ってきて、「沖縄県知事の内命やった」と家族に告げます。妻の美喜子さんは全身の血が逆流するような思いに駆られ、「それで、どうお答えになったのですか?」と聞きました。島田さん「もちろん、引き受けてきたわ」と落ち着き払って答えました。美喜子さんは驚いて、「沖縄はもうすぐ戦争になるのでしょう。そんな所へなぜ、あなたが行かなければならないのですか」と叫ぶように言いました。

「誰かが、どうしてもいかなならんとなれば、言われたおれが断るわけにはいかんやないか。おれが断ったらだれかが行かなならん。おれは行くのは嫌やから、だれか行けとは言えん。・・・これが若い者なら、赤紙(召集令状)一枚で否応なしにどこへでも行かなならんのや。おれが断れるからというので断ったら、おれもう卑怯者として外も歩けんようになる」

島田さんの沖縄県知事任命は、翌12日に閣議決定され、即日発令されました。奥さんと子どもとは大阪駅で別れたが、これが見納めになりました。荷物のトランク2つの中には、愛読書の「西郷南洲遺訓」「葉隠れ」とともに、日本刀、ピストル2丁、そして自決用の青酸カリが入っていました。「死ぬと決まったわけやない」と言っていたが、覚悟の旅立ちでした。米軍上陸の、わずか2カ月前のことでした。

島田さんは第27代沖縄県知事として、1945年(昭和20年)1月31日に着任しました。着任の挨拶では、相次ぐ空襲下での職員の苦労を労った後、「沖縄県は全国民の耳目を集めている。敵機の空襲を最初に受け、戦火の中を戦ったのだから、沖縄県から率先垂範し、全国民の士気を高揚させよう。無理な注文かもしれないが、先ず元気にやれ! 明朗にやろうじゃないか」と言い、職員たちは、この長官は自分たちを捨てていかない、この人になら最後までついていける、と思いました。
着任数日後に島田さんを訪ねた地元の有力者は、「前知事は逃げてけしからん。知事さんも大変ですね」と言うと、島田さんは、「人間誰でも命は惜しいですから、仕方がないですね。私だって死ぬのは怖いですよ。しかし、それよりも卑怯者といわれるのは、もっと怖い。私が来なければ、だれかが来ないといけなかった・・・。人間には運というものがあってね」と答えました。

着任8日目に、第32軍の参謀長が県庁に島田さんを訪ねてきました。牛島司令官の要請で赴任した島田さんに対して、参謀長は、米軍の上陸が近々に予測されていることから、老婦女子の北部山岳地帯への疎開を急ぐこと、住民の6ヶ月分の食糧を確保することの2点を要請されました。
その日の午後から緊急部課長会議を招集して、対応策を協議しました。そして内政や経済に関わる平時の業務を全面的に停止し、全職員を疎開と食糧確保の二つの業務に専念させることとしました。

まず疎開に関しては、北部の国頭(くにかみ)郡の8市町村に、2月中に4万人を移動させ、学校、集落事務所などの既設建物に収容することにし、また、新たな収容施設を建設し、3月には5万人強を移すことにしました。
疎開を促進するため、島田さんは住民が疎開に積極的でない所へは激務の間を縫って、国民学校を会場に自ら疎開の需要性を説きました。秘書官は、「当時の沖縄は官尊民卑の風潮が強かったから、勅任官(天皇から任命される官僚)の知事といえば天皇陛下も同様です。その地方長官が村へ来るのですから、住民は会場に詰めかけましたねえ。おまけに長官の話がまた易しくて、気軽でしょ。みんないっぺんに好きになった」と語っています。
講演が済むと民家の実情視察ですが、あらかじめ訪問先は決めてあるですが、「ちょっと、あの家にも寄っていこうや」と予定外の家にも入っていき、話し込だりしました。疎開を渋るのは、農地や家畜のことを気にしている場合が多く、その様子を聞いたうえで、「それでも、危ないから疎開した方がいいよ」と説得します。こうした努力もあって、わずか2ヶ月で9万人強の疎開という仕事が進みました。

その北部への疎開の様子は「中、南部から北へ北へと戦火を避けて移動する年寄り、女、子供の群れは、西海岸の名護街道と東海岸の金武(きん)街道を埋めた。長々と延び切った人々の列は、昼となく夜となく北へ動いた」とのことで、沖縄千年の間でも、これほどもの悲しい風景は見当たらなかったとのことです。
食糧確保も難題でした。当時の保有米は県民消費の3ヶ月分がやっとという状況で、特使を台湾に派遣して、米の移入を交渉させました。しかし、台湾の方でも米軍の侵攻が予想されることから、「沖縄に回す米はない」と交渉は難航しました。しかし、島田さんは自ら台湾に飛んで交渉に入り、450トンの入手が出来ました。この米によって、多くの県民が飢餓から救われました。

3月23日。朝から米軍上陸の前の空襲が始まりました。米艦載機の延べ千数百機による大空襲が全島を覆いました。日本軍の打ち上げた高射砲の弾片が、びゅんびゅんと音を立てて落下してきます。沖縄各地が空襲にされされているという情報が次々と寄せられます。「やあ、皆、元気だね。敵さん、なかなか鮮やかだね」と、鉄カブトをかぶった島田さんが姿を現しました。知事の動じない姿に、迎える職員たちの顔も思わず和みました。
翌24日。戦艦以下30隻の米機動部隊が早朝から本島南部の沖合から、艦砲射撃を始めます。以後、上陸前1週間、合計219隻が5100トンの砲弾を島に叩き込みました。島田さんは職員を数km離れたいくつかの壕に分散させ、そこから老幼婦女子の北部疎開、食糧の配給、そして避難壕の整備・構築の指揮をとりました。島田さんの入っていた壕は150mほどの坑道のような形で、その中に百数十人が入っていました。湿度が高いために、少し動くと大汗になる中で、壕を広げるために、掘った土をザルの手渡しリレーで外に運び出す作業が行われました。島田さんは、「よしっ、僕もやろう」と、泥んこになってザル渡しをしました。そして「壕では運動不足になるから、これは健康のために良い」と言って、皆が気を使わないようにしていました。食事は共同炊飯で、おにぎりとおつゆでしたが、村の人々が田んぼからウナギやフナをとってきて、知事にもう一品つけようとしますが、島田さんは決まって少しだけ頂くと、後は「ケガをしている人にあげて下さい」と回してしまいました。
4月1日。上陸を開始した米軍は、日本軍の抵抗に遭いながらも進攻し、24日には首里・那覇地区からの非戦闘員に東南部への非難命令が出されました。東南部での避難民の受入体制を整備すべく、27日に南部の市町村長、警察署長らが壕の中に集まり、島田さんは「食糧も壕も不十分なことは万々承知しているが、生死を共にしている今こそ、同胞愛を発揮して貰いたい」と頭を下げ、「戦いがいかに激しく、また長びこうとも、住民を飢えさせることは行政担当者として最大の恥」と強調し、芋の植え付けや麦、大豆の収穫を夜間、月明りを利用して行うよう指示しました。農民は一層の食糧増産を申し合わせると共に、「避難民はどの畑からでも作物を自由に取って食べて良い」と各村で決議し、これによって救われた避難民も多かったそうです。

5月末。第32軍は首里戦線から撤退し、最後の抵抗拠点である沖縄本島南端の摩文仁(まぶに)へ移動しました。島田さんは牛島軍司令官と最期を共にすることを決意し、6月8日には県庁を解散して、職員たちに「生きて沖縄再建のために尽くしなさい」と脱出を命じます。親しい新聞記者が別れの挨拶に来て、「知事さんは赴任以来、県民のためにもう十分働かれました。文官なんですから、最後は手を上げて、出られてもよいのではありませんか」と小声で言いました。すると、島田さんはキッと顔を上げて、「君、一県の長官として、僕が生きて帰れると思うかね? 沖縄の人がどれだけ死んでいるか、君も知っているだろ?」と答えました。
軍司令官が敗戦と将兵戦死の責任をとって自決するように、幾多の県民を死なせた地方長官も、その責めを負わなければならない、というのが、島田さんの覚悟でした。
牛島軍司令官は6月23日、摩文仁の軍司令部壕で自決し、沖縄戦の組織的戦闘は終息しました。島田さんは近くの海岸の自然壕でピストルで自決したと見られています。享年43歳。

島田さんとしては、県民を十分に保護できなかったとの思いだと思いますが、20万人にのぼる県内外への疎開、台湾米の移入などで多くの県民が命を救われたのは事実です。

沖縄では、島田さんの名前を知らない人はいないと言われています。ところが、沖縄以外では島田さんのことはあまり知られていません。日本人として知っておくべきことだと思います。

第2試合
木更津総合 0 1 0 0 1 0 1 2 2|7
興南    0 0 0 0 0 0 0 0 0|0

毎年8月に行われる沖縄県新人戦の優勝杯は「島田杯」と名付けられているそうです。兵庫高OBらから1964年に沖縄県高野連に贈呈されたものです。甲子園を目指す県内の下級生は、まず島田さんの名を目指して戦います。残念ながら、沖縄・興南高は敗けてしましたが、二・三年生の中には島田杯を経験してきた選手がいると思います。そして、また、今年も一年生が島田杯へと出場します。「島守」の魂は、白球を通じて島の球児に受け継がれていると思います。




(画像は画面キャプチャ)

第1試合
下関国際 0 0 1 0 1 0 0 0 3|5
創志学園 0 3 0 0 0 0 0 1 0|4

第3試合
日大三  2 0 1 0 0 2 0 1 2|8
奈良大付 0 0 0 0 0 3 0 0 1|4
日大三が優勝した2011年以来の3回戦進出。東京勢は春夏合わせて甲子園300勝。

第4試合
龍谷大平安  0 3 3 0 0 0 2 2 4|14

八戸学院光星 0 1 0 0 0 0 0 0 0|1


コメント一覧

まっくろくろすけ
eco 坊主さん、こんばんは。
こうやって、毎日、野球が見られるのも、平和のおかげですね。
ま、私も、今晩は、このくらいで。
eco坊主
おはようございます。

>沖縄以外では島田さんのことはあまり知られていません。日本人として知っておくべきことだと思います。
↑ 存じ上げませんでした。申し訳ございません。

>幾多の県民を死なせた地方長官も、その責めを負わなければならない、というのが、島田さんの覚悟でした。
↑ 勿論戦争は二度とあってはいけませんが、こんな国民のための覚悟を持った政治家は・・・

昨日の12時に沖縄代表が試合だったのも偶然ではなく必然なのでしょうね。

今日のブログに駄文コメを書くのは憚れます。
今朝はこれくらいで。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

最新の画像もっと見る

最近の「高校野球」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事