甲子園の試合終了後の風物詩と言えば、敗けたチームの球児がベンチ前で土をシューズ袋に入れている姿です。
すべてのチーム、球児がそうしているかと思えば、そうでもありません。まあた、TVには映っていませんが、優勝チームもグラウンドを去る前に土を持ち帰ることがあるそうです。
(第90回全国高校野球選手権大会に出場した松商学園高校が持ち帰った甲子園の土です)
さて、この甲子園の土を「最初に持ち帰ったのは誰?」なのかは3つの説があるそうです。
1つ目の説は、第31回(1949年)全国高等学校野球選手権でのこと。
夏3連覇を目指していた福岡・小倉は準々決勝で岡山・倉敷工に敗れました。小倉のエースだった福嶋一雄さんの北九州市の自宅に、大会福審判長から速達が届き、そこには「君のポケットに大切なものが入っている」と書かれていたそうです。
前年の第30回(1948年)では史上2人目となる全5試合を完封して連覇した福嶋さんでしたが、この年は右ヒジを故障し、最後はストレートしか投げられずに敗れてしまいました。
「甲子園を去りがたい思いだった」とのことで、無意識のうちに足元の「杯に1杯ほど」の土を手にして、ユニフォームのズボンのポケットいれたのだという。
この話から福嶋さんが「甲子園の土を最初に持ち帰った球児」という説が生まれたそうです。
ただ、福嶋さんは「土を拾ったことは覚えていないし、私が(持ち帰った)第1号かどうかということも知らない。そのことについては肯定も否定もしませんよ」と言っているそうです。
第二の説は福嶋さんの話に遡ること11年前。1937年夏の第23回で準優勝した熊本工高の川上哲治さん説。川上さんは読売ジャイアンツで選手や監督として一時代を築いた打撃の神様。と呼ばれた方です。
川上さん説は1995年8月16日付の朝日新聞に「(土を)小さな袋に入れ、ズボンのポケットにそっと入れた」と記事があるそうです。また、その土を母校の熊本工高のグラウンドにまいたと言う話も残っています。
第三の説は、その川上さんが生前に語っていたことで、川上さんの息子さんが「私の知るかぎり、土を持ち帰ったのは父が最初ではないようです。何度か同じ質問を受け、父がそうこたえているのをきいたことがあります。そういう習慣に従っただけ、のようです。いつしか、父が最初、ということになってしまったらしいのです」と言っていたとのことです。
福嶋さん、川上さんとご自身ではないと否定しているということは、つまり、誰かは判りませんが「甲子園の土」を持ち帰ったのは、名も知れない球児だったのでしょう。
さて、今度は福嶋さんの話から9年後。1958年第40回記念大会。
記念大会ということもあり、各都道府県から代表校の出場となり、当時、米国統治下の沖縄県から初めて甲子園の土を踏んだ首里高は、福井・敦賀高に0-3で敗れました。
そして、他のチームと同じように土を持ち帰りましたが、当時沖縄での検疫に「外国の土は持ち込んではならない」という規定があり、球児たちが持ち帰った甲子園の土は外国の土だから検疫法違反と言うことで没収され、那覇港の海に棄てられてしまいました。
この事を知った当時日本航空の客室乗務員だった近藤充子さんが「土がダメでも石ならいいでしょう」と甲子園の小石を40個くらい集めて贈り、その小石は今も首里高の甲子園出場記念碑の「友愛の碑」に埋め込まれているそうです。
首里高の事件がきっかけの一つとなり、沖縄返還運動は一層盛り上がったそうです。
1960年には沖縄県祖国復帰協議会が結成され、本格的な運動がスタートし、1972年の沖縄返還につながりました。
これも戦争が一因です。
57年前の夏は甲子園の土を巡って二回涙を流した球児がいたのです。
今年は戦後、高校野球が復活してから70年目。今後も平和でありたいと願います。