足4の字固めを必殺技とし、力道山さんやジャイアント馬場さんのライバルとして知られる伝説のプロレスラー、ザ・デストロイヤー(本名リチャード・ベイヤー)さんが亡くなったと3月7日(日本時間8日)、複数の米有力メディアが報じました。
米国ニューヨーク州バファロー出身のデストロイヤーさんは1954年にプロレスデビューした当時は素顔でしたが、1962年に白地に赤の縁取りを付けたマスクを装着し、覆面レスラーの「デストロイヤー」として変身し、大ブレークしました。ロサンゼルスのWWAにて、同年7月フレッド・ブラッシーさんを破りWWA世界ヘビー級王座を獲得、覆面レスラー初の世界チャンピオンとなりました。その後、1964年7月にディック・ザ・ブルーザーさん、11月にカウボーイ・ボブ・エリスさんから同王座を奪取し、通算3回にわたってWWA世界ヘビー級王者となりました。
1963年5月、日本プロレスに初来日して力道山さんと対戦、足4の字固めをめぐる壮絶な攻防は全国に一大センセーションを巻き起こします。同年5月24日に東京・千駄ヶ谷の東京体育館で行われた力道山さんとのWWA世界ヘビー級選手権試合は、日本プロレス史上に残る名勝負でした。力道山さんの空手チョップで前歯をへし折られながらも、必殺の足4の字固めに捉えたデストロイヤーさんでした。ところが、力道山さんはギブアップせず、体を反転させて裏返しになり、4の字固めをかけられたまま上から逆にデストロイヤーさんの足を責めつけました。そのまま二人は二転三転、どちらもギブアップしないため、レフェリーはこれ以上やったら二人とも死ぬ、と叫んで引き分けとなりました。この一戦は平均視聴率64%を記録、これは今日においても歴代視聴率4位にランクされています。
来日当初は大ヒールのデストロイヤーさんでしたが、全日本プロレス旗揚げ後の1972年に来日の際、「馬場に負けたら助っ人として日本に残る」と宣言、敗れたデストロイヤーさんはその後、1973年3月から1979年6月にかけて全日本プロレスの所属選手として活動します。PWF認定USヘビー級王者として、アブドーラ・ザ・ブッチャーさんやミル・マスカラスさんらと王座を賭けた名勝負を残しました。全日本プロレスでは若手選手のコーチ役も担当し、ジャンボ鶴田さんをはじめ大仁田厚選手や渕正信さんなどが教えを受けています。
1963年には日本プロレスに初来日し、力道山さんと対戦しました。1973~1979年からは全日本プロレスの所属選手として活躍し、ジャイアント馬場さんのライバルとして大きな注目を集め、アントニオ猪木さんとも対戦しています。キャリアは約40年、日米で8000試合以上におよんでいます。
また、日本テレビ系のバラエティー番組「金曜10時!うわさのチャンネル!!」にレギュラーで登場し、和田アキ子さん、徳光和夫さん、せんだみつおさんらとの掛け合いも人気を集めました。
1979年6月に北米のマット界へ再び主戦場を移しましたが、その「日本陣営引退記念試合」として組まれた馬場さんとの特別試合で、入場式ののち放送席に駆けつけ、「視聴者プレゼントに」とマスク(試合実用2枚、未使用多数)や試合に使われたガウンなどをサイン入りで寄贈しました。また、花束の贈呈には和田さん、せんださんらも出席しました。
米国に戻ってからは全日本プロレスの「サマー・アクション・シリーズ」での特別参戦を続け、1993年に引退。
引退試合では、馬場さん、息子のカートさんとタッグを組み、退場時には和田さんの「あの鐘を鳴らすのはあなた」がテーマとして使用されました。その後は、米国の高校で体育教師、水泳教室のインストラクターを務めました。
その後もたびたび来日し、2017年にプロレスラー時代からデストロイヤーさんが日米両国の友好親善および青少年交流に貢献してきた実績が評価され、日本政府から秋の叙勲において外国人叙勲者として旭日双光章が贈られました。
愛妻家として知られ、マスクは奥さんの手作りのものでした。
(上田馬之助さんかと思いました)