最後の夏の戦いが始まりました。
春夏5回の全国制覇を遂げている神奈川・横浜高校渡辺元智監督。
今年はノーシードから甲子園を目指すことになりました。初戦、12日の光明学園相模原高校戦では球場の内野席は満員となり、外野席は解放されたそうです。
退任は健康問題が理由とのことですが、今まで何度も辞めようかと思うタイミングはあったそうです。それでも自分を慕って来る選手もいたため、簡単に辞める訳には行かなかったそうです。
昨年には名参謀役だった小倉清一郎さんがコーチを退任した時も「二人同時に辞めたらチームが混乱する」と残ることを決めたそうです。
監督退任後は総監督として残ることにしたのは、選手たちのことを思ってのことだそうです。
単年で見れば1998年の横浜高は完全と思えるほどの強さでした。
準々決勝の大阪・PL学園高校を延長17回の激闘で下し、準決勝の高知・明徳義塾高校戦の大逆転、決勝の京都・京都成章高校戦での松坂大輔選手(福岡ソフトバンクホークス)のノーヒットノーランで史上5校目の春夏連覇とともに史上唯一の公式戦無敗、前年秋の明治神宮大会と国体を含む4冠達成でした。
実はその一年前の1997年夏の神奈川大会。優勝候補筆頭でしたが準決勝の横浜商業高校戦で九回裏の守り。同点で1アウト一・三塁から、スクイズを警戒してウエストしたボールが大きくそれ、サヨナラ暴投となってしまいました。「このとき“渡辺もう辞めろ、お前の時代は終わった”」という声がスタンドから聞こえて来たそうです。その後、そういうストレスもあり、心臓に負担をかけ、そのまま入院し、潮時だと思ったそうです。
ただ松坂選手を中心にした二年生がそのまま残り、当時の三年生も松坂選手たちを励ましてくれ、それでもう一度やってみようと思い直したそうです。
そして、のちにナインの間で“地獄の月夜野”と語り草になった、群馬・月夜野での合宿により、「個性派集団だったのが、勝つためにはどうすればいいか、何が必要かを考えるようになった」とのことで、ここから公式戦無敗伝説がスタートしました。なお、秋の神奈川大会初戦は病院から抜け出しての采配だったそうです。
ちなみに、横浜高は野球強豪校ですので活動資金が潤沢かと言えば、そうではなく、学校からの支給は年間60万円だそうです(全盛期の大阪の私立高は500万円以上だったらしいです)。
また、「親に負担をかけない」という学校方針で部費は月額1000円なのだそうです。
高校野球関係者からは「小倉さんは野球の頭脳」「渡辺監督は教育者」と言われているそうです。
横浜高の野球部室内練習場にあるホワイトボードに「目標がその日、その日を支配する」と記されています。
何事もなく一日を過ごしていてはいけない。自分のゴールを見て生活することで、人生は変わっていくということです。
高校野球なら、メンバー入りをする、スタメンを勝ち取る、試合に勝つ、甲子園に出るというようなことを考えて、一日を行動するように願ってのことだそうです。
渡辺監督は卒業していく選手たちに「やがて、人生の勝利者になれ」ともう一言添えているそうです。
横浜高野球部は多くの部員が所属しているため、ベンチに入れずに高校野球を終えていく選手も多いです。
厳しい練習から野球を辞めて故郷へ帰ると泣きじゃくる選手を何度も説得しました。
時には自殺をほのめかすサインを出してきた選手を必死に止めたりもしたそうです。
「野球では負けたかもしれない。でも、人生はまだまだ、終わらない。高校野球は二年半。その後の人生の方が長い」
苦難と挫折の半生だったという渡辺さんの人生。
渡辺監督が指導者人生をスタートさせた1965年当時の横浜高は、あまりのガラの悪さから“ヨタ校”と呼ばれ、「学校のバッジを見れば、誰もが避ける」と言われるほど、地元民も恐れるような学校だったそうです。もちろん、野球部も例に漏れず、問題児の巣窟でした。1968年に正式に監督に就任し、当然のように「甲子園出場」を目標としますが、こういう状況ですから、良い選手が集まらない状況だったそうです。
でも、生徒たちを愛する気持ちだけは昔も今も変わらないそうです。
今日は神奈川大会の三回戦を迎えます。
最後の夏。
監督から言葉をもらって選手たちは、一試合でも多く指揮を執ってもらえるようにプレーしていることでしょう。
たくさんのOBたちは当時のことを思い出しながら、母校の試合に思いを馳せ、応援しているに違いありません。
多くの横浜高ファンは、渡辺監督としての姿を甲子園で見たいと願っていることでしょう。
そして、その輝かしい記録は、多くの言葉とともに、白球の記憶と一緒に刻まれていくことでしょう。
「何の変哲もない白いボールだが、その中には人生が集約されている。それは社会に役立つものでなければならない」