「とにかく鳴り物入りで入団してきた、一学年上の大物に勝ちたい一心だった」と西本聖さん(元;読売ジャイアンツほか)は言っていました。ですから、1987年シーズンオフに江川卓さん(元;読売ジャイアンツ)が引退を表明した時に「ふざけるな。自分はどうすればいいんだ。1回くらい、勝ち星で上回りたかったのに、もう抜くことができない」と思ったそうです。
1980年代の読売ジャイアンツにはエースを争い、ライバル心をむき出しにして投げ合っていた2人がいました。それが江川さんと西本さんです。
高校時代から注目されていて、1979年1月31日に異例の裁定でジャイアンツに入団することになった江川さんに対して、ドラフト外から這い上がって、入団5年目にして一軍の先発ローテーション枠に入れそうな西本さんはローテーション枠から外れるのは自分と思ったことから「来るな!」と思ったそうです。
実は西本さんは高校時代(愛媛・松山商高)に江川さんを強く意識するようになっています。江川さんは作新学院高で甲子園に出場していて、当時の野球部監督が「甲子園に出たら当たるだろう」と考えて、練習試合を行いました。その時にバッターボックスで江川さんのボールを見てからだそうです。
1979年秋の地獄の伊東キャンプでは2人がブルペンで並んで投球しますが、意地の投げ合いになり、300球を超えたところで、強制的に終了させられました。西本さんは「エースは1人しかいない」と思っており、右のエース、左のエースなんてのもない。エースとは、基本的に周りが評価をするものだと考えており、そのためにもシーズンの勝ち星で江川さんに勝ちたいと思っていました。しかし、結局、それは達成することは出来ませんでした。
もう一つ負けたくなかったことに「開幕投手」という名誉がありました。開幕投手は一年間チームの中心として回していく、ナンバーワンの証しだと考えていたそうです。
この開幕投手の座も1980、1982、1984、1986年は江川さん、1981、1983、1985、1987年は西本さんが交互に務めました。しかし、それはお互いに譲り合ってという関係ではなく、お互いに対戦チームに関する情報交換をすることは、まったくなかったそうです。それがプロだと言います。チーム全体のミーティングには一緒に参加しますが、個人的にやっていることを教え合わなかったそうです。
西本さんが初めて開幕投手を務めた1981年に江川さんは西本さんのことを意識し始めたのではないとかとのことです。
その1981年は江川さん20勝、西本さん18勝。江川さんが勝って、翌日は西本さんで勝ち、また江川さんで勝って、西本さんで勝つという連勝が続きました。その中で西本さんが2試合連続で先発したことがありました。序盤に相手打線に打ち込まれ、ピッチングコーチに「代われ」って言われますが、強く拒否したそうです。すると「代わったら、また明日先発させてやるから。どうする?」言われ、このまま投げていても勝てないのだったら、明日投げたほうがいいと思い交代したそうです(翌日は完封勝ち)。勝ち星で江川さんに置いていかれないと必死だったそうです。
その年の日本ハムファイターズとの日本シリーズでは、江川さん先発の第1戦で「よし、打たれろ」と思っていたそうで、チームが負けたにも関わらず、内心は江川さんが負けたことを喜んでいたそうです。そのくらいの強いライバル意識を西本さんは持っていたそうです。
その年のオフ、20勝の江川さんが最多勝、最優秀防御率、最高勝率、最多奪三振、MVP、最優秀投手、ベストナインとピッチャーのタイトルを独占するのですが、最後に残った唯一のタイトル沢村賞に選ばれたのは西本さんでした。このことによって、江川さんは西本さんを本気でライバル視するきっかけになったそうです。
1983年の西武ライオンズとの日本シリーズでは再び2人の敵愾心と自尊心が激しく交錯しました。ジャイアンツの3勝2敗で迎えた第6戦、九回表に中畑清さんの3ベースで逆転。西本さんは第7戦の先発のため、ベンチで応援していたところが、「逆転だ!」って盛り上がり、ピッチングコーチが「ニシ、何やってんだ」となり、慌ててブルペンに向かいました。すでにブルペンでは、第1戦、第4戦で勝つことが出来なかった江川さんが、「(この試合の)最後は自分」という強い思いで、肩を作っていました。そして、九回裏の登板しますが、1点のリードを守り切れませんでした。そして、延長10回裏に江川さんがマウンドに立ちました。この時には西本さんは控え室で江川さんを「頼んだぞ」と見守ったそうです。自分が抑えられなかったため、江川さんに抑えてもらって、チームが勝つ方向だけを考えていたそうです。しかし、江川さんの気持ちは九回裏のマウンドに選ばれなかったことで、完全に切れていたためか、サヨナラ負けとなってしまいました。
それから4年後の1987年シーズンオフに江川さんが引退してしまいます。
西本さんの目標が消えてしまいました。そして、1989年に中日ドラゴンズに移籍し、プロ野球での通算勝ち星でだけは絶対に江川さんを抜いてやろうって思い直してプレーを続け、そして通算勝ち星でやっと江川さんを超えることが出来ました(西本さん165勝。江川さん135勝)。
西本さんは江川さんと過ごした9年間が自分を成長させてくれたと言います。
江川さんとレベルが違い、「下」のほうにいる西本さんは「抜きたい」っていうのが夢、目標であり、本当の意味でライバルだったと。だから、感謝の気持ちでいっぱいだそうです。
まだ、コミックスは3巻では、同期のドラフト1位・定岡正二さん(元;読売ジャイアンツ)と入団した年のことが描かれています。その後半にお兄さんの明和さん(元広島東洋カープ)からの手紙のエピソードがあります。
聖・・・オマエは「ドラフト外」で入った選手だ。
もし「オマエの実力」と「ドラフト1選手の実力」が”首脳陣の目”に同等に映ったとしたら・・・一軍に行くのは間違いなく「ドラフト選手」の方だ。
他人と同じことをやっているだけじゃ絶対勝てない。言わんや定岡になど・・・
いいか聖・・・不安を感じる人間でいろ。
不安は人をやる気にさせる。
不安があってもいい、だが不満を残すな。
「不満がある」ということは、自分をとことんまで追い詰めていない証拠だ。
いいか聖。
スポーツ選手が「競技者としての質」を高めるのは当たり前の話なんだ。
それを努力とは呼ばない。
オマエと同等の選手なんて腐る程いるってことだ。
問題は”その先”、”結果”を出せるか否かだ。
どんなにクオリティーが高くても、結果を出せない選手は腐る程いる。
オマエも”その仲間”に入りたいか?
この手紙に奮起した西本さんは、2年目の開幕に定岡さんより先に開幕ベンチ入りすることになるのです。