野球小僧

尼崎市立尼崎高等学校 吹奏楽部

尼崎市立尼崎高等学校は、兵庫県尼崎市上ノ島町にある市立高校です。今年が尼崎市制100周年になりますが、市尼崎高は市になる前の1913年4月に尼崎町立実科高等女学校として創立されました。

市制100周年を祝うように、第98回大会の選手宣誓のクジも前田大輝主将が引き当てました。また、組み合わせも大会三日目(8月9日)第一試合で青森・八戸学院光星高と決まり、ひとまずホッとしていることだと思います。

その理由は、市尼崎高の吹奏楽部は毎年選抜大会と選手権大会で沖縄県代表校の吹奏楽部の代わりに応援をしており、今大会は池山隆寛・楽天コーチを擁した1983年以来の自校出場となって、組み合わせによっては対戦する可能性もあったからだそうです。

そもそも沖縄県代表校への友情応援が始まったのは1981年。沖縄県伊良部島出身の現・市尼崎高吹奏楽部総監督の羽地靖隆さんに、沖縄県人会兵庫県本部から応援依頼があったことが始まりだそうです。

当時、羽地さんは尼崎市内の中学校で吹奏楽部顧問をしており、中学生を連れて応援しました。1997年に市尼崎高に赴任してからは、吹奏楽部を率いてスタンドに駆け付けて応援していたそうです。2009年に定年退職した後も非常勤講師として市尼崎高の教壇に立つとともに、総監督として友情応援を続けています。

羽地さんは中学一年まで沖縄県伊良部島で生活していました。中学二年の時に尼崎市に転校して来ました。当時、楽器を持つということは大変な時代で学校にオルガンがあるくらい、ピアノももちろんありません。そんな時代ではありましたが、尼崎市立尼崎東高に進学してから、なぜか「楽器をやってみようかな」と思って吹奏楽を始めたのが最初のきっかけでした。羽地さんが卒業した後にはコンクールの全国大会にも出場するぐらい吹奏楽の活発な学校になりましたが、羽地さんがいた頃はそうでもなく、みんなで楽しく遊んでいました。そんな感じで高校時代に音楽の楽しさを知り、作陽音楽大学に進学し、そこで教員免許を取得し、卒業した1971年からずっと吹奏楽の指導をしています。

最初に赴任した中学校で6年間勤めた後、別の中学校に赴任しましたが、そこは悪評の荒廃した学校で教育委員会の方から強制配転で赴任となりました。ほとんど、窓ガラスの無い学校で、最初はずっと生徒達とケンカばっかりして、吹奏楽部の部員もたくさん辞めてしまっていて、羽地さんがこの学校に来た時には部員は5人ぐらいしかいませんでした。羽地さんの前任には女性の音楽の先生がいましたが、女の先生一人では大変で、結局1年で転勤しています。音楽室には釘が打ちつけられていて、入れなかったりするなど、音楽の授業が普通に出来る状況ではありません。それでも羽地さんは地域の人々やPTA会長と生徒が卒業生とたむろしているあっちこっちの場所に行って、彼らといろいろ話をました。そうしている内に、次第に結構生徒が寄ってくるようになり、その後も生徒達といろいろ知り合いになるうちに、彼らも言うことをよく聞いてくれるようになり、いろいろ協力してくれるようになりました。それでやっと音楽室で音楽の授業を普通にやれるようになり、朝一緒に掃除をしてくれるようにまでなります。

また、PTAを含めた地域の人々が音楽で地域を盛り上げようということで後援会を作ってくれました。ただ、楽器なしではどうしようもないため、教育委員会に行き、座り込んで「楽器を買ってください」お願いすると、その当時の教育長(今でも演奏会を観に来るそうです)が100万円を出してくれました。それでも楽器はまだまだ足りませんが、今度は後援会が年間で300万円ぐらいのお金を用意してくれます。そして、夏休みの約1週間、総勢30人ぐらいで"たそがれコンサート"を開催。観客も結構集まり、こんな風にみんなが協力してくれたおかげで、やっと音楽が出来るようになり、嬉しかったそうです。

学校環境が落ち着いてくると、生徒達も勉強をするようになり、高校に進学して吹奏楽コンクールの全国大会に出場した子、プロの音楽家になった子もいたそうです。教育委員会も応援してくれ、学校に冷暖房をつけてくれたり、二重窓にしてくれたりと、その後、その中学校だけではなく、尼崎市内の他の中学校にも楽器を購入し、市内の吹奏楽も盛り上げていったそうです。その後、他の中学校に赴任し、1991年と1995年には吹奏楽コンクールの全国大会にも出場しました。

そしてその後、1997年より尼崎市立尼崎高で指導することになります。高校の教員免許を持っていたことと、教育委員会から是非にと言われたからだそうです。当時は阪神・淡路大震災の後で校舎はつぶれてしまっていてプレハブでした。赴任早々に「クラブ活動もいいけど生徒指導してくれ」って言われます。とにかくみんなガタガタしていて大変で、本当に学校と呼べる状態ではありませんでした。正直「早く、どっかに転勤したい」と思ったくらいでした。「この子らなんやねん」と思うくらいでした。だから最初の4~5年ぐらいはクラブをするのも大変で、吹奏楽部の部員も10名ほどしかいなかったため、吹奏楽コンクールも最初の2年間は小編成の部門で出場していました。当時、他の中学校にいた先生(現在は教育委員会)、その先生にも協力いただきながら、その後少しずつ部員を増やしていきます。それで部員数が30人ぐらいになった時に、コンクールの地区代表、部員数がちょうど50人になった時に、県代表として関西大会に出場します。このころから、学校も落ち着いてきて、生徒も勉強とクラブの両立ができるようになり、吹奏楽部も関西大会の常連校としての芽生え、部員数がたくさん集まったこともあり、2009年から関西の常連校となります。

羽地さんは「市尼高は県内でも一番落ち着いている」と言います。市尼崎高には風紀違反をしたり職員に反抗する生徒もいない。遅刻もゼロ。授業が35分に始まるのに対し、生徒達の多くは20分には校門にはいない。25分にはもう教室で、自分たちで本を読んでいたり、問題集をしたり、10分間を無駄にすごしていない。毎時間、授業開始3分前になったらもう生徒達は教室に入っている。このように今の学校の雰囲気はとてもいい感じだそうです。

音楽は人の心を変えることが出来る、それを信じて来た羽地さん。まさに教育者の姿ですね。

「もし、市尼崎高と沖縄県代表の嘉手納高がぶつかったら?」の問いに、羽地さんは「市尼側は顧問の先生に任せ、私はOBと一部の現役を連れて嘉手納スタンドへ行くよ」とのことでした。今のところ、三回戦以降になりませんと対戦があるかどうか判りませんが、実際に対戦となれば部員120人とOBを半分に分け、70人ずつを両方のスタンドに配置することになるそうです。羽地さんは「ずっと他校の応援をしてきたので自校の応援ができるのは夢のよう。もし嘉手納と対戦したら、一塁側と三塁側の両方で応援できて最高」と言っています。

ただし、困ったことに9日は三田市で第63回兵庫県吹奏楽コンクール(高等学校N)と高校野球大会が重なってしまいました。こちらの方は、残った部員で何とかなるようですが、12日の同コンクール(高等学校A)では55人がコンクールに行くため、スタンドの応援が足りなくなっていたところだそうです。

8月7日の開会式には50人の部員が参加し、一部はバックスクリーン付近でファンファーレを吹き、残りはグラウンドで演奏がありました。コンクールに、応援に、開会式にと大忙しです。

吹奏楽部員にとっても暑い夏です。市尼崎高野球部の健闘もお祈りします。


コメント一覧

まっくろくろすけ
eco坊主さん、こんばんは。
市尼崎高惜しかったですね。あと一歩でした。

今大会は岡山・創志学園と南北海道・クラーク記念国際高が兄弟校であり、その大兄貴分の環太平洋大学のマーチングバンドが両校を応援するそうです。

今年の夏の予選ではプレーも見ていましたが、スタンドの応援風景も良く見ていました。やっぱり、良いものですね。

そうですねえ、私は妄想にふけっているくらいでしょうか・・・
eco坊主
おはようございます(*Ü*)ノ"☀

よく友情応援というのは聞きますね。
甲子園遠くの学校にはありがたいことでしょう!
その背景や経緯はあまり知る由もなかったのですが・・
ありがとうございます。

楽器ができるというのもいいですね。
私は自分の頭は叩けてもドラムは叩けませんし
ホラは吹けてもトランペットは吹けません。体は老けていますが・・
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