【京者の凄みについて
~ さらに深掘りする の巻】
「京の味」抄の続きーー。
もう半歩踏み出せば、信長は料理人を殺しただろう。
が、きわどさのなかで芸当をしてのけた。
「そこが京都人の典型や」
司馬遼太郎は、席にいた人の一言に感心したのである。
が、京都人であるA氏は、
「いや、まだ坪内は修業したらん京者や。
本物の京者というのはもっと凄い」という。
A氏のいう本物の京者とは、こういうばあい、
二度の膳を出したあと、恐懼して感嘆するはずである、
というのである。
「おそれ入りましてござりまする。
二度目の味がおよろしゅうございましたとは、
料理人としてまたとない勉強をさせていただき、
これほどうれしいことはございませぬ」
というはずである、とA氏はいう。
批評の凄みはそこに成立するわけで、
相手をほめるだけほめあげて
いよいよ田舎者に仕立て、
しかも自分自身を安全な場所にひっこめてゆく。
坪内はこういう芸にまで至っていない、
という。
そのぶんだけ坪内はまだ田舎者である というのである。
この議論はおもしろかった。
この議論で考えてゆけば、
千利休もまだまだ都の修業の足りなかった田舎者であった
といえるかもしれない。
京者の精神は、平家物語にも出てくる。(中略)
それにしても、京都人は こと文化に関するかぎり、
本音の底にはひどくはげしいものを秘めているようにおもう。
「ちかごろ東京に関西料理が進出して、
東京の味もだいぶ変わったようですね」
と、ある京都の料理通にいったことがある。
その料理通は、おだやかに、
「そら、よろしおすな。
東京もそろそろ都になって 百年どすさかいな」
と、答えた。(中略)
これほど痛烈な批判はないのだが、
しかし語り手はあくまでもおだやかで、
微笑をたたえて玉のようなのである。
このあたりに京があるらしい。<了>
◇
京都に6年半だけ棲んだ田舎者(漂流男)には
背筋に寒気が走るような話である。
だから京都は、時々遊びにいくぐらいが ちょうどいい。
「おうち生活」のTVでグルメ探訪番組が増え
食レポで「アー、美味し~い」なんて
そのまんまを口にする芸能人が多い。
京の味にだけは、お止めなったほうがよろし、
と、つぶやくところである。
翻って、
得意げに古典引用やら、自説展開やら
博覧強記を気取っているブロガーにも、
これはあてはまるのかもしれぬ。
(小人の説や怪しげな故事来歴のネタ本や孫引きによる故)
市井の物書きには耳が痛いことを
バッサリと口にする切れ者もいる。
とかく この世は、棲みずらい。
人間は
誰でも考えている
インテリだけが
自慢しているのだ
シモーヌ・ド・ボーヴォワール
▲鶏