【向井去来「旅寝論」より
~ よき師匠を選び、師事することが大事
~ 然るに、よき教師、一日にしてならず の巻】
「師によらず、流派によらず、数多く作句して
絶えず進歩しようとする人が上手くなる
というから、師匠の伝授など不要ではないのか」
との質問があった。
去来は、答えて展開する。
「師は針のごとく、
弟子は糸のごとし。
針ゆがむ時は糸ゆがむ。
此故に古より師を選むを肝要とす」
続けて、
よい先生に巡り合ったとしても
本人が努力を怠り
現状に安住すれば進歩はない。
きのふの我に飽く、という
心構えが大事なのだ、と説いた。
芭蕉の下で育った弟子たちの多くも
師の没後に自己の立場に安住してしまった。
師の真意を理解した者が少なかったのである。
向井去来(むかい・きょらい、1651~1704年) 江戸前期の俳諧師。蕉門十哲の一人。武芸に優れていたが、若くして士分を捨て、京都・嵯峨野の落柿舎に棲む。芭蕉はここで「嵯峨日記」を執筆した。
今年、本拠地碁会の余興で、級位者向け勉強会を企画した。
会の高手たちに講師を依頼するも、軒並み辞退されてしまう。
あるツテで非会員の五段免状取得者が協力してくれることになり、
不肖 漂流男が司会と講師補佐役を務めることにした。
級位の頃を思い出し、あれこれ調べてはテキストを手作りした。
ところが、参考にした級位者向けの問題に、しばしばつまづく。
ちょちょいのちょいと出来るはずが、そう甘くはないのだ。
「基本のキ」が出来ていないことを思い知らされる。
師匠は弟子の十倍二十倍も知らねば、務まらないもの。
まして高い席から講釈を垂れ、質問に詰るようでは恥さらし。
教えるための調べものが、自分の勉強になっていった。
ブログ執筆もそうだが、アウトプットがインプットの原動力になる。
勉強したいなら受講者より講師になるに限るとしたものだ。
こんな旨い話はそうない。来年も、やるぞ。